← Library‹ 柳橋物語 後篇 五

正月しょうがつに来きたきり音おとも沙汰さたもなかったので、――忘わすれたというのではないがちょっとどきっとした。いつものとおり草鞋わらじと足袋たびを自分じぶんで干ほして、足あしを洗あらってあがった松造しょうぞうは、そこに寝ねているおもんの姿すがたを見みると、眉まゆをしかめた。――蒼あおざめて土色つちいろをした膚はだ、茫々ぼうぼうとかぶさった艶つやのない髪かみ、おち窪くぼんだ頬ほおと尖とがった鼻はな、いぎたなく手足てあしを投なげだした寝ねざま。誰だれが見みても眼めをそむけたくなるあさましい恰好かっこうである。松造しょうぞうは麦藁むぎわらで作つくった兎うさぎの玩具がんぐを幸太郎こうたろうに与あたえ、莨たばこ入いりをとりだしながらおせんの顔かおを見みた。

「あたしのお友達ともだちですの」おせんはとりなすように小ちいさな声こえで云いった、「――お針はりにいっていたじぶんの仲良なかよしなんです、ゆうべひどく酔よって来きて苦くるしそうだったもんですから」

松造しょうぞうは黙だまって莨たばこをいっぷくした。それから立たっていって土間どまへおり、持もって来きた包つつみをそこへひろげた。大根だいこんや蕪かぶや人参にんじんや里芋さといもなどの野菜やさい物ぶつに、五ご升しょうばかりの米べいと小豆あずきと胡麻ごまと、ほかに切きった白しろい餅もちが、かなりたくさんあった。

「寒かんの水みずで搗ついたから黴かびやしめえと思おもうが、水餅みずもちにして置おくほうがいいかもしれねえ」まるで怒おこったような声こえで彼かれはそう云いった、「――もっと早はやく来くるつもりだったが、あれから足あしを病やんだもんで……」

「足あしをどうかなさったんですか」

「冬ふゆになると痛いたむだ、大たいしたことじゃねえ、二三にさん年ねん出でなかったっけが、――水みずのあとの無理むりが祟たたったらしい、死しんだ親父おやじもこうだった」

そんな話はなしをしているとおもんがむっくり起おきた。そして黙だまってよろよろと土間どまへおりた、おせんが吃驚びっくりしてついてゆくと、ばらばらに髪かみのかぶさった顔かおでこっちへ振返ふりかえり、

「なんだいあの田舎者いなかものは、あれがおせんちゃんの旦那だんなかい」

こう云いって激はげしく咳せきこみ、そのまま向むこうへ去さっていった。苦くるしそうな精せいのない咳せきのこえが、ずっと遠とおくなるまで聞きこえていた。松造しょうぞうはなにも云いわずに莨たばこを吸すっていた、おもんの言葉ことばなどはまるで聞きこえなかったように。――夕餉ゆうげのしたくをするとき、彼かれは幸太郎こうたろうを抱いだいて外そとへ出でていった。半刻はんときばかり表通おもてどおりのほうを歩あるいて来きたらしい、したくが出来できて膳立ぜんだてをしていると、橋はしのところで彼かれの唄うたうこえがした。

「――向むこう山やまで鳴なく鳥とりは、ちゅうちゅう鳥とりかみい鳥とりか、源三郎げんざぶろうの土産みやげ、なにょうかにょう貰もらって、金きんざし簪かんざしもらって……」

おせんは立たっていって切窓きりまどの隙すきからそっと覗のぞいてみた。曇くもり日びの、もう黄昏たそがれかかる時刻じこくで、家いえと家いえに挾はさまれた僅わずかな空地くうちには冷つめたく錆さびたような光ひかりが漲みなぎっていた。松造しょうぞうはこっちへ髭ひげの濃こい横顔よこがおを向むけ、遠とおい空そらを仰あおぐようなかたちで唄うたっている。幸太郎こうたろうは頭あたまを男おとこの肩かたに凭もたれさせ、身動みうごきもせずうっとりと聞きき惚ほれていた。――おせんは、ふと眼めをつむった、松造しょうぞうの声こえにはいろもつやもない、節ふしまわしもぶっきらぼうであった。けれどもじっと聞きいていると、懐なつかしい温あったかい感情かんじょうが胸むねにあふれてくる。文句もんくも初はじめて聞きくものではあったが、記憶きおくのどこかに覚おぼえのあるような気きがする。……つむった眼めの裏うらに母親ははおやのおもかげが浮うかんだ、九ここのつの年としに亡なくなった母ははの、いつも寝ねたり起おきたりしていた病身びょうしんらしい蒼白あおじろい顔かお、――その母ははが自分じぶんを抱いだいて、背中せなかを叩たたきながら唄うたって呉くれている。向むこう山やまに鳴なく鳥とりは、ちゅうちゅう鳥とりかみい鳥とりか。おせんは切窓きりまどに倚よりかかって両手りょうてで面おもてを掩おおいながら噎むせびあげた、外そとではなお暫しばらく松造しょうぞうの唄うたうこえが聞きこえていた。

その夜よるまた泊とまって明あくる朝あさ。松造しょうぞうは草鞋わらじを穿はいてから思おもいついたように、お常つねの風呂敷ふろしき包ほうにある物ものは使つかえたらおまえが使つかうがいいと云いった。それから、おせんのことは亡なくなった勘かん十じゅうからも聞きいていたし、こっちへ来きて友助ともすけから聞きいたこともある、いろいろ事情じじょうがあるらしいが、自分じぶんはそれに就ついてどんな意見いけんも持もってはいない。だがお常つねがひき取とって世話せわをした、その気持きもちを亡なくなった者もののために続つづけてやりたいのである。自分じぶんたちは三さん人にん兄妹きょうだいであったが、下したの妹いもうとを火事かじでとられお常つねを水みずでとられて、とうとう自分じぶんひとりになってしまった。これも約束やくそくごとというようなものだろうが、――そういう意味いみのことを溜息ためいきまじりに、ぶあいそな調子ちょうしで述懐じゅっかいしていった。おせんはつよい感動かんどうを与あたえられた、今いままでわからなかった松造しょうぞうの気持きもちがわかったばかりではない、それは亡なくなったお常つねの親切しんせつが続つづいているのである、正気せいきを失なくして道みちに飢うえていた自分じぶんを拾ひろい、飲のみ食くい着きる物ものの面倒めんどうをいとわず、丈夫じょうぶになるまで親身しんみに世話せわをして呉くれた、その妹いもうとの気持きもちを続つづけて呉くれるというのだ。……友助ともすけ夫妻ふさいに離はなれられ、お地蔵じぞうさまの縁日えんにちの事ことがあってからは近所きんじょで口くちをきく者ものもない。自分じぶんはたった独ひとりだと思おもっていた。松造しょうぞうの親切しんせつもどこまで真実しんじつであるか、いつまで続つづくものかはわからない、しかしとにかく今いまは自分じぶんの味方みかたである、自分じぶんのためになにかをして呉くれようとしている。どんなに世間せけんからみすてられても、生いきていればやっぱり人間にんげんは独ひとりではなかった。――感動かんどうのあとの温あたたかい気持きもちで、世よの中なかや人間にんげん同志どうしのつながりのふしぎさを、おせんはしみじみと思おもいめぐらすのであった。

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