← Library‹ 柳橋物語 後篇 七

森田もりた町まちからはいって三味しゃみ線せん堀ほりについてゆくのが、阿部あべ川かわ町まちへはいちばん近ちかい道みちである。秋あきとはいってもまだ日中にっちゅうは暑あつかった、乾かわいた道みちは照てり返かえしてぎらぎらと輝かがやき、あるかなきかの風かぜにも埃ほこりが舞まい立たつので、おせんの足あしは忽たちまち灰色はいいろになってしまった。なにか口くちのなかで呟つぶやいている、ときどきそう気きがついたけれども、なにを呟つぶやいているのか自分じぶんでもわからないし、頭あたまが混乱こんらんして考かんがえを纏まとめることもできない。ただ追おわれるような不安ふあんと苛立いらだたしさ、息苦いきぐるしいほどの激はげしく強つよい動悸どうきだけが、今いまそこに自分じぶんの在あることを示しめしているような気持きもちだった。

頭梁は山形やまがた屋やというのであった。家いえは寺町てらまちへぬける中通なかどおりの四よつ角かどにあり、さして大おおきくはないが総そう二に階かいで、白壁しらかべに黒くろい腰こし羽目はめのがっちりした造つくりだった。大工だいくの頭梁の家いえというより、てがたい問屋とんやの店みせという感かんじである。おせんはその前まえを眺ながめながら通かよった、それから十じゅう間けんばかり先さきにあるかもじ屋やへはいって、油あぶら元結もとゆいを買かいながら、庄吉しょうきちのことを訊きいた。店みせにいた老婆ろうばは少すこし耳みみが遠とおいようだったが、訊きかれたことがわかると舌ぜつったるい口くちでくどくど話はなしだした。おたかの云いったことは嘘うそではなかったのである、庄吉しょうきちは気性きしょうと腕うでをみこまれて山形やまがた屋やの婿むこ養子ようしになった、六ろく月がつの十じゅう幾いく日かとかに祝言しゅうげんもして、夫婦ふうふ仲なかも羨うらやましいということであった。

「お加代かよさんも評判ひょうばんむすめだったけれどねえおまえさん、お婿むこさんもそれあよく出来できたひとで、腕うではいいしおまえさん、腰こしは低ひくいしねえ、なにしろちょっとのま来きているうちに、職人しょくにん衆しゅうみんなから、兄哥あにいあにいって立たてられるしさ、あたしみたいな者ものにもおまえさん、道みちで会あうと向むこうから声こえをかけて呉くれて――」

おせんはそこを出でて、ちょっと考かんがえたのち、戻もどって四よつ角かどを左ひだりへ曲まがり、みかけた筆ふで屋やへはいってまた同おなじことを訊きいた。そのあとでさらに二に軒けんばかり訊きいたらしい。――幾いくたび訊きいても事実じじつに変かわりはなかったが、おせんにはどうしても信しんじられないのである。

――だってあたしという者ものがいるじゃないの、きっと待まっていて呉くれって、庄しょうさんが自分じぶんの口くちからはっきり云いったじゃないの。

そして自分じぶんは待まっていた。今いまでもこのとおりちゃんと待まっているではないか、それなのにほかのひとを嫁よめに貰もらう筈はずがあるだろうか。いやそんな筈はずは決けっしてない、庄しょうさんに限かぎってそんなひどいことをする気遣きづかいはない、どこかでなにかが間違まちがっているんだ、その間違まちがいをうっちゃっておいてはたいへんなことになる。そういう気持きもちで飽あきずに訊ききまわったのだ。――家いえへ帰かえったのは日ひの傾かたむいたじぶんで、幸太郎こうたろうがひどく泣ないていた。おもんは床ゆかの上うえに起おき、あやし疲つかれたのだろう、前まえに玩具がんぐを並ならべたまま途方とほうにくれたような顔かおをしていた。おせんは気きぬけのした者もののように、おもんにはろくろくものも云いわず、すぐに幸太郎こうたろうを負おって夕餉ゆうげのしたくを始はじめた。

「おせんちゃんごめんなさいね、幸みゆきちゃん泣なかせて悪わるかったわ」夕飯ゆうはんのときおもんはこう云いった。

「――ずいぶんだましたんだけれど、しまいにはああちゃんああちゃんって追おってきかないのよ、頼たのまれがいもなくって済すまなかったわ」

「なんでもないのよ、そばにくっついてばかりいたから……」

無む表情ひょうじょうにこう答こたえたまま、おせんは黙だまって箸はしを動うごかしていた。いつもと人ひとが違ちがったようである。顔色かおいろも悪わるいし眼めが異様いように光ひかっていた。食事しょくじのあともとぼんとして、おもんが注意ちゅういするまで月見つきみの飾かざりも忘わすれていた。

「あんたどこか悪わるいんじゃなくって、おせんちゃん、それともなにか厭いやなことでもあったの」

「どうして、――あたしなんでもないわよ」

そう云いって振返ふりかえる眼めが、おもんを見みるのではなくずっと遠とおいところをみつめるような眼めつきだった。あんまりおかしいので、寝ねるときもういちど訊きいてみた、するとおせんは眉まゆをしかめながら突つっ放ぱなすようにこう云いった。

「お願ねがいだから黙だまっててよ、それでなくっても頭あたまがくちゃくちゃなんだから」

そして夜中よなかに幾いくたびも寝言ねごとを云いった。

明あくる日ひ、朝あさの食事しょくじが終おわるとすぐ、あと片付かたづけもせずにおせんは出でていった。石いしのように硬かたい顔かおつきで、幸太郎こうたろうを負おって、――帰かえったのはうす暗ぐらくなってからだった。よほどなが歩あるきをした者もののように、足あしから裾すそまで埃ほこりだらけになり、帰かえるといきなり上あがり框かまちへ腰掛こしかけたまま、暫しばらくはなにをする力ちからもないというようすだった、幸太郎こうたろうは首くびのもげそうな恰好かっこうで、くたくたになって背中せなかで眠ねむっていた。……翌日よくじつも、その翌日よくじつも同おなじことが続つづいた。なにをしにどこへゆくかは知しらなかったが、おもんは幸太郎こうたろうが可愛かわいそうになったので、自分じぶんがみるから置おいてゆくようにと云いった。するとおせんはすなおに置おいていった。

「今日きょうはすぐ帰かえるわね、もうあらまし用ようは済すんでいるんだから、今日きょうは早はやく帰かえって来くるわ」

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