森田町からはいって三味線堀についてゆくのが、阿部川町へはいちばん近い道である。秋とはいってもまだ日中は暑かった、乾いた道は照り返してぎらぎらと輝き、あるかなきかの風にも埃が舞立つので、おせんの足は忽ち灰色になってしまった。なにか口のなかで呟いている、ときどきそう気がついたけれども、なにを呟いているのか自分でもわからないし、頭が混乱して考えを纏めることもできない。ただ追われるような不安と苛立たしさ、息苦しいほどの激しく強い動悸だけが、今そこに自分の在ることを示しているような気持だった。
頭梁は山形屋というのであった。家は寺町へぬける中通りの四つ角にあり、さして大きくはないが総二階で、白壁に黒い腰羽目のがっちりした造りだった。大工の頭梁の家というより、てがたい問屋の店という感じである。おせんはその前を眺めながら通った、それから十間ばかり先にあるかもじ屋へはいって、油元結を買いながら、庄吉のことを訊いた。店にいた老婆は少し耳が遠いようだったが、訊かれたことがわかると舌ったるい口でくどくど話しだした。おたかの云ったことは嘘ではなかったのである、庄吉は気性と腕をみこまれて山形屋の婿養子になった、六月の十幾日とかに祝言もして、夫婦仲も羨ましいということであった。
「お加代さんも評判むすめだったけれどねえおまえさん、お婿さんもそれあよく出来たひとで、腕はいいしおまえさん、腰は低いしねえ、なにしろちょっとのま来ているうちに、職人衆みんなから、兄哥あにいって立てられるしさ、あたしみたいな者にもおまえさん、道で会うと向うから声をかけて呉れて――」
おせんはそこを出て、ちょっと考えたのち、戻って四つ角を左へ曲り、みかけた筆屋へはいってまた同じことを訊いた。そのあとでさらに二軒ばかり訊いたらしい。――幾たび訊いても事実に変りはなかったが、おせんにはどうしても信じられないのである。
――だってあたしという者がいるじゃないの、きっと待っていて呉れって、庄さんが自分の口からはっきり云ったじゃないの。
そして自分は待っていた。今でもこのとおりちゃんと待っているではないか、それなのにほかのひとを嫁に貰う筈があるだろうか。いやそんな筈は決してない、庄さんに限ってそんなひどいことをする気遣いはない、どこかでなにかが間違っているんだ、その間違いをうっちゃっておいてはたいへんなことになる。そういう気持で飽きずに訊きまわったのだ。――家へ帰ったのは日の傾いたじぶんで、幸太郎がひどく泣いていた。おもんは床の上に起き、あやし疲れたのだろう、前に玩具を並べたまま途方にくれたような顔をしていた。おせんは気ぬけのした者のように、おもんにはろくろくものも云わず、すぐに幸太郎を負って夕餉のしたくを始めた。
「おせんちゃんごめんなさいね、幸ちゃん泣かせて悪かったわ」夕飯のときおもんはこう云った。
「――ずいぶんだましたんだけれど、しまいにはああちゃんああちゃんって追ってきかないのよ、頼まれがいもなくって済まなかったわ」
「なんでもないのよ、そばにくっついてばかりいたから……」
無表情にこう答えたまま、おせんは黙って箸を動かしていた。いつもと人が違ったようである。顔色も悪いし眼が異様に光っていた。食事のあともとぼんとして、おもんが注意するまで月見の飾りも忘れていた。
「あんたどこか悪いんじゃなくって、おせんちゃん、それともなにか厭なことでもあったの」
「どうして、――あたしなんでもないわよ」
そう云って振返る眼が、おもんを見るのではなくずっと遠いところをみつめるような眼つきだった。あんまりおかしいので、寝るときもういちど訊いてみた、するとおせんは眉をしかめながら突っ放すようにこう云った。
「お願いだから黙っててよ、それでなくっても頭がくちゃくちゃなんだから」
そして夜中に幾たびも寝言を云った。
明くる日、朝の食事が終るとすぐ、あと片付けもせずにおせんは出ていった。石のように硬い顔つきで、幸太郎を負って、――帰ったのはうす暗くなってからだった。よほどなが歩きをした者のように、足から裾まで埃だらけになり、帰るといきなり上り框へ腰掛けたまま、暫くはなにをする力もないというようすだった、幸太郎は首のもげそうな恰好で、くたくたになって背中で眠っていた。……翌日も、その翌日も同じことが続いた。なにをしにどこへゆくかは知らなかったが、おもんは幸太郎が可愛そうになったので、自分がみるから置いてゆくようにと云った。するとおせんはすなおに置いていった。
「今日はすぐ帰るわね、もうあらまし用は済んでいるんだから、今日は早く帰って来るわ」