霜月はじめの或る日、向うの飛脚屋の店にいる権二郎という若者が、買い物に出たおせんのあとを追って来て手紙を渡した。「杉田屋にいた庄さんから頼まれてね」と、彼はにやにやしながら云った。
「まあ」おせんはかっと胸が熱くなった。
「……どこで、この手紙どこで頼まれたの」
「大阪でひょっくりぶっつかったんだ、そうしたらこれを内証で、おせんに渡して呉れと云われてね、元気でやっているからってさ」
「そう有難う、済みません」
権二郎はまだなにか云いたそうだったがおせんは逃げるように彼から離れていった。……山崎屋はさして大きくはないがともかく三度飛脚で、大阪の取組先があり若者も五人ばかり使っていた、権二郎はその一人だが、用達には誰よりも早く、十日限、六日限などという期限つきの飛脚は彼の役ときまっているくらいなのに、酒癖が悪くて時どき失敗し、店を逐われてはまた詫びを入れて戻るという風だった。「どうして庄さんはあんな人に頼んだのかしら」おせんは買い物をして家へ帰るまでそれが気になった、「……また酒にでも酔って、近所の人にでも話されたらどうしよう、そんなことのないようにしては呉れたろうけれど、あの人の酒癖を知っていたらよして呉れればよかった」たぶん遠いところで同じ土地の者に会ったなつかしさと、手紙を内証で渡したさについ頼んだものに違いない。そう考えたものの、おせんにはなにかよくないことが起こりそうに思え、どうしても不安な気持をうち消すことができなかった。
その夜お祖父さんが寝てから、おせんは行燈の火を暗くして手紙を読んだ。それはごく短いものだった。道中なにごともなく大阪へ着いたこと、道修町というところの建具屋へひとまず草鞋をぬぎ、いまその世話で或る普請場へかよっていること、江戸とは違って人情は冷たいが、詰らぬ義理やみえはりがなく、どんなに倹約な暮しでもできることなど簡単に記してあり、終りに「手紙の遣り取りなどすると心がぐらつくから当分は便りをしない。そちらからも呉れるな」ということが書いてあった。おせんは飽きるまで読み返した。もちろん、仮名ばかりだし、云いたいことの半分も表わせない、もどかしさの感じられる筆つきだったが、読むうちに異郷の空の寒ざむとした色がみえ、暗い街筋や橋や、乾いた風の吹きわたる埃立った道などが眼にうかんだ、そしてそういう風景のなかで、知り人もなく友もない彼が、たったひとり道具箱を肩にして道をゆき、どこかの暗い部屋の中でひっそりと冷たい食事をする、そういう姿が哀しい歌かなにかのように想像されるのであった。
自分では意識しなかったが、その手紙のおせんに与えた印象は決定的だった、突込んで云えばおせんは顔つきまで変った、庄吉を思うそれまでの感情は、十七になった少女のものでしかなかった、現実と夢とのけじめさえ定かならぬ、ほのかな憧憬に似てあまやかなものだった。然しその手紙を読み遠い見知らぬ土地と、そこでひたむきに稼いでいる彼の姿を想いやったとき、おせんの感情は情熱のかたちをとりだした、十七歳という年齢はもはや成長して達した頂点ではなく、そこからおんなに繋がる始点というべきものとなったのである。
或る日の午後、杉田屋から源六を呼びに使いが来た、そんなことは絶えてなかったし、用事もはっきりしないので、源六はちょっとゆき渋ったが、追っかけ催促があったのでやむなくでかけていった。……それは夕餉のあとだったが、一刻ほどすると赤い顔をして帰った。
「あらおよばれだったんですか」
「なにそうでもないんだが」上へあがるとき源六はふらふらした、「……これはひどく酔った」
「たいそうあがったのね、臭いわ」
「水を貰おうかな」
「床がとってありますから横におなりなさいな」
おせんはお祖父さんを援けて寝かしながら、老人が自分のほうを見ようとしないのに気づいた。なんとなくおせんの眼を避けているようだった。どうしたのかしら、水を汲んでゆきながらおせんは微かに不安を感じた。
「済まないもう一杯くんな」源六は湯呑の水をたてつづけに三杯もあおった、「……何百ぺん云っても酔醒めの水はうまいもんだ、若いじぶんまだ酒の味を覚えはじめた頃だったが、酔醒めの水のうまさを味わうために、まだうまくもない酒を呑んだことさえあった」
「ねえお祖父さん」と、おせんは源六の眼をみつめながら云った、「……杉田屋さんではなにか御用でもあったんですか」
「そうなんだ」源六はなにか思案するように、ちょっと間を置いて頷いた、それから仰向けに寝たままで、しずかにこちらへ顔を向けた、「……話というのはな、おせん、正直に云ってしまうが、おまえを嫁に呉れということなんだ」
まあとおせんは打たれでもしたように片手で頬を押えた。源六はそれを見て眉をしかめ、良心の苛責を受ける者のように眼を伏せた。そして重たげに身を起こし、自分で湯呑に水を注いで喉を鳴らしながら飲んだ。
「それで、お祖父さんは、どう返辞をなすったの」
「おまえには済まないが断わった」
「…………」