いろいろなことがわかった。母親が死んだあと、父やお祖父さんが杉田屋へやりたがらなくなったこと、あんなに親しくしていたのに、杉田屋の小父さんは決してうちへ来なかったこと、そして父が亡くなるとすぐお祖父さんが店をたたんでこっちへ移転したことなど……これらのなかでいちばんおせんの胸にこたえたのは、「……どんなことがあってもおせんを杉田屋へ遣らないように」という母親の言葉だった。お祖父さんはそれを貧しい者の意地だと云ったが、おせんはそうは考えなかった、杉田屋はおっ母さんが嫁に望まれたのを断わった家だ、自分の選ばなかった人に自分の娘を託すことができるだろうか、意地ではなかった、もっと純粋な女の誇りだったというべきである、おせんには母親の気持が手でさぐるようにわかるのだった。
「お父っさんもおっ母さんもずいぶん苦労したようだ、贅沢などということはいちどもできなかったかも知れない、でもお互いに好きあっていっしょになったのだもの、貧乏も苦労もきっと仕がいがあったに違いない、お祖父さんの云うとおりもし人間が苦労するように生れついたものなら、ほんとうに心から好き同志がいっしょになって、互いに、慰めたり励ましたりしながら、つつましく生きてゆける仕合せに越したものはない、おっ母さんが亡くなって四年目にお父っさんも死んだ、そんなにも好き合っていたんだから、お二人ともきっと満足していらっしゃるに違いないわ」
おせんはそれを疑わなかった、なぜなら、彼女もいま人から愛され、自分もその人を愛していたからである。
外へ出るときには、おせんはきまって柳河岸を通った。柳はすっかり裸になり、川水は研いだような光を湛えて、河岸の道にいつも風が吹きわたっていた。おせんはいっとき柳の樹のそばに佇む、それはいつか庄吉が肩を凭せていたあの柳である、すでに何年か昔のようにも思えるし、つい昨日のことのようでもあった、蒼ざめた庄吉の顔がたそがれの光のなかで顫え、つきつめた烈しいまなざしでこっちを見ていた。激してくる情をじっと抑えながら、あたりを憚るように囁いた言葉の数かず、……庄さん、とおせんは幾たびも口のうちで呼びかけるのだった、あたしたちもお父っさんやおっ母さんのようにきっといっしょになって、二人でどんな苦労にも耐えてゆきましょうね、おせんは待っていてよ、庄さんの帰って来るまでは、どんなことがあってもきっと待っていてよ。
寒さの厳しい年だった。師走にはいると昼のうちでも流し元の凍っていることが多く、うっかり野菜などしまい忘れると、ひと晩でばりばりに凍ることが度たびだった。……杉田屋の幸太がしげしげ店へ来はじめたのは、その頃からのことだ、年が詰ってきたのでほかの職人たちは姿をみせなかったが、幸太はなにか口実をみつけては訪ねて来た。源六はべつに愛相も云わないし冷淡にあしらうこともなく、求められれば気持よくいつものとおり昔ばなしをした。
「そういう風にまっすぐに生きられればいいな」幸太は話を聞きながらよくそう云った、性質のはっきり現われている線の勁い彼の顔が、そんなときふと思い沈むように見えることがあった。
「……この頃の職人はなっちゃあいないよ、爺さん、一日に三匁とる職人が逆目に鉋をかけて恥ずかしいとも思わない、ひどいのになると尺を当てる手間を惜しんで押っ付けて鋸を使うんだ、そのうえ云いぐさが、そんなくそまじめな仕事をしていたら口が干上ってしまうぜ、こうなんだ」
「それは今にはじまったことじゃあないのさ」と源六は穏やかに笑う、「……どんなに結構な御治世だって、良い仕事をする人間はそうたくさんいるもんじゃあない、たいていはいま幸さんの云ったような者ばかりなんだ、それで済んでゆくんだからな、けれどもどこかにほんとうに良い仕事をする人間はいるんだ、いつの世にも、どこかにそういう人間がいて、見えないところで、世の中の楔になっている、それでいいんだよ、たとえば三十年ばかりまえのことだったが……」
こうしてまた昔語りが始まるのだった。
幸太が来ているとき、おせんはなるべく店へ出ないようにした。偶に顔が合うと、幸太はきまって眼で笑いかけた。粗暴な向う気の強い彼には珍しく、おとなしいというよりはなにか乞い求めるような表情だった。あの人はなにか考えているのだろう、お祖父さんがはっきり断わったというのに、まだあたしのことをなんとか思っているのかしら、……おせんは彼のそういう眼つきが不愉快で、いつもすげなく顔をそむけ、さっさと台所のほうへ去って来るのだが、幸太はそれで気を悪くするようすもなく、殆んど三日にあげずやって来ては話しこんでいった。
おせんはその前の年の春から、午まえだけお針の稽古にかよっていた。そこは大通りを越した福井町の裏にあり、お師匠さんはよねという五十あまりの後家で、教えるのは嫁入り前の娘にかぎられていた。おせんは無口でもあり、家も貧しかったから、そこではかくべつ親しくする者もなかった。出入りの挨拶をするほかは世間ばなしにも加わらず、たいてい隅のほうに独りで坐っていた。娘たちもしいて馴染もうとはしなかったが、そのなかで天王町のほうから来るおもんという娘だけは、しきりにおせんに近づきたがった。家は油屋だそうで、年は同じ十七だった、丸顔の色は黒かったが、眼と唇のいつも笑っているような、明るい人なつっこい性質である。……その月の半ばも過ぎた或る日、稽古をしまって帰ろうとすると、おもんが追って来てそこまでいっしょにゆこうと云った。
「だって道がまるで違うじゃないの」
「いいのよまわり道をするから」おもんは肩をすり寄せるようにした、「……ちょっとあんたに話があるの」
おせんは身を離すようにして相手を見た、おもんはなにか気がかりなことでもあるように、じっとこちらを見かえしながら「あんた杉田屋の幸太さんという人を知っていて」と云いだした。おせんは思いがけない人の名が出たので、なにを云われるかとちょっと不安になった。
「知っていてよ、それがどうかしたの」