酔ってした約束なのでどうかと思っていたが、幸太はそれから遠のきはじめ、たまに来てもちょっと立ち話をするくらいで、すぐに帰ってゆくようになった。
二月になって赤穂浪士たちに切腹の沙汰があった。去年からひき続いての評判が、もういちど、江戸の街巷をわきたたせ、春の終るころまで瓦版や、絵入りの小冊子類がいろいろと出た。おせんもその二三種を買い、仮名を拾いながら読んでみたが、どれもこれも公儀を憚って時代や人名を変えてあるし、まるっきり作りごとのようで、心をうつものは無かった。……こうして夏になった、六月はじめの或る日、お針の稽古を終って帰って来ると、源六が昼食のしたくをして待っていた。
「さっき状がまわって来て、きょう茶屋町の伊賀屋でなかまの寄合があるというんだ、飯をたべたらちょっといって来るからな」
「帰りはおそくなるんですか」
「ながくったって昏れるまでには帰れるだろう、台所に泥鰌が買ってあるから、晩飯にはあれで味噌汁を拵えておいて呉んな」
「あら泥鰌があったんですか、それじゃあお酒も買っておきましょうね」
「酒は寄合で出るだろうが」
「でも初ものだから無くっては淋しいでしょう」
話しながら食事を終ると、源六は着替えをして出ていった。久しぶりで店があいたので、おせんは一刻もかかって掃除をし、床板の隅ずみまで丹念に拭きあげた。それから酒を買って来て、火をおこし、笹がき牛蒡を作って泥鰌を鍋に入れ、酒で酔わせて、味噌汁にしかけてから、坐って縫物をとりひろげた。……昼のうちは風があって凌ぎよかったが、日の傾きだす頃からぱったりと風がおち、昏れかかると共にひどく蒸しはじめた。
「お祖父さんのおそいこと」手許が暗くなりだしたので、おせんはそう呟きながら縫物を片づけ、膳立てをするために立った。汁のかげんはちょうどよかった、いちど下ろして、燗をする湯を掛け、漬物を出した。もう帰りそうなものだと思いながら、足音のするたびに勝手口の簾を透かして見た、然しすっかり昏れて行燈の火をいれても源六の帰るようすはなかった、「……どうかしたのかしら、少しおそすぎるわね」すっかり支度のできた膳を前にして、おせんはふと、もの淋しい気持におそわれた。……大川端の茶店には、もう涼み客が出はじめたのであろう、時どき三味線の音や、人のざわめきが遠く聞えてくる、そのもの音の遠さと賑やかさは、まるで過去からの呼びごえのように遙かで、夏の宵の侘しさをいっそう際だてるように思えた。
「そこだそこだ、その障子の立ててある家がそうだ」
とつぜん表のほうでそういう声がした。
「……いま明けるからそのまま入れよう、しずかにしずかに」
そして誰かが店の障子を明けた。おせんは不吉な予感にぎょっとしながら立った。入って来たのは同じ研屋なかまの久造という人だった。おせんの眼はその人よりも、そのうしろに四五人の男たちが、蔽いを掛けた戸板を担いでいるのを見た、そして思わずあっと叫びごえをあげた。
「騒いじゃあいかねえおせんちゃん」久造は両手で彼女を押えるようにした、「……たいしたことはないんだ、ちっとばかり酒が過ぎて立ちくらみがしただけなんだ、もう医者にもみせたしなにしてあるんだから、心配しないでとにかく先ず寝床をとって呉んな」
おせんは返辞もできず、なかば、夢中ですぐに寝床を敷いた。久造が指図をして、男たちは上まで戸板を舁ぎあげ、まるで意識のない源六を床の上へ寝かした。……久造はその枕許へ坐ったがおちつかぬようすで、汗を拭き拭き始終を語った、源六は寄合の席へ来たときから顔色が悪かった、酒が出てからもどこやら沈んだようすをしているので、たぶん暑気に中ったのだろうから熱燗で一杯やるがいいとすすめ、自分でもその気になって呑みだした。それから少し元気が出て、みんなと話しながらかなり呑んだが、やがて手洗いに立とうとしていきなりどしんと倒れてしまった。
「そう巌丈な躯でもないのだが、人間の倒れる音というものは大きなもので、階下からもびっくりして人が駆け上って来たくらいだ、みんなで呼び起こしたが、大きな鼾をかくばかりで返辞がない、とにかく頭を冷やしながら医者に来て貰った」久造はそこでまた忙しげに汗を拭いた、「……医者はいろいろ診たが、ごく軽い卒中だから案ずることはない、じっとして静かに寝ていればすぐ治るだろう、こう云って薬を置いて帰った、そういうわけなんだから決して心配することはない、わかったなおせんちゃん、決してよけいな心配はしなさんなよ」
おせんは乾いてくる唇を舐め舐め、黙って頷きながら聞いていた。そして彼らが薬を置いて去るときも、
「色いろおせわさまでした」
と云うだけが精いっぱいだった。……源六は微かに鼾をかきながら眠っていた、そっとして置くようにと云われたので、呼び起こしたいのをがまんしながら、おせんはじっと枕許に坐っていた。ほんとうに病気は軽いのだろうか、もしやこのままになってしまうのではなかろうか、たとえ死なないでも、卒中といえば寝たきりになることが多いという、そんなことになったらどうしよう、どうして暮していったらいいだろうか。幾たび考えても同じことを、おせんは繰り返し考え続けるのだった。然しやがて食事をしていないことに気づき、朝まで寝られないのだからと、しずかに立って膳に向ってみた。もちろん喰べられはしなかった。鍋の蓋をとって、泥鰌汁を掬おうとすると、昼間の元気なお祖父さんの姿が思いだされ、胸がいっぱいになってとうとう泣きだしてしまった。
明くる日は朝から見舞い客が来た。食事拵えや茶の接待は近所の人びとがして呉れた、そのなかでも、すぐ裏にいる魚屋のおらくという女房がいちばん手まめで、まるで自分の家のことのように気をいれて働いて呉れた。夜どおし寝なかったおせんは、午すぎになるとさすがに疲れが出た、みんなもすすめるし自分でも堪らなくなったので、隅のほうへ夜具を敷いて横になったが、すぐに熟睡して眼がさめたときはもう昏れかけていた。