← Library‹ 柳橋物語 前篇 五

酔よってした約束やくそくなのでどうかと思おもっていたが、幸太こうたはそれから遠とおのきはじめ、たまに来きてもちょっと立たち話ばなしをするくらいで、すぐに帰かえってゆくようになった。

二に月がつになって赤穂あこう浪士ろうしたちに切腹せっぷくの沙汰さたがあった。去年きょねんからひき続つづいての評判ひょうばんが、もういちど、江戸えどの街巷まちまちをわきたたせ、春はるの終おわるころまで瓦版かわらばんや、絵入えいりの小冊子こざっし類るいがいろいろと出でた。おせんもその二三にさん種しゅを買かい、仮名かなを拾ひろいながら読よんでみたが、どれもこれも公儀こうぎを憚はばかって時代じだいや人名じんめいを変かえてあるし、まるっきり作つくりごとのようで、心こころをうつものは無なかった。……こうして夏なつになった、六ろく月がつはじめの或ある日ひ、お針はりの稽古けいこを終おわって帰かえって来くると、源六げんろくが昼食ちゅうじきのしたくをして待まっていた。

「さっき状じょうがまわって来きて、きょう茶屋町ちゃやまちの伊賀屋いがやでなかまの寄合よりあいがあるというんだ、飯めしをたべたらちょっといって来くるからな」

「帰かえりはおそくなるんですか」

「ながくったって昏くれるまでには帰かえれるだろう、台所だいどころに泥鰌どじょうが買かってあるから、晩飯ばんめしにはあれで味噌みそ汁しるを拵こしらえておいて呉くんな」

「あら泥鰌どじょうがあったんですか、それじゃあお酒さけも買かっておきましょうね」

「酒さけは寄合よりあいで出でるだろうが」

「でも初はつものだから無なくっては淋さびしいでしょう」

話はなしながら食事しょくじを終おわると、源六げんろくは着替きがえをして出でていった。久ひさしぶりで店みせがあいたので、おせんは一刻いっときもかかって掃除そうじをし、床板ゆかいたの隅すみずみまで丹念たんねんに拭ふきあげた。それから酒さけを買かって来きて、火ひをおこし、笹ささがき牛蒡ごぼうを作つくって泥鰌どじょうを鍋なべに入いれ、酒さけで酔よわせて、味噌みそ汁しるにしかけてから、坐すわって縫物ぬいものをとりひろげた。……昼ひるのうちは風かぜがあって凌しのぎよかったが、日ひの傾かたむきだす頃ころからぱったりと風かぜがおち、昏くれかかると共ともにひどく蒸むしはじめた。

「お祖父そふさんのおそいこと」手許てもとが暗くらくなりだしたので、おせんはそう呟つぶやきながら縫物ぬいものを片かたづけ、膳立ぜんだてをするために立たった。汁しるのかげんはちょうどよかった、いちど下おろして、燗かんをする湯ゆを掛かけ、漬物つけものを出だした。もう帰かえりそうなものだと思おもいながら、足音あしおとのするたびに勝手口かってぐちの簾すだれを透すかして見みた、然しかしすっかり昏くれて行燈あんどんの火ひをいれても源六げんろくの帰かえるようすはなかった、「……どうかしたのかしら、少すこしおそすぎるわね」すっかり支度したくのできた膳ぜんを前まえにして、おせんはふと、もの淋さびしい気持きもちにおそわれた。……大川端おおかわばたの茶店ちゃみせには、もう涼すずみ客きゃくが出ではじめたのであろう、時ときどき三味線しゃみせんの音ねや、人ひとのざわめきが遠とおく聞きこえてくる、そのもの音おとの遠とおさと賑にぎやかさは、まるで過去かこからの呼よびごえのように遙はるかで、夏なつの宵よいの侘わびしさをいっそう際さいだてるように思おもえた。

「そこだそこだ、その障子しょうじの立たててある家いえがそうだ」

とつぜん表ひょうのほうでそういう声こえがした。

「……いま明あけるからそのまま入いれよう、しずかにしずかに」

そして誰だれかが店みせの障子しょうじを明あけた。おせんは不吉ふきつな予感よかんにぎょっとしながら立たった。入はいって来きたのは同おなじ研屋とぎやなかまの久造きゅうぞうという人ひとだった。おせんの眼めはその人ひとよりも、そのうしろに四よん五ご人にんの男おとこたちが、蔽おおいを掛かけた戸板といたを担かついでいるのを見みた、そして思おもわずあっと叫さけびごえをあげた。

「騒さわいじゃあいかねえおせんちゃん」久造きゅうぞうは両手りょうてで彼女かのじょを押おさえるようにした、「……たいしたことはないんだ、ちっとばかり酒さけが過すぎて立たちくらみがしただけなんだ、もう医者いしゃにもみせたしなにしてあるんだから、心配しんぱいしないでとにかく先まず寝床ねどこをとって呉くんな」

おせんは返辞へんじもできず、なかば、夢中むちゅうですぐに寝床ねどこを敷しいた。久造きゅうぞうが指図さしずをして、男おとこたちは上うえまで戸板といたを舁かつぎあげ、まるで意識いしきのない源六げんろくを床ゆかの上うえへ寝ねかした。……久造きゅうぞうはその枕許まくらもとへ坐すわったがおちつかぬようすで、汗あせを拭ふき拭ふき始終しじゅうを語かたった、源六げんろくは寄合よりあいの席せきへ来きたときから顔色かおいろが悪わるかった、酒さけが出でてからもどこやら沈しずんだようすをしているので、たぶん暑気しょきに中あたったのだろうから熱燗あつかんで一いち杯はいやるがいいとすすめ、自分じぶんでもその気きになって呑のみだした。それから少すこし元気げんきが出でて、みんなと話はなしながらかなり呑のんだが、やがて手洗てあらいに立たとうとしていきなりどしんと倒たおれてしまった。

「そう巌いわ丈たけな躯からだでもないのだが、人間にんげんの倒たおれる音おとというものは大おおきなもので、階下したからもびっくりして人ひとが駆かけ上のぼって来きたくらいだ、みんなで呼よび起おこしたが、大おおきな鼾いびきをかくばかりで返辞へんじがない、とにかく頭あたまを冷ひやしながら医者いしゃに来きて貰もらった」久造きゅうぞうはそこでまた忙いそがしげに汗あせを拭ふいた、「……医者いしゃはいろいろ診みたが、ごく軽かるい卒中そっちゅうだから案あんずることはない、じっとして静しずかに寝ねていればすぐ治なおるだろう、こう云いって薬くすりを置おいて帰かえった、そういうわけなんだから決けっして心配しんぱいすることはない、わかったなおせんちゃん、決けっしてよけいな心配しんぱいはしなさんなよ」

おせんは乾かわいてくる唇くちびるを舐なめ舐なめ、黙だまって頷うなずきながら聞きいていた。そして彼かれらが薬くすりを置おいて去さるときも、

「色いろいろおせわさまでした」

と云いうだけが精せいいっぱいだった。……源六げんろくは微かすかに鼾いびきをかきながら眠ねむっていた、そっとして置おくようにと云いわれたので、呼よび起おこしたいのをがまんしながら、おせんはじっと枕許まくらもとに坐すわっていた。ほんとうに病気びょうきは軽かるいのだろうか、もしやこのままになってしまうのではなかろうか、たとえ死しなないでも、卒中そっちゅうといえば寝ねたきりになることが多おおいという、そんなことになったらどうしよう、どうして暮くらしていったらいいだろうか。幾いくたび考かんがえても同おなじことを、おせんは繰くり返かえし考かんがえ続つづけるのだった。然しかしやがて食事しょくじをしていないことに気きづき、朝あさまで寝ねられないのだからと、しずかに立たって膳ぜんに向むかってみた。もちろん喰たべられはしなかった。鍋なべの蓋ふたをとって、泥鰌汁どじょうじるを掬すくおうとすると、昼間ひるまの元気げんきなお祖父そふさんの姿すがたが思おもいだされ、胸むねがいっぱいになってとうとう泣なきだしてしまった。

明あくる日ひは朝あさから見舞みまい客きゃくが来きた。食事しょくじ拵こしらえや茶ちゃの接待せったいは近所きんじょの人ひとびとがして呉くれた、そのなかでも、すぐ裏うらにいる魚屋さかなやのおらくという女房にょうぼうがいちばん手てまめで、まるで自分じぶんの家いえのことのように気きをいれて働はたらいて呉くれた。夜よどおし寝ねなかったおせんは、午ひるすぎになるとさすがに疲つかれが出でた、みんなもすすめるし自分じぶんでも堪たまらなくなったので、隅すみのほうへ夜具やぐを敷しいて横よこになったが、すぐに熟睡じゅくすいして眼めがさめたときはもう昏くれかけていた。

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