← Library‹ 柳橋物語 前篇 六

源六げんろくはその翌日よくじつようやく意識いしきをとり戻もどした。四よん日かめには口くちもきくようになったが、舌したがもつれて言葉ことばがよくわからなかった、眼めから絶たえず涙なみだがながれ、涎よだれですぐ枕まくらが濡ぬれた。医者いしゃはたいしたことはないと繰くり返かえしていたが、左ひだりの半身はんしんが殆ほとんど動うごかせないし、頭あたまのはたらきも鈍にぶっていた。涙なみだや涎よだれは病気びょうきのためだろうが、そればかりではなく、源六げんろくはおせんを見みるとすぐに泣ないた、そして舌したの硬こわばったひどくもつれる言葉ことばでしきりになにか云いおうとする、はじめはなにを云いうのかわからなかったが、よく気きをつけて聞きくとおせんを哀あわれがっているのだった。

「可哀かわいそうにな、おせん可哀かわいそうにな」

「わかったわお祖父そふさん」と、おせんは、祖父そふに笑わらってみせた、「……でも大丈夫だいじょうぶよ、お祖父そふさんはすぐ治なおるの、いつもお医者いしゃさまがそう云いうのを聞きいているでしょう、そんなに心配しんぱいすることはないわ、これまで休やすみなしに働はたらいてきたんですもの、湯治とうじでもしている積つもりでのんきに寝ねていらっしゃるがいいわ、あたしちっとも可哀かわいそうでなんかないんだから」

「ああ、おれにはわかってるんだ」聞ききとりにくい言葉ことばつきで源六げんろくはこう云いった、「……おせん、おれにはわかってるんだよ、すっかり眼めに見みえるようなんだ、可哀かわいそうにな」

云いわないで、お祖父そふさん、おせんはそう叫さけびたかった、抱だきついていっしょにこえかぎり泣なきたかった、そうすることができたら幾いくらか胸むねが軽かるくなるだろうに、……けれども泣ないてはいけなかった、そんなことをしたら、お祖父そふさんは気落きおちがしてしまって、病気びょうきも悪わるくなるに違ちがいないから。おせんは笑わらってみせなければならない、心配しんぱいそうな顔かおをしてもいけなかったのだ。

見舞みまいに来くる客きゃくも、段だんだん少すくなくなり、魚屋さかなやの女房にょうぼうのほかは、近所きんじょの人ひとたちもあまり顔かおをみせなくなった。或ある日ひの午ひるさがり、おらくが来きて「きょうは桃ももの湯ゆがたったからはいっておいでな」とすすめた、いつかもう土用どようになっていたのだ、暫しばらく風呂ふろへゆかないで、からだが汗臭あせくさかったし、できたら髪かみも洗あらいたかったので、おらくにあとを頼たのんでおせんは風呂ふろへいった。……六ろく月がつ土用どようの桃葉ももはの湯ゆは、端午たんごの菖蒲湯しょうぶゆ、冬至とうじの柚子湯ゆずゆとともに待またれているものなので、とうてい髪かみを洗あらうことなどはできなかったが、汗あせをながして出でると身みが軽かるくなったようにさばさばとした。

「ただいま、おばさん有難ありがとう」

そう云いいながら勝手口かってぐちからはいった、返辞へんじがないので、風呂ふろ道具どうぐを片かたづけて覗のぞいてみると、おらくの姿すがたはみえず、源六げんろくの枕許まくらもとには幸太こうたが坐すわっていた。おせんはどきっとして、立止たちどまった。幸太こうたはしずかにふり返かえった。

「近所きんじょの人ひとの家いえから迎むかえが来きてさっき帰かえっていったよ」彼かれはなんとなく冷ひややかな調子ちょうしでそう云いった、「……留守るすを頼たのまれたものだからね」

「済すみません、有難ありがとうございました」

「もっと早はやく来くる積つもりだったんだが、手放てばなせない仕事しごとがあったもんでね……たいへんだったな、おせんちゃん」

「ええあんまり思おもいがけなくって」

「でもまあお爺じいさんのほうはもうたいしたことはないようだから、そいつはさほど心配しんぱいしなくてもいいだろうけれど、このままじゃあおせんちゃんが堪たまらないな、なんとか考かんがえなくっちゃあいけないと思おもうんだが」

「いいえあたしは大丈夫だいじょうぶですよ」おせんは煎せんじ薬ぐすりのかげんをみながら、かなりきっぱりした口くちぶりで云いった、「……お祖父そふさんだってそんなに手てが掛かかるわけじゃあないし、近所きんじょの人ひとたちが、よくみに来きて呉くれるのですもの、ちっともたいへんでなんかありゃあしません」

「それも十とお日かや二十はつ日かはいいだろうがね」

幸太こうたはもっとなにか云いいたそうだったが、おせんのようすがあまりきっぱりしているので口くちを噤つぐみ、間まもなく見舞みまいの物ものを置おいて帰かえっていった。……それをきっかけのように幸太こうたはまたしばしば来きはじめた、「中風ちゅうぶうによく利きく薬くすりがあったから」とか「少すこしばかりだがこれを喰たべさせてやって呉くれ」とか云いいながら、そして源六げんろくに薬くすりを飲のませたり、額がくの濡ぬれ手拭てぬぐいを絞しぼりなおしたり、時ときには足あしをさすったりした。

「なにか不ふ自由じゆうなものがあったら、遠慮えんりょなくそう云いって呉くんな」幸太こうたは帰かえりがけにきまってこう云いった、「……困こまるときはお互たがいさまだ、おれにできることならよろこんでさせて貰もらうからな、ほんとうに遠慮えんりょはいらないんだぜ」

「ええ有難ありがとう」

おせんはそう答こたえるが、伏ふし眼めになった姿勢しせいはそういう好意こういを受うける気持きもちのないことを頑かたくななほど表明ひょうめいしていた。……そうなのだ、幸太こうたの言葉ことばを聞ききながら、おせんは心こころのうちで庄吉しょうきちに呼よびかけていた。おれがいなくなればきっと幸太こうたは云いい寄よるだろう、あれもおまえを思おもっているんだから、そう云いい遺のこしていったことが改あらためて思おもいだされた、縁談えんだんを断ことわられてももう来きて呉くれるなと云いわれても、こうしてがまん強つよくやって来くるのはあたりまえの好意こういではない。そしてなに事こともないときならいいが、こういうせっぱ詰つまった苦くるしい場合ばあいに、そのように根ねづよい態度たいどで迫せまられては、どんな隙すきへどのようにつけ込こまれるかわからない。操みさおを守まもろうとするおんなの本能ほんのうが、そのときはじめておせんをちからづよく立直たちなおらせた。

――そうだ、幸太こうたさんに限かぎらず誰だれの世話せわにもなってはいけない、近所きんじょの洗濯せんたくや使つかい走はしりをしても、お祖父そふさんと二人ふたりくらいはやってゆける筈はずだ、世間せけんにためしのないことではないのだから。

そう決心けっしんするとさばさばした気持きもちになった。そしてそのつぎに幸太こうたが来きたとき、はっきりとけじめをつけた口くちぶりで、これからはもう来きて貰もらっては困こまると云いった。それは雨あまもよいの宵よいのことで、湿気しっけのある風かぜが軒のきの風鈴ふうりんを鳴ならし、戸口とぐちに垂たれてある簾すだれを揺ゆすって、部屋へやの中なかまで吹ふき入いってきた、源六げんろくはここちよさそうに眠ねむっていた。

「そんなにおれが嫌きらいなのか」幸太こうたは暫しばらく、黙だまっていたのち、なにか挑いどみかかるような眼めでこっちを見みた、「……おれのどこがそんなに気きに入はいらないんだ、おれはおためごかしや恩おんに衣きせる積つもりでよけいなおせっかいをするんじゃあないぜ、おまえとも爺じいさんとも幼おさな馴染なじみだ、ことにおまえとはこんなじぶんから知しり合あって、おれにとっては……まったく、他人たにんのような気持きもちはしないんだ、そうでなくったって、こんな場合ばあいには助たすけ合あうのが人情にんじょうじゃあないか、どうしてそれがいけないんだ、おせんちゃん」

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