← Library‹ 柳橋物語 前篇 八

横よこにはなったが眠ねむれなかった。風かぜはますます強つよくなるようすで、雨戸あまどへばらばらと砂粒さりゅうを叩たたきつけ、ともすると吹ふき外はずしてしまいそうになった。そのうちに表ひょうで人ひとの話はなしごえが聞きこえはじめた、

「下谷したやへまわるぜ」とか「ああとうとう駿河するが台だいへ飛とんだ」とか「いま焼やけているのは明神みょうじん様さまじゃあないか」などという言葉ことばが、風かぜにひきち切きられてとぎれとぎれに聞きこえてくる。

「また大おおきくなるんじゃあないかしら」

おせんが眼めをつむったままそう云いった。源六げんろくはそれには答こたえず、やや暫しばらくして、

「風かぜが変かわったな」と独ひとり言ごとのように呟つぶやいた。裏うらの魚屋さかなやの女房にょうぼうが来きたのはそれから間まもなくだった、表ひょうの戸とを叩たたきながら呼よぶので、おせんが着物きものをはおって起おきていった。

「のんきだねえおせんちゃん寝ねていたのかえ」とおらくはまだ明あけない戸との向むこうで云いった、「……火ひが下谷したやへ飛とんでこっちが風下かざしもになったよ、出でてごらんな大変たいへんだから」

「さっき見みたんだけれど」

おせんはそう云いいながら雨戸あまどを明あけた。すると、いきなりぱっと赤あかい大おおきな火ひの色いろが眼めへとびこんだ、こっちが見みたというより、火明ひあかりのほうでとびこんだという感かんじだった。向むこうの家並いえなみはまっ暗くらで、その屋根やねの上うえはいちめんに赤あかく、眩まぶしいほど空そらいっぱいに弘ひろがっていた。

「……まあずいぶんひろがったわね」

「そんなこともないだろうけど、手てまわりの物ものだけでも包つつんで置おくほうがいいね、うちでもとにかくひと片付かたづけしたところだよ、なにしろここにはお祖父そふさんがいるんだから」

「どうも有難ありがとう、そうするわおばさん」

「いざとなったらお祖父そふさんはうちが負おぶってゆかあね、それは心配しんぱいはいらないからね」

おらくが去さるとすぐ、おせんは手早てばやく着替きがえをし、すぐ要いると思おもえる物ものを集あつめて包つつみを拵こしらえた。江戸えどには火事かじが多おおいので、ふだんから心こころの用意よういはできている、荷物にもつはできるだけ少すくなくとか、米べいはどんなにしても二ふた日か分ぶんくらい持もつとか、飯椀めしわんに箸はしは欠かかせないとか、切傷きりきず、火傷やけど、毒消どくけし薬やくなどを忘わすれるなとか、みんな常つねづね口伝くでんのように戒いましめ合あい、いざというときまごつかないだけの手順てじゅんはつけてあるのだった。……包つつみが出来できると、お祖父そふさんに起おきて貰もらい、布子ぬのこを二に枚まい重かさねた上うえから綿入半纏わたいればんてんをさらに二に枚まい着きせ、頭巾ずきんを冠かぶらせた。このあいだにも表ひょうの人ひとごえは段だんだん高たかくなり、手荒てあらく雨戸あまどを繰くる音おとや、荷車にぐるまを曳ひきだすけたたましい響ひびきが起おこったりした。

「もう支度したくはできたかえ」おらくがそう云いって入はいって来きた、「……慌あわてなくってもいいんだよ、また少すこし風かぜが変かわって、火先ひさきが西にしへ向むかってるからね、こっちはたぶん大丈夫だいじょうぶだろうって、うちじゃあいま馬喰町ばくろちょうのおとくいへ見舞みまいに出でていったよ」

「でもさっきよりかがりが大おおきくなったようじゃないの、おばさん」上あがり框がまちへ、出でていったおせんは、夜空よぞらを見みやりながら、それでもややおちついた声こえでそう云いった、「……厭いやだわねえ地震じしんのあとでまた火事かじだなんて」

「お江戸えどの名物めいぶつだもの、風かぜが吹ふけばじゃんとくるにきまっているのさ、それにしてもれっきとしたお上かみがあって、知恵ちえ才覚さいかくのある人ひともたくさんいるんだろうに、なんとか小ちいさいうちに消けすくふうはないもんかねえ、番ばんたび百ひゃく軒けん二百にひゃく軒けんと焼やけるんじゃあもったいないはなしじゃあないか」

「あらおばさん」おせんは急きゅうに身みをのり出だした、「……こっちのほうが明あかるくなったけれど、どこかへ飛とび火ひがしたんじゃあないかしら」

「あらほんとうだね、おまけに近ちかそうじゃないか」

おらくはあたふたと外そとへ出でた。たしかに飛とび火ひらしい、元もとの火先ひさきは西にしへ靡なびいているのに、それとは方角ほうがくの違ちがう然しかもずっとこちらへ寄よったところに、新あたらしい橙だいだい色の明あかりが立たちはじめた。……通とおりには包つつみを背負せおい、子供こどもの手てをひいた人ひとびとの往来おうらいがしだいに繁しげくなったが、その人ひとたちの顔かおが見みえるほど、空そらは赤あかあかと焦こがされていた。家いえを見みて来くると云いっておらくが去さると、おせんは勝手かってへいって水みずを飲のみ、どうしようかと考かんがえ惑まどった。足あしの不ふ自由じゆうなお祖父そふさんを、伴つれてゆくには、あまりさし迫せまらないうちのほうが安全あんぜんだ、然しかしよく話はなしに聞きくことだが、へたに逃にげると却かえって火ひに囲かこまれてしまう、立退たちのくなら火ひの風かぜの向むきをよほどよくみなければと云いう、まだ経験けいけんのないおせんには、いまが逃にげる時ときかどうか、どっちへゆくがいいのかまるっきり見当けんとうがつかなかった。どうしよう、おせんはまた表ひょうへ出でていった。

「おせんちゃんまだいたのか」と、右隣みぎどなりの主人しゅじんがびっくりしたように呼よびかけた、「……もう逃にげなくちゃあいけない、立花たちばなさまへ火ひが移うつっている、早はやくしないととんだことになるぜ」

そう云いうと、背中せなかの大おおきな包つつみを揺ゆりあげながら、大通おおどおりのほうへと走はしっていった。おせんは足あしがぶるぶると震ふるえだした、よく気きをつけてみると、僅わずかなあいだに近所きんじょではだいぶ立退たちのいたらしく、往来おうらいの激はげしい騒さわぎとは反対はんたいに、たいていの家いえが雨戸あまどを明あけたまま、ちょうど黒くろい口くちをあけているようにひっそりと鎮しずまりかえっていた。おせんはぞっとして露ろ次つぎへとびこんだ。裏うらの魚屋さかなやへいって「おばさん」と呼よんでみたが返辞へんじはなく、包つつみを背負せおった男おとこたちがおせんを突つきのけるように、溝板どぶいたを鳴ならしながら駆かけて通とおった。気きもそぞろに、家いえへ戻もどってくると、お祖父そふさんは仏壇ぶつだんを開ひらいて、燈明とうみょうをあげているところだった。

「お祖父そふさん」おせんはできるだけしずかな調子ちょうしで云いった、「……たぶん大丈夫だいじょうぶだと思おもうけれど、なんだか火ひが近ちかくなるようだからともかく出でてみましょう」

「おまえゆきな、おせん」と、源六げんろくは仏壇ぶつだんの前まえへ坐すわった、「……ここは焼やけやあしない、おれにはわかってるんだ、ここは大丈夫だいじょうぶだ、けれども万まんに一ひとつということがあるからな、おまえだけは暫しばらくどこかへいっているがいい」

「そんなことを云いって、お祖父そふさんを置おいてゆけると思おもうの、あたしを困こまらせないで」

「人間にんげんには定命じょうみょうというものがあるんだ。おせん」源六げんろくはしずかに笑わらった、「……どんなに逃にげたって定命じょうみょうから逃にげるわけにはいかない、おれはじたばたするのは嫌きらいなんだ」

「それじゃあ、あたしもここにいてよ」

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