横にはなったが眠れなかった。風はますます強くなるようすで、雨戸へばらばらと砂粒を叩きつけ、ともすると吹き外してしまいそうになった。そのうちに表で人の話しごえが聞えはじめた、
「下谷へまわるぜ」とか「ああとうとう駿河台へ飛んだ」とか「いま焼けているのは明神様じゃあないか」などという言葉が、風にひきち切られてとぎれとぎれに聞えてくる。
「また大きくなるんじゃあないかしら」
おせんが眼をつむったままそう云った。源六はそれには答えず、やや暫くして、
「風が変ったな」と独り言のように呟いた。裏の魚屋の女房が来たのはそれから間もなくだった、表の戸を叩きながら呼ぶので、おせんが着物をはおって起きていった。
「のんきだねえおせんちゃん寝ていたのかえ」とおらくはまだ明けない戸の向うで云った、「……火が下谷へ飛んでこっちが風下になったよ、出てごらんな大変だから」
「さっき見たんだけれど」
おせんはそう云いながら雨戸を明けた。すると、いきなりぱっと赤い大きな火の色が眼へとびこんだ、こっちが見たというより、火明りのほうでとびこんだという感じだった。向うの家並はまっ暗で、その屋根の上はいちめんに赤く、眩しいほど空いっぱいに弘がっていた。
「……まあずいぶんひろがったわね」
「そんなこともないだろうけど、手まわりの物だけでも包んで置くほうがいいね、うちでもとにかくひと片付けしたところだよ、なにしろここにはお祖父さんがいるんだから」
「どうも有難う、そうするわおばさん」
「いざとなったらお祖父さんはうちが負ってゆかあね、それは心配はいらないからね」
おらくが去るとすぐ、おせんは手早く着替えをし、すぐ要ると思える物を集めて包を拵えた。江戸には火事が多いので、ふだんから心の用意はできている、荷物はできるだけ少なくとか、米はどんなにしても二日分くらい持つとか、飯椀に箸は欠かせないとか、切傷、火傷、毒消し薬などを忘れるなとか、みんな常づね口伝のように戒め合い、いざというときまごつかないだけの手順はつけてあるのだった。……包が出来ると、お祖父さんに起きて貰い、布子を二枚重ねた上から綿入半纏をさらに二枚着せ、頭巾を冠らせた。このあいだにも表の人ごえは段だん高くなり、手荒く雨戸を繰る音や、荷車を曳きだすけたたましい響きが起こったりした。
「もう支度はできたかえ」おらくがそう云って入って来た、「……慌てなくってもいいんだよ、また少し風が変って、火先が西へ向ってるからね、こっちはたぶん大丈夫だろうって、うちじゃあいま馬喰町のおとくいへ見舞いに出ていったよ」
「でもさっきよりかがりが大きくなったようじゃないの、おばさん」上り框へ、出ていったおせんは、夜空を見やりながら、それでもややおちついた声でそう云った、「……厭だわねえ地震のあとでまた火事だなんて」
「お江戸の名物だもの、風が吹けばじゃんとくるにきまっているのさ、それにしてもれっきとしたお上があって、知恵才覚のある人もたくさんいるんだろうに、なんとか小さいうちに消すくふうはないもんかねえ、番たび百軒二百軒と焼けるんじゃあもったいないはなしじゃあないか」
「あらおばさん」おせんは急に身をのり出した、「……こっちのほうが明るくなったけれど、どこかへ飛び火がしたんじゃあないかしら」
「あらほんとうだね、おまけに近そうじゃないか」
おらくはあたふたと外へ出た。たしかに飛び火らしい、元の火先は西へ靡いているのに、それとは方角の違う然もずっとこちらへ寄ったところに、新しい橙色の明りが立ちはじめた。……通りには包を背負い、子供の手をひいた人びとの往来がしだいに繁くなったが、その人たちの顔が見えるほど、空は赤あかと焦がされていた。家を見て来ると云っておらくが去ると、おせんは勝手へいって水を飲み、どうしようかと考え惑った。足の不自由なお祖父さんを、伴れてゆくには、あまりさし迫らないうちのほうが安全だ、然しよく話に聞くことだが、へたに逃げると却って火に囲まれてしまう、立退くなら火の風の向きをよほどよくみなければと云う、まだ経験のないおせんには、いまが逃げる時かどうか、どっちへゆくがいいのかまるっきり見当がつかなかった。どうしよう、おせんはまた表へ出ていった。
「おせんちゃんまだいたのか」と、右隣りの主人がびっくりしたように呼びかけた、「……もう逃げなくちゃあいけない、立花さまへ火が移っている、早くしないととんだことになるぜ」
そう云うと、背中の大きな包を揺りあげながら、大通りのほうへと走っていった。おせんは足がぶるぶると震えだした、よく気をつけてみると、僅かなあいだに近所ではだいぶ立退いたらしく、往来の激しい騒ぎとは反対に、たいていの家が雨戸を明けたまま、ちょうど黒い口をあけているようにひっそりと鎮まりかえっていた。おせんはぞっとして露次へとびこんだ。裏の魚屋へいって「おばさん」と呼んでみたが返辞はなく、包を背負った男たちがおせんを突きのけるように、溝板を鳴らしながら駆けて通った。気もそぞろに、家へ戻ってくると、お祖父さんは仏壇を開いて、燈明をあげているところだった。
「お祖父さん」おせんはできるだけしずかな調子で云った、「……たぶん大丈夫だと思うけれど、なんだか火が近くなるようだからともかく出てみましょう」
「おまえゆきな、おせん」と、源六は仏壇の前へ坐った、「……ここは焼けやあしない、おれにはわかってるんだ、ここは大丈夫だ、けれども万に一つということがあるからな、おまえだけは暫くどこかへいっているがいい」
「そんなことを云って、お祖父さんを置いてゆけると思うの、あたしを困らせないで」
「人間には定命というものがあるんだ。おせん」源六はしずかに笑った、「……どんなに逃げたって定命から逃げるわけにはいかない、おれはじたばたするのは嫌いなんだ」
「それじゃあ、あたしもここにいてよ」