← Library‹ 柳橋物語 前篇 九

幸太こうたはここの群衆ぐんしゅうの中なかから脱ぬけだした。彼かれには浅草橋あさくさばしの門もんの閉しまった理由りゆうがすぐわかった。門もんの彼方かなたもすでに焼やけているのだ、風かぜが強つよいから火ひはみえないが、さっき茅町かやまちの通とおりで見みたとき、もう柳原やなぎはらのあたりが赤あかくなっていた、おそらく馬喰町ばくろちょうの本通ほんどおりあたりまで焼やけてきたに違ちがいない。よしそうでないにしても、「御ご門もん」という制度せいどは厳きびしいもので、いちど閉しめられたらたやすく明あく筈はずはなし、群衆ぐんしゅうの力ちからぐらいで毀こわせるものでもなかった。彼かれはすばやくみきわめをつけ、けんめいに人波ひとなみを押おし分わけて神田かんだ川かわの岸きしへぬけ、そのまま平右衛門町へいえもんちょうから大川端おおかわばたへと出でて来きた。

神田かんだ川かわの落おち口ぐちに沿そった河岸かしの角かどが、かなり広ひろく石いし置おき場ばになっていた。のちには家いえが建たつようになったが、その頃ころはまだ河岸かしが通とうれるようになっていて、貸かし舟ふね屋やや石屋いわやや材木ざいもく屋やなどが、その道みちを前まえにして軒のきを並ならべていた。もし舟ふねがあったら本所ほんしょへ渡わたろうし、無なかったにしても、石いし置おき場ばは広ひろいし水みずのそばだから、火ひに追おい詰つめられてもたぶん凌しのぎがつくだろう、幸太こうたはそう考かんがえて来きたのだった。……けれども、そこはもう荷物にもつと人ひとでいっぱいだった、幸太こうたはちょっと途方とほうにくれたが、遠慮えんりょをしていてはだめだと思おもい、

「病人びょうにんだから頼たのみます」

と繰くり返かえし叫さけびながら、人ひとと人ひととのあいだを踏ふみ越こえるようにして、いちばん河岸かしに近ちかいところへぬけていった。そこは三さん方ほうに胸むねの高たかさまで石いしが積つんであり、その間あいだにちょうど人ひとが三さん人にんばかりはいれるほどの隙間すきまができている。

「ここがいいだろう」そう云いって幸太こうたは源六げんろくをおろした、「……暫しばらくの辛抱しんぼうだ、爺じいさん寒さむいだろうが、がまんして呉くんな」

「それより幸みゆきさん、おまえ家やへ帰かえらなくちゃあいけまい」

「なあに家やはいいんだ」幸太こうたは源六げんろくを積つんである石いしの間あいだへそっと坐すわらせた、「……家いえはすっかり片付かたづけて来きたし、親おやたちは職人しょくにんといっしょに立退たちのいたんだ、おせんちゃんその包つつみをこっちへ貸かしな、そいつを背中せなかへ当あてて置おけば爺じいさんが楽らくだろう」

「済すみません、あたしがしますから」

おせんは背負せおって来きた包つつみをおろし、お祖父そふさんの後うしろへ、倚より掛かかれるように置おいて、自分じぶんもそこへ腰こしをおろした。

火ひのようすを見みて来くるといって、幸太こうたは通とおりのほうへ出でていった。おせんはひきとめたかった、こんな混雑こんざつのなかで、もしはぐれでもしたらどうしようと思おもったから。けれども呼よびかけることはできなかった、幸太こうたが火ひを見みにゆくというのは口実こうじつで、ほんとうはおせんのそばにいることを憚はばかった。あのときの約束やくそくを守まもろうとしているのだということがわかったからである。おせんは咎とがめられるような気持きもちで、お祖父そふさんにひき添そいながら身みのまわりを眺ながめやった。……積つんである石いしの上うえも下したも、大おおきな荷に包ほうと人ひとでいっぱいだった、たいていの者ものが子供こどもづれで、なかには背負せおったり抱かかえたりで五ご人にんもの子こをつれた女房にょうぼうがいた。かれらの多おおくは焼やけだされて来きたらしく、火ひあしの早はやかったこと、飛とび火ひがひどくて逃にげる先さきさきを塞ふさがれ、危あやうく命いのちびろいをして来きたこと、どこそこでは煙けむりに巻まかれてなん十じゅう人にんも倒たおれているのを見みたことなど、口くちぐちに話はなし合あっていた、「ええ此処ここは大丈夫だいじょうぶですよ、いざとなったら川かわへはいって、石垣いしがきに捉つかまっていたって凌しのげますからね」そんなことを繰くり返かえし云いう男おとこがあり、「そうだ此処ここなら命いのちだけは大丈夫だいじょうぶだ」とか「水みずに浸ひたって火ひの粉こをあびれば水火すいかの難なんだぜ」などと云いって笑わらう声こえも聞きこえた。

暫しばらくして幸太こうたが蒲団ふとんを担かついで戻もどって来きた、「ちょっと思おもいついたもんだから、断ことわりなしにはいって持もって来きたよ」彼かれはそう云いって源六げんろくとおせんとをそれでくるむようにした、「……こうしていれば寒さむくもなく火除ひよけにもなるからな、それから飯櫃めしびつをみたら残のこってたから、手てついでにこんな物ものを拵こしらえて来きたよ」自分じぶんもそこへ坐すわりながら、湯沸ゆわかしと握にぎり飯めしの包つつみをとりひろげた。

「あら、お握にぎりなら持もって来きてあるのよ」

「そいつはとっとくんだ、明日あすがどうなるかわからないからな、爺じいさん一ひとつ喰たべておかないか、ちょうどまだ湯ゆが少すこし温あたたかいんだがな、おせんちゃんもどうだ」

「ええ頂いただくわ、お祖父そふさんもそうなさいな」

「なんだか野の駆かけにでもいったようだな」

源六げんろくは独ひとり言ごとのように、そっとこう呟つぶやきながら一ひとつ取とった。おれも貰もらうぜと云いって、幸太こうたも取とって頬張ほおばったが、こいつは大笑おおわらいだと頭あたまへ手てをやった、「冗談じょうだんじゃない塩しおをつけるのを忘わすれちゃったよ」

「まあそんなものさ」源六げんろくが笑わらいながら云いった、「男おとこがあんまりですぎるのもげびたものだ」

「いいわよ、梅干うめぼしを出だすから待まってらっしゃい」

おせんは手早てばやく包つつみをひらき、重箱じゅうばこをとりだして蓋ふたをあけた。――ほんとうに野の駆かけにでもいったようだ、と思おもいながら……。

火事かじのことは源六げんろくも幸太こうたも口くちにしなかった、火ひのようすを見みにいった幸太こうたがなにも云いわないのは、云いわないことがそのまま返辞へんじだからである。それでなくとも、横よこなぐりに叩たたきつけて来くるような烈風れっぷうは、すでに濃密のうみつな煙けむりとかなり高たかい熱あつさを伴ともなっているし、頭上ずじょうへは時ときおりこまかい火ひの粉こが舞まいはじめて来きた。

「爺じいさんもおせんちゃんも、少すこし横よこになるほうがいい、火ひの粉こはおれが払はらってやるから」

そうすすめるので、源六げんろくとおせんは蒲団ふとんをかぶり、包つつみに倚よりかかって楽らくな姿勢しせいをとった。……家いえは焼やけてしまうだろう、おせんはそう思おもったが、悲かなしくも辛つらくもなかった、お祖父そふさんが病気びょうきで倒たおれたり、地震じしんがあったり、今年ことしはひどく運うんが悪わるかった、いっそ家いえもきれいさっぱり焼やけて、どん詰づまりまでいってしまうほうがいい、悪わるい運うんが底そこをついてしまえば、こんどは良よい運うんが始はじまるだろう、なにもかも新あたらしくやり直なおすんだ、――庄しょうさん、とおせんは眼めをつむり遠とおい人ひとのおもかげを空そらに思おもい描えがいた、あたし弱よわい気きなんか起おこさなくってよ、あんたが帰かえるまでは、どんなことがあっても他人たにんの厄介やっかいにならないで待まっているわ、今夜こんやのことは堪忍かんにんしてね庄しょうさん、だってほかにしようがなかったんですもの、あんたがいたら幸みゆきさんなんかに頼たのみはしなかったのよ、わかるわね庄しょうさん。

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