幸太はここの群衆の中から脱けだした。彼には浅草橋の門の閉った理由がすぐわかった。門の彼方もすでに焼けているのだ、風が強いから火はみえないが、さっき茅町の通りで見たとき、もう柳原のあたりが赤くなっていた、おそらく馬喰町の本通りあたりまで焼けてきたに違いない。よしそうでないにしても、「御門」という制度は厳しいもので、いちど閉められたらたやすく明く筈はなし、群衆の力ぐらいで毀せるものでもなかった。彼はすばやくみきわめをつけ、けんめいに人波を押し分けて神田川の岸へぬけ、そのまま平右衛門町から大川端へと出て来た。
神田川の落ち口に沿った河岸の角が、かなり広く石置き場になっていた。のちには家が建つようになったが、その頃はまだ河岸が通れるようになっていて、貸舟屋や石屋や材木屋などが、その道を前にして軒を並べていた。もし舟があったら本所へ渡ろうし、無かったにしても、石置き場は広いし水のそばだから、火に追い詰められてもたぶん凌ぎがつくだろう、幸太はそう考えて来たのだった。……けれども、そこはもう荷物と人でいっぱいだった、幸太はちょっと途方にくれたが、遠慮をしていてはだめだと思い、
「病人だから頼みます」
と繰り返し叫びながら、人と人とのあいだを踏み越えるようにして、いちばん河岸に近いところへぬけていった。そこは三方に胸の高さまで石が積んであり、その間にちょうど人が三人ばかりはいれるほどの隙間ができている。
「ここがいいだろう」そう云って幸太は源六をおろした、「……暫くの辛抱だ、爺さん寒いだろうが、がまんして呉んな」
「それより幸さん、おまえ家へ帰らなくちゃあいけまい」
「なあに家はいいんだ」幸太は源六を積んである石の間へそっと坐らせた、「……家はすっかり片付けて来たし、親たちは職人といっしょに立退いたんだ、おせんちゃんその包をこっちへ貸しな、そいつを背中へ当てて置けば爺さんが楽だろう」
「済みません、あたしがしますから」
おせんは背負って来た包をおろし、お祖父さんの後ろへ、倚り掛れるように置いて、自分もそこへ腰をおろした。
火のようすを見て来るといって、幸太は通りのほうへ出ていった。おせんはひきとめたかった、こんな混雑のなかで、もしはぐれでもしたらどうしようと思ったから。けれども呼びかけることはできなかった、幸太が火を見にゆくというのは口実で、ほんとうはおせんのそばにいることを憚った。あのときの約束を守ろうとしているのだということがわかったからである。おせんは咎められるような気持で、お祖父さんにひき添いながら身のまわりを眺めやった。……積んである石の上も下も、大きな荷包と人でいっぱいだった、たいていの者が子供づれで、なかには背負ったり抱えたりで五人もの子をつれた女房がいた。かれらの多くは焼けだされて来たらしく、火あしの早かったこと、飛び火がひどくて逃げる先さきを塞がれ、危うく命びろいをして来たこと、どこそこでは煙に巻かれてなん十人も倒れているのを見たことなど、口ぐちに話し合っていた、「ええ此処は大丈夫ですよ、いざとなったら川へはいって、石垣に捉まっていたって凌げますからね」そんなことを繰り返し云う男があり、「そうだ此処なら命だけは大丈夫だ」とか「水に浸って火の粉をあびれば水火の難だぜ」などと云って笑う声も聞えた。
暫くして幸太が蒲団を担いで戻って来た、「ちょっと思いついたもんだから、断わりなしにはいって持って来たよ」彼はそう云って源六とおせんとをそれでくるむようにした、「……こうしていれば寒くもなく火除けにもなるからな、それから飯櫃をみたら残ってたから、手ついでにこんな物を拵えて来たよ」自分もそこへ坐りながら、湯沸しと握り飯の包をとりひろげた。
「あら、お握りなら持って来てあるのよ」
「そいつはとっとくんだ、明日がどうなるかわからないからな、爺さん一つ喰べておかないか、ちょうどまだ湯が少し温かいんだがな、おせんちゃんもどうだ」
「ええ頂くわ、お祖父さんもそうなさいな」
「なんだか野駆けにでもいったようだな」
源六は独り言のように、そっとこう呟きながら一つ取った。おれも貰うぜと云って、幸太も取って頬張ったが、こいつは大笑いだと頭へ手をやった、「冗談じゃない塩をつけるのを忘れちゃったよ」
「まあそんなものさ」源六が笑いながら云った、「男があんまりですぎるのもげびたものだ」
「いいわよ、梅干を出すから待ってらっしゃい」
おせんは手早く包をひらき、重箱をとりだして蓋をあけた。――ほんとうに野駆けにでもいったようだ、と思いながら……。
火事のことは源六も幸太も口にしなかった、火のようすを見にいった幸太がなにも云わないのは、云わないことがそのまま返辞だからである。それでなくとも、横なぐりに叩きつけて来るような烈風は、すでに濃密な煙とかなり高い熱さを伴っているし、頭上へは時おりこまかい火の粉が舞いはじめて来た。
「爺さんもおせんちゃんも、少し横になるほうがいい、火の粉はおれが払ってやるから」
そうすすめるので、源六とおせんは蒲団をかぶり、包に倚りかかって楽な姿勢をとった。……家は焼けてしまうだろう、おせんはそう思ったが、悲しくも辛くもなかった、お祖父さんが病気で倒れたり、地震があったり、今年はひどく運が悪かった、いっそ家もきれいさっぱり焼けて、どん詰りまでいってしまうほうがいい、悪い運が底をついてしまえば、こんどは良い運が始まるだろう、なにもかも新しくやり直すんだ、――庄さん、とおせんは眼をつむり遠い人のおもかげを空に思い描いた、あたし弱い気なんか起こさなくってよ、あんたが帰るまでは、どんなことがあっても他人の厄介にならないで待っているわ、今夜のことは堪忍してね庄さん、だってほかにしようがなかったんですもの、あんたがいたら幸さんなんかに頼みはしなかったのよ、わかるわね庄さん。