沢上良太郎には五人の子供がある。太郎、次郎、花子、四郎、梅子。殆んどとし児で、上が十歳、次が九歳、八歳、七歳、五歳。そして妻のみさおは妊娠していた。
この「街」の人たちは、それら五人が沢上良太郎の子ではなく、一人ずつべつに、それぞれ本当の父親があり、その父親たち五人がこの「街」に住んでいることも、かれらが自分じぶんの子を判別していることもよく知っていた。
妻のみさおは自分の腹をいためたのだから、むろん誰よりも熟知していたであろう。それを知らないのは子供たちと沢上良太郎だけだと信じられていた。
沢上良太郎は「良さん」と呼ばれていた。背丈はさして高くないが、よく肥えていて、まるまるとした顔は見るからに人がよさそうだった。太い眉毛も、小さくまるい眼も尻さがりで、唇が厚く、頬骨のところに肉が盛りあがっているため、小さくてまるい眼は、その肉瘤のかげから覗いているように感じられた。
良さんの顔はお人好しの条件をぜんぶ揃えている、とけちんぼの波木井老人が云った。眼も口も鼻も頬ぺたも耳もぜんぶ、お人好しの部分品ばかり集めてこねあげたものだ。
良太郎の顔をよく見ろ、とヤソの斎田先生は云った。あれはかみさんに催眠術をかけられて、その術からさめることができずにいる顔だぞ。
冗談じゃねえぞ、あのひとの眼をよっく見てみな、とおがみやのお常さんはまじめに云った。あれはしんから人をこばかにしている眼だ、人も神も仏も、てんからばかにしている眼だ。
かみさんのみさおは痩せた小づくりな躯で、顔も細く、頬骨が尖り、落ちくぼんだ眼はいつも、きらきらと、好戦的に光っていた。肌の色は黒く、髪は茶色でちぢれ、額が抜けあがっていた。としは良太郎より三つ下の三十二歳であるが、見たところは逆に四つくらいもとし上のようであった。
みさおは殆んど家にいない。食事の支度とか、子供たちの着物のつくろいなどはするが、あとは長屋のどこかで、かみさんたちとお饒舌りパーティーをしたり、つかみあいの喧嘩をしたり、その仲裁をして酒を飲んだり、そうかと思うとしばしば、半日もどこかへ消えたりしていた。
「あーあ、まったく女なんてつまらねえもんだ」彼女は一日に幾たびか、きっとこう嘆かないことはない、「――男は勝手にしたいことをして、亭主関白だなんておだをあげていられるが、女は腰の骨の折れるほどはたらいても、たのしみに芝居ひとつ見にいけやしない、考えてみるとなんのために生きているのか、つくづくわが身が哀れになっちまうよ」
良さんはやんわりと微笑しながら、せっせと、しょうばいの刷毛作りに精をだしていた。
良さんは腕のいい刷毛作りで、刷毛といってもヘアー・ブラッシなのだが、問屋でも彼の作った物は高級品として扱い、一流化粧品店とか洋品店、百貨店などへ納入していて、けれども仕事がのろく、数があがらないので、「ごうがにえる」と云われた。確かに、彼の仕事のおそさには妻のみさおもごうがにえるとみえ、仕事ばかりでなく、箸のあげおろしにまで、露骨な非難をあびせかけた。
「おまえのすることを見ているとあたしゃ足の裏がむずむずしてくるよ」とみさおは云う、「まったく、どうすればこんなぐずな男が生れるんだろう、おまえのふた親が生きてたら、あたしゃ押しかけていってきいてみたいくらいだよ」
良さんは小さくてまるい眼を細め、唇のあたりにかすかな微笑をうかべながら、黙って仕事を続けるだけである。――飴色になった仕事台の上の、ちょっと右寄りに、厚さ三インチばかりの板が立ててあり、豚の毛を入れた筒とか、ブラッシの台木、ごくぼその針金、にかわの鍋などの材料が、良さんの左右に並んでいた。彼は左手で、筒の中から豚の毛をひょいとつまみあげる。一つの穴に入れる数は、およそ三十本ときまっているが、彼は一度でそれだけつまみ取れたためしがなかった。つまみあげてから、そのたびによく数えて、二本足すとか、一本引くとかするのである。
「なんだね一本や二本」とみさおが咎める、「そんな細っこい毛の二本や三本、多くったって変りはないじゃないか」
「そうかもしれないけれどね」良さんは頬笑みながら、舌が重くて動かないような口ぶりで、ゆっくりと答える、「三十本にしないと、あたいの気が済まないんだよ」
数が揃うと、立ててある厚板の側面へ、毛の根元のほうをとんとんと当てて、根揃えをし、右手に持ったごくぼその針金できりきりと根元を巻き、針金の一端を、ブラッシの穴に通して引き、毛の根を穴に引き入れて固定し、針金の余りを鋏で切る。穴は中の三列が二十、左右の一列が十七、ぜんぶで九十四あり、その一つ一つへ三十本ずつの毛を植えてしまうと、固定した針金を叩いて平らにし、にかわを塗って裏木をかぶせて染める。
にかわはいつも溶けていなければならないから、夏冬とも火鉢に掛けてあり、――したがって家の中にその刺戟性の強い匂いの絶えることはなかった。
「この匂いを嗅いでいると、あたしゃ世の中がはかなくなってきちゃうよ」とみさおは大げさに顔をしかめながら云う、「世間にゃちっとはあたまのいい人もいるんだろうに、にかわからこの匂いを抜く知恵ぐらいはたらかせる者はいないのかね、えっ、臭くってとてもうちになんかいられたもんじゃありゃしないよ」
みさおは亭主の手伝いなど決してしない。仕事ぶりののろさをそしり、にかわの匂いにけちをつけると、自分はさっさと外へでかけてしまう。夜の食事にはたいてい帰るが、ひるめしには帰らないことのほうが多い。良太郎も子供たちも慣れているため、彼女が帰らなくともべつにふしぎはないようすで、父親が膳立てをすると、みんな温和しくめしを喰べる。子供たちはみな従順で、四郎までの四人は小学生であるが、成績はどの子も上位を占め、太郎はずっと級長を続けていた。
「あの子たちはこの街の七ふしぎの第一だね」とここの人たちは云った、「どっちから考えてもあんな子供たちの生れるわけがないんだから」