福田肇くんは二十七歳、なにがし私立大学中退だそうだが、いまはこしかけに廃品回収業をやっている。痩せていて小柄で、顔色の冴えない男で、下顎のほうが出ているため、いつも下の歯が上唇を噛んでいるようにみえた。
彼の妻は光子という、としは二十三だと自称しているが、近所のかみさんたちは三十五歳より下ではないと判定していた。これは福田くんよりも背丈が低く、痩せていて、かみさんたちに、「鼠そっくりだ」といわれる顔つきに、ゆだんなさそうな、よく動く眼がなによりも人の注意をひいた。いつもまっ白におしろいを塗り、濃い口紅をさして、常識外れにはでな色柄のワンピースか着物を着て、これまたかみさんたちの言葉を借りれば、「朝から晩までじゃらじゃらして」いた。
この夫婦は相沢七三雄という、屑鉄専門の廃品回収業者の二階に住んでいた。相沢家は夫婦のあいだに七人の子があり、長男が十一で末っ子が二歳。妻のますさんがまた妊娠ちゅうという、賑やかな家族であった。
福田くん夫妻は、引越して来て五日か六日めに、その存在を長屋じゅうにはっきり印象づけた。――或る朝、およそ八時ころのことだったが、二階でなにか云い争いを始めたと思うまもなく、福田くんが梯子段を駆けおりて来、土間にあった誰かのサンダルを突っかけてろじへとびだすなり、振返って、いま自分の出て来た二階を見あげながら、黄色いようなきんきん声で叫びだした。
「やい、光子、出ていけ」彼はじだんだを踏み、どぶ板がはねあがった、「光子のやろう、ぼくはもう別れるぞ、――やい、出ていけーっ」
ろじを挾んだ左右の長屋から、なにごとかと思って、住人たちがとびだして来た。福田くんは寝衣ゆかたに細紐をしめただけで、前がはだかり、貧弱な胸と、生気のない足があらわに見えた。
「顎のところに歯形があったよ」あとでかみさんたちがそう話しあった、「あれはおかみさんに噛みつかれたんだよ、きっと」
「よけいなお世話かもしれないけど、あたしゃあんな夫婦喧嘩を見たのは生れて初めてだよ」とべつのかみさんはいった、「夫婦喧嘩で出ていけはいいけどさ、亭主がうちの外へ逃げだして、うちの中にいるかみさんに向って外から、出ていけーってどなるなんて、いったいあれはどういう勘定になってるのかね」
「わる気はないのさ」年増のかみさんの一人が面白そうにいった、「たまにはあのくらいの人がいてくれなくっちゃあね、長屋の空気が浮き立たなくっていけないよ」
こういうわけで、福田くん夫妻は一遍に、この長屋のにんきをさらったのであった。――毎朝、相沢七三雄が階下から呼び起こし、朝めしが済むと、二人はつれだって仕事にでかけ、夕方もいっしょに帰って来た。
福田くんに廃品回収業の世話をしたのは、相沢七三雄であり、同時に自分の家の、空いている二階を提供したのであった。相沢は福田くんに好意をいだいているようだし、細君のますさんや、子供たちも同様らしいが、福田くんの妻の光子に対しては、嫌いである以上に反感をもっていたようであった。もっとも、この「街」で厚化粧をしたり、ばかげてはでな着物をひけらかしたりすれば、反感をもたれるか「おきちさん」と呼ばれるか、いずれかの難はまぬがれないのだが、光子の場合は相沢の四歳になる子にまで嫌われ、白い眼で見られるというめぐりあわせになった。
光子は福田くんを、「は、じ、めさん」と、飴を引き伸ばすようなあまったるい声で呼ぶ。福田くんは「みつ子」と呼び、するとそのたびに光子は、なーに、は、じ、めさんとあまったるい声で返辞をする。相沢の細君のますさんは頭痛持ちだということだが、そういう光子の声を聞くたびに、久しく砂糖をきらしたままだったことを思い出して頭痛がおこる、と苦情をいうのであった。
「うちの福田は大学の文科へいったんですのよ」と光子は初めてますさんと話したときにいった、「私立ですけれど有名な大学で、入学率は東大よりむずかしいんですって、家庭の事情で中退したんですけど、教頭先生がとても惜しがって、月謝が足りないのならはくぼくになっても学問をしろって、しまいには校長先生までがたびたび勧誘しにきたそうですわ」
もちろん、ますさんは学制のことなど知らないから、大学に教頭とか校長などの名称があるかどうかも関知しないし、白墨という物は小学校で知っているが、学僕などという存在は聞いたこともないから、白墨になれとはどういうことか、校長が勧誘しにきた、とはどういう意味であるか、――おそらく話す当人の光子がちんぷんかんぷんであるだろうより以上に、まるっきり理解がつかないようであった。
光子のような性格の女性に共通する点は、相手に類教養的知識があるかないかを感知する能力に長じていることと、そういう相手をけむに巻く適当な、――というよりそのときばったりの融通無碍なボキャブラリーを駆使する神経をもっていることであろう。
「あたし小さいころ弱かったでしょ、アギレルー性躰質っていうんですって」と光子はいう、「それだもんで小学校の三年までばあやの里で育てられたのよ、それこそ真綿で包まれて乳母車で送り迎えされるほど大事に育てられたわ」
「へえー、乳母車でねえ」とますさんはいう、「小児麻痺でも患ってたんかね」
「あらいやだ、おますさんたら、乳母車というのは言葉のあやじゃないの、意地わるねえ」と光子はいう、「本当は蝶よ花よっていうところよ」
ますさんは十九のとき長男を産んで以来、三十になるその日まで、生活の砥石ややすりで磨かれたり削られたりしたあげく、不愉快な隣人ともどうにか折り合ってゆく、知恵と忍耐力を身につけていた。
「あたしの実家はね、伊勢の古市にあるのよ、そら、芝居でする吉原の百人斬り、なんとか貢っていう侍の出てくるところ」と光子は語った、「実家は木場といって、六百年も伝わる旧家なのよ、あたし小学校四年のときにばあやの里から実家へ帰ったんだけど、その屋敷の大きいのと広いのには、子供ながらたまげてしまったわ」