← Library‹ 季節のない街 あとがき

私わたくしは去年きょねん(昭和しょうわ三十さんじゅう六ろく年ねん)「青あおべか物語ものがたり」という本ほんをまとめた。それはある漁師りょうし町ちょうの人ひとたちと、そこにおこった出来事できごとについての話はなしであるが、この「季節きせつのない街まち」は、都会とかいの「青あおべか物語ものがたり」といってもいいほど内容ないようには共通きょうつう点てんが多おおいのである。

わが国くにではもちろん、世界せかいのどこでも、極貧ごくひん者しゃは自分じぶんたちの街まちを作つくるようだ。計画けいかく的てきにそうするのではなく、あたかも風かぜの吹ふき溜だまりに塵芥じんかいが集あつまるような、いつ、そうなったともわからないほど自然しぜんな成なり立たちであり、経済けいざい的てきにも感情かんじょう的てきにも、自分じぶんたちの「街まち」以外いがいの人間にんげんとは、交渉こうしょうを持もとうとしないのが一般いっぱんである。

ここの住人じゅうにんたちは「街まち」という概念がいねんでは団結だんけつして他ほかに当あたるけれども、個別こべつ的てきには孤独こどくであり、煩瑣論はんさろん的てきな自尊じそん心しんを固持こじしているのが常つねのようだ。煩瑣はんさ論ろん的てきというのは、作中さくちゅうに出でてくるのだが――たとえば――ひと摘つまみの塩しおを借かりにゆく、という行為こういをとってみても、本当ほんとうにそれが必要ひつようである場合ばあいのほうが多おおいと同時どうじに、少すこしも必要ひつようではないが、親近しんきん感かんを強つよめるために、また相手あいてに優越ゆうえつ感かんを与あたえるために、あるいは吝嗇りんしょくのために、そうすることがしばしばあるのである。

私わたくしがこれらの人ひとたちに、もっとも人間にんげんらしい人間にんげん性せいを感かんずるのは、その日ひのかてを得えるため、いつもぎりぎりの生活せいかつに追おわれているから、虚飾きょしょくで人ひとの眼めをくらましたり自分じぶんを偽いつわったりする暇ひまも金かねもない、ありのままの自分じぶんをさらけだしている、というところにあると思おもう、――もちろん、豊ゆたかな生活せいかつをしている人ひとたちと同様どうよう、かれらにも虚栄きょえい心しんがあり、みえもあり、嫉妬しっとや誹謗ひぼうや貪欲どんよくなどもある。しかしそれらは、いかにも底そこが浅あさく単純たんじゅんなので、すぐにみすかされてしまうし、逆ぎゃく効果こうかをまねく場合ばあいが多おおいようで、そんなところにも人間にんげんの弱よわさやかなしさが率直そっちょくにあらわれるのである。

こういう「街まち」の住人じゅうにんは、一時いちじ的てきなものと、永住えいじゅう者しゃとに大別たいべつされる。一時いちじ的てきな人ひとたちの中なかにも、そうなる本質ほんしつをそなえている者ものと、現象げんしょう的てきな不運ふうんによるものとあり、前者ぜんしゃはしばしば永住えいじゅう者しゃになるし、後者こうしゃはやがてここから脱出だっしゅつする可能かのう性せいをもっていて、これらが以前いぜんからの定住ていじゅう者しゃとのあいだに、現実げんじつ的てきにも心理しんり的てきにも、多種たしゅ多様たようなトラブルをおこす原因げんいんとなり、ささやかではあるが当人とうにん同志どうしでは深刻しんこくな、悲劇ひげきや喜劇きげきをかもしだすようだ。

私わたくしは「季節きせつのない街まち」の中なかでこれらの人ひとたちと再さい対面たいめんしたわけである。登場とうじょうする人物じんぶつ、出来事できごと、情景じょうけいなど、すべて私わたくしの目めで見み、耳みみで聞きき、実際じっさいに接触せっしょくしたものばかりであって、「青あおべか物語ものがたり」と同様どうよう、素材そざいノートの総そうざらえといってもいいくらいである。

――このノートを小説しょうせつとして再現さいげんしながら、作中さくちゅうの人物じんぶつのひとりひとりに、私わたくしは限かぎりない愛着あいちゃくとなつかしさを感かんじた。この人ひとたちはかつて私わたくしの身みぢかに生いきていたのであり、かれらの笑わらい声ごえや、嘆なげきや怒いかりや、啜すすり泣なく声こえが、いまふたたび私わたくしのところに帰かえってきたのである。それを歪曲わいきょくすることなく、できるだけあったままに私わたくしは写うつし取とっていった。

そしてまた、これらの人ひとたちは過去かこのものであるが、現在げんざいもなお、読者どくしゃのすぐ身みぢかにあって、同おなじような失意しついや絶望ぜつぼう、悲かなしみや諦あきらめに日ひを送おくっている人ひとたちがある、ということを訴うったえたいのである。

それゆえ「ここには時限じげんもなく地理ちり的てき限定げんていもない」ということを記しるしておきたい。それは年代ねんだいも場所ばしょも一定いっていではないのである。ではなぜこの「街まち」という設定せっていをしたかというと、年代ねんだいも場所ばしょも違ちがい、社会しゃかい状態じょうたいも違ちがう条件じょうけんでありながら、ここに登場とうじょうする人ひとたちや、その人ひとたちの経験けいけんする悲喜劇ひきげきに、きわめて普遍ふへん的てきな相似そうじ性せいがあるからであった。

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