← Library‹ 季節のない街 親おもい

「そっちの番ばんだよ」とたんば老人ろうじんが云いった、「私わたくしはこの桂かつらはねだ」

岡田おかだ辰弥たつやは重おもたい石いしでも持もちあげるように眼めをあげて、一いち枚まい板いたの古ふるい将棋しょうぎ盤ばんの上うえを見みた。いつも顔色かおいろこそよくないが、切きれ味あじのいい刃物はものを思おもわせるような、きらっとした活気かっきのひらめいている顔かおが、いまはむくんだように力ちからを失うしない、たるんでいるようにみえた。

――またなにか困こまったことがもちあがったんだな。

たんば老人ろうじんはそう思おもったが、けぶりにもみせず、半はんインチほどになったタバコのすい殻からを、キセルの火皿ひざらに詰つめ、それを手焙てあぶりの火ひですいつけた。

「痛いたいな」岡田おかだ辰弥たつやは聞ききとれないほどの声こえで呟つぶやいた、「――弱よわったな」

たんば老人ろうじんは黙だまっていた。辰弥たつや少年しょうねんがやおら駒こまを進すすめても、黙だまってタバコをふかしてい、辰弥たつやも黙だまって盤面ばんめんを見みまもっていた。外そとは雨あめで、古ふるい板葺いたぶき屋根やねを打うつ雨あめの音おとが、かなり高たかく、そして間断かんだんなしに聞きこえていた。

「それじゃあだめだね」とたんば老人ろうじんが忘わすれたじぶんに云いい、盤面ばんめんの駒こまを指ゆびさした、「この桂かつらがはねたんだよ」

辰弥たつや少年しょうねんは指摘してきされた点てんを見みまもったが、いいや、やっちまえと呟つぶやいて、べつの駒こまを動うごかした。たんば老人ろうじんは深ふかい溜息ためいきをつき、タバコをふかした。それから暫しばらくたって、老人ろうじんは黙だまったまま、盤面ばんめんの一隅いちぐうを指ゆびさして云いった。

「角かくが当あたってるよ」

「ええと、そうか」

辰弥たつやは両手りょうての指ゆびを揉もみ合あわせ、盤ばんへのしかかるようにして、駒こまの配置はいちをゆっくり眺ながめまわした。

「なんです」

辰弥たつやは老人ろうじんを見みた。老人ろうじんは喉のどの奥おくで忍しのび笑わらいをしていた。

「なんでもない、いまね、ひょっと治助じすけさんのことを思おもいだしたんだよ」と老人ろうじんは柔和にゅうわな眼めで少年しょうねんを見みながら云いった、「――あの男おとこはなにをするにも、慎重しんちょうに念ねんを入いれて考かんがえる癖くせがあるんだよ、或あるときこんなことを云いったよ」と老人ろうじんはそこで声こえの調子ちょうしを変かえた、「――私わたくしはね、よくよくはらをきめてね、それがよかろうと思おもったものだからね、めしを喰たべることにしたよ」

「なんです、それは」

「べつに意味いみはないんだよ」老人ろうじんはまた喉のどの奥おくで忍しのび笑わらいをした、「めしを食くうのに、よくよくはらをきめた、というだけのことさ、あの男おとこはいつもそんなふうなんだがね」

辰弥たつやは聞きいていたのかどうか、腕組うでぐみをして天てん床ゆかを見みあげるかと思おもうと、振向ふりむいて、じっと壁かべをみつめたりした。

たんば老人ろうじんはキセルを手焙てあぶりのふちではたき、火箸ひばしで火皿ひざらの中なかをほじくった。

「またあにきのやつが帰かえって来きたんです」と辰弥たつやは云いった、「いつものとおりなんです、僕ぼくはもういやになっちまった」

たんば老人ろうじんは、いちど置おいたキセルを取とりあげ、タバコのすい殻からのはいったなにかの空あき罐かんを引ひきよせたが、思おもい直なおしたとみえて、また元もとのところへそっとキセルを置おき、なんということもなく、溜息ためいきをついた。

「話はなしてごらん」と老人ろうじんは云いった、「悪わるい物ものを喰たべたときは、ひまし油ゆをのんで出だしてしまうに限かぎる、さっぱりするだけでも儲もうけものだからね」

「金かねを都合つごうしろって云いうんだ、帰かえって来くればいつもそうなんだけれど、こんどは大おおきいんですよ」

老人ろうじんは黙だまったまま、一いち枚まい板いたの古ふるい将棋しょうぎ盤ばんを、駒こまの配置はいちの動うごかないように、脇わきのほうへそっと押おしやった。

「僕ぼくは自分じぶんがなんのために生いきて来きたのか、なんのために生いきてゆくのかわからなくなってきた」と辰弥たつやは云いった、「あにきは十じゅう二にのとしに家出いえでをしました、僕ぼくは二ふたつだったからなにも知しらないんですけれど、戦争せんそうが終おわってすぐ、おやじが死しんでしまって、うちの生活せいかつがどん底ぞこになったとき、あにきは逃にげだしてしまったんです」

父親ちちおやは軍需ぐんじゅ機械きかいの下請したうけ工場こうじょうに勤つとめていて、栄養えいよう失調しっちょうと過労かろうのために、敗戦はいせんの年としの十じゅう月がつに死しんだ。あとには妻つまと十じゅう二にになる長男ちょうなん、二に歳さいの二男じなんの三さん人にんが残のこり、長男ちょうなんは父ちちの死後しご七しち日にちと経たたぬうちに、ふいと家いえを出でていったまま、行方ゆくえ不明ふめいになってしまった。――そのまえ、彼かれは学童がくどう疎開そかいで仙台せんだいの松島まつしまへいっていた。期間きかんは二に年ねんくらいだったろう、家いえへ帰かえったのは九きゅう月がつ末まつだったから、辰弥たつやは殆ほとんど顔かおも覚おぼえてはいなかった。そのころ一般いっぱんの生活せいかつがどんなものだったかは、ここに繰くり返かえすまでもない。母ははは二十にじゅう一いち年ねんの二に月がつに再婚さいこんした。

底そこの知しれない社会しゃかい的てき不安ふあんと食糧しょくりょう難なん、あらゆる物資ぶっし不足ふそくの中なかで、女おんな一人ひとりのゆくさきが心こころぼそくなったのは当然とうぜんだろう。再婚さいこんした相手あいては母ははより二ふたつ若わかく、大学だいがくを出でたサラリー・マンだった、ということであるが、戦後せんごはブローカーのようなことをしていた。

「僕ぼくはその人ひとを本当ほんとうの父ちちだと思おもっていました、いまでもそうとしきゃ思おもえないんです」と辰弥たつやは云いった、「僕ぼくの下したに弟おとうと二人ふたりと妹いもうとが生うまれました、それが父ちちの子こなんですが、父ちちは弟おとうとたちよりも、僕ぼくをいちばん可愛かわいがってくれました、叱しかることも叱しかるけれど、叱しかりかたでも弟おとうとたちとは違ちがうんです、僕ぼくは母ははよりも父ちちのほうによけいあまえました」

辰弥たつやは五ご歳さいのときから英語えいごを教おしえられた。進駐しんちゅう軍ぐんは半はん永久えいきゅう的てきに日本にっぽんを支配しはいするだろう、だから英語えいごができなければ、これからの日本にっぽん人にんは生いきていけないんだ、と父ちちは云いった。

辰弥たつやが十じゅう二にのとき、家出いえでをした兄あにが帰かえって来きた。父ちちが仕事しごとで大阪おおさかへでかけた夜よるのことで、そのことを慥たしかめて来きたらしい。固太かたぶとりに肥こえて眼めが赤あかく、髪かみもぼさぼさだし髭ひげだらけで、荒あらい呼吸こきゅうはむせるほど酒臭さけくさかった。

母ははは泣なきながらとびついた。

母ははは辰弥たつやに、これがおまえのじつの兄あにさんだ、と告つげたが、辰弥たつやには信しんじられなかったし、弟おとうとや妹いもうとたちは側がわへ寄よろうともしなかった。兄あにであるかないかというより、こわい男おとこだと思おもったのだ。

としは満まんで二十にじゅう二に歳さいだったろう。しかし見みたところはずっとふけていた。酔よっているために赤あかかった眼めや、黄色きいろっぽい大おおきな歯はや、ぶしょう髭ひげの伸のびた、固太かたぶとりの、膏あぶらでぎらぎら光ひかっている顔かおは、特攻とっこう隊たいくずれ、などといわれた若者わかものたちのようだし、ことさらにやさしい作つくり声ごえで話はなす口くちぶりには、ぶきみな凄すごみさえ感かんじられた。

「おっかさん、夜よなべなんかおよしなさい、疲つかれますよ、――なんて云いうんです」と辰弥たつやは無む表情ひょうじょうに続つづけた、「肩かたを揉もみましょうか、だとか、苦労くろうしましたねだとか、おっかさんの夢ゆめをみて泣なかない晩ばんはなかった、だとかって、――そらぞらしいあまったれ声こえで、おっかさんおっかさんの云いいどおしなんです」

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