← Library‹ 季節のない街 牧歌調

増田ますだ益夫ますおは三十さんじゅう二に歳さい、妻つまの勝子かつこは二十にじゅう九きゅう歳さいであった。

河口かわぐち初太郎はつたろうは三十さんじゅう歳さい、妻つまの良江よしえは二十にじゅう五ご歳さいであった。

増田ますだ夫妻ふさいは東ひがしの長屋ながやに住すみ、河口かわぐち夫妻ふさいは北きたの長屋ながやに住すんでいた。この二ふたつの長屋ながやが、ほぼT字じ形けいに接せっするところに共同きょうどう水道すいどうがあり、まわりが空地くうちになっていて、水みず道端みちばたはかみさんたち、空地くうちは子供こどもたちで、どちらもそうぞうしく賑にぎわっていた。

増田ますだと河口かこうは日雇ひやとい人夫にんぷに出でていた。特とくに仲なかが良よいわけでもないが、でかけるときいつもいっしょだし、酔よっていっしょに帰かえることも稀まれではなかった。――増田ますだは河口かこうのことを「初はつつぁん」と呼よび、河口かこうは増田ますだを「あにき」と呼よんだ。

かれらの妻つまたちも、共同きょうどう水道すいどうで毎日まいにちのように顔かおが合あい、他たのかみさんたち同様どうように、ぐちをこぼしあったり、人ひとのうわさや蔭口かげぐちや、そのほか数かぞえ切きれないほどの話題わだいについて、おしゃべりの快楽かいらくに耽ふけるのであった。――だからといって、二人ふたりが特とくに親密しんみつだというわけではない。

「まあ聞きいとくれよおよっさん、あんただから話はなすんだけどさ」

勝子かつこは良江よしえにこう呼よびかける。そして、閨房けいぼうの秘事ひじまでうちあけたうえ、誰だれにもないしょだよ、と念ねんを押おす。その口くちぶりや表情ひょうじょうには信頼しんらいと、深ふかい親近しんきん感かんとがあふれていて、だから親おやきょうだいにも話はなせないことを話はなせるのだ、というふうに感かんじられるのであるが、実際じっさいには相手あいてが良江よしえでなくともいいのだ。そのとき話はなしたい衝動しょうどうがおこり、適当てきとうな相手あいてがありさえすれば、どのおかみさんにも話はなせないようなことを話はなすのに、少すこしも差支さしつかえはないのであった。

これは良江よしえに置おき替かえても同おなじことであるし、他たのかみさんたちの多おおくにも当あて篏はまるだろう。たまたまそうでなく、二人ふたりだけ特とくに親したしいとか、水みず道端みちばたのパーティーを好このまないような者ものがいれば、「おへんじん」とか「おきちさん」などという悪評あくひょうから逭のがれるすべはないのであった。

十じゅう月がつ末まつの或ある夜よる、九きゅう時じころのことであるが、河口かわぐち初太郎はつたろうの家いえへ増田ますだ益夫ますおが酔よってあらわれた。

その日ひは二人ふたりとも、近来きんらいになくいい日当にっとうの仕事しごとがあり、帰かえりにはいっしょに一いち杯はいやった。そしていま、河口かこうは妻つまの良江よしえを相手あいてに、またぐずぐずと飲のんでいるところだったので、増田ますだの顔かおを見みるなり勇気ゆうきづいて「ようあにい」と手てをあげた。

「いいとこへ来きてくれた、まああがってくれ」

「おらあそんなきげんじゃあねえ、おめえに聞きいてもれえてえことがあって来きたんだ」

増田ますだはあがって、夫婦ふうふの脇わきへどかっとあぐらをかいた。顔かおは赤あかいし眼めも赤あかいし、息いきは腐くさった熟柿じゅくしのような匂においがした。

「まあ一杯いっぱいいこう」と河口かこうは持もっていた湯呑ゆのみを、ちゅっと啜すすってから差出さしだした、「そのうえで話はなしを聞きこうじゃねえか、どうしたんだ」

「どうもこうもねえや」良江よしえの注そそいでくれた酒さけを、水みずでも呷あおるように飲のんで、増田ますだは云いった、「どうもこうもありゃしねえ、うちのすべたあまのちくしょう、おらあまるでのら犬いぬがシャッポをかぶされたような心持こころもちだ」

「ふーん」河口かこうは首くびをかしげた。

「云いっちゃあ悪わるいが、めしを食くらってるときに頭あたまから、ぱいすけ一いち杯はいの砂すなをぶちまけられたような気持きもちだぜ」

「ふーん」河口かこうはあにいの心持こころもちを推察すいさつし、推察すいさつする限かぎりにおいて、事情じじょうの複雑ふくざつさ――具体ぐたい的てきにはまだなにもわからないにしても――に深ふかく感動かんどうした、「いつもながら、あにいのところはむずかしいな」

「お勝まさるさんも気きが強つよいからね」良江よしえは増田ますだに酒さけを注そそいでやりながら云いった、「気性きしょうはいい人ひとなんだけども、かっとなるとかっとなっちゃうのね」

「砂すなをどうしたんだって」良江よしえがしゃべりだすと諸事しょじこんがらかってしまうのが常つねなので、河口かこうはべつの湯呑ゆのみに自分じぶんで酒さけを注そそぎながら反問はんもんした、「ほんとに頭あたまからぶちまけちゃったのか」

「砂すなをぶちまけやしねえさ、まさか、そんなような心持こころもちだってことを云いったまでだが、てんでもう話はなしにならねえ」と増田ますだは酒さけを飲のんで云いった、「おめえと別わかれてからよ、おらあ湯ゆへいって帰かえって一杯いっぱいやってたあ、いやにつんけんしゃあがるんで、なにがどうしたときいたら、おまえさんの知しったこっちゃあねえ、といってそっぽを向むきゃあがる、おれの知しったこってねえならそんなにつんけんするな、って云いってやったら、どうしてさ、と口くち返答へんとうをしゃあがる、どうしてってべらぼうめえと云いいかけると、べらぼうとはなんだい、と突つっかかってきゃあがった」

亭主ていしゅに関係かんけいのないことで、亭主ていしゅにつんけんするのはべらぼうじゃねえか、と云いうと、それじゃあおまえもべらぼうかいと云いう。おれがなんでべらぼうだ。いつもあたしに関係かんけいのないことであたしに当あたりちらすじゃないか、番ばんたびじゃないか、そうだろうと切返きりかえした。

「亭主ていしゅにゃあ亭主ていしゅの見識けんしきてえものがあらあ、なあ初はつつぁん」

河口かこうは「そうとも」と云いって湯呑ゆのみの酒さけを呷あおった。気きのせいか、いかにも見識けんしきを確証かくしょうするような飲のみかたであった。

「男おとこってものは外そとで難儀なんぎの多おおいもんだ」と増田ますだは続つづけた、「まだけつっぺたの青あおいような若造わかぞうの人ひと繰くりにへいこらしたり、無理むりな荷揚にあげにへたばっているのを、畜生ちくしょうのようにどなられたり、それこそ血ちの涙なみだも出でねえようなおもいをしなけりゃあならねえ、だからてめえのうちへ帰かえったときぐれえ、ついかかあにでも当あたりたくなるのが人情にんじょうじゃあねえか」

おれのいうことが間違まちがっているかと云いって、増田ますだはぐっと酒さけを飲のみほし、良江よしえがすぐに酌しゃくをしてやった。

「あにいの云いうとおりよ、いつだってあにいの云いうことは間違まちがえなんかありゃあしねえさ」

「ところがうちのあまときたら負まけちゃあいねえ、昔むかしから一いち度どだってはいとぬかしたためしがねえんだから」と増田ますだは新あたらしく注そそがれた酒さけを飲のんで云いった、「男おとこが外そとで難儀なんぎをすれば、うちにいる女おんなにだって難儀なんぎなことがあるんだ、それこそむし歯ばを五ご寸すん釘くぎでほじくられるようなおもいをすることが幾いくらもあるんだ、けれどもあたしゃ女房にょうぼうだ、疲つかれて帰かえって来くる亭主ていしゅに、いちいちこうめったああめったって泣なきごとを並ならべちゃあ悪わるいから、黙だまってなんにも云いわねえでがまんしている、おまえにゃあそんなことはわかっちゃいねえだろう、ってへこましゃあがるんだ」

それも理屈りくつだと云いおうとして、河口かこうは慌あわてて口くちをつぐんだ。

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