← Library‹ 二十四の瞳 十 ある晴れた日に

四よん月がつとはいってもまだ寒さむさの名残なごりは午後ごごの浜はまべにみちていた。砂すなの上うえに足あしをなげだしていた大石おおいし先生せんせいは、思おもわず立たちあがって、はたはたとモンペのひざをはたいた。そのうしろ姿すがたへ呼よびかける者ものがあった。

「先生せんせい、そんなとこで、なにしておいでますか?」

西口にしぐちミサ子こであった。

「まあ、ミサ子こさん」

はでな花模様はなもようの銘仙めいせんの袷あわせにきちんと帯おびつきで、ミサ子こはこれからどこかへ出でかけそうなかっこうに見みえた。あらたまったあいさつのあと、きゅうに親したしさをみせて、

「先生せんせいにお目めにかかりたくて、いま、学校がっこうへゆくところでしたの」

そういってから、もう一いち度どあらためて腰こしをこごめ、

「先生せんせい、このたびはまた、ふしぎな御縁ごえんで勝子かつこがお世話せわになることになりまして、どうぞよろしくお願ねがいもうします」

そのゆっくりとしたものいいぶりや、ていねいなものごしは、二十にじゅう年ねん前まえの彼女かのじょの母親ははおやにそっくりであった。しかしミサ子このほうは、さすがにあっさりと生地きじをみせ、なつかしそうにいった。

「先生せんせいがまた岬みさきへおいでるというのを聞きいて、わたし、うれしくて涙なみだが出でましたの。母子おやこ二に代だいですもの。こんなこと、めずらしいですわ、ほんとに。でも先生せんせい、お達者たっしゃで、よろしかったこと」

「おかげさまで。でも、みんな、いろんな苦労くろうをくぐりましたね」

それには答こたえず、あたりを見みまわしながら、ミサ子こは、

「先生せんせいが怪我けがをしたところ、ここらへんでしたかしらん?」

なつかしそうな目めをしていった。

「そう、でしたね。よく思おもいだしてくれたこと」

「そりゃあ忘わすれませんわ。ときどき思おもいだしては早苗さなえさんと話はなしていたんですもの。わたしらのクラスは、岬みさきに学校がっこうがひらかれていらいの変かわりものの寄より集あつまりらしいって。ほら、あのとき、先生せんせいとこまで歩あるいていったりして」

そういいながら、はるかな一本松いっぽんまつに目めをやり、ちょうど近ちかづいてきた大吉だいきちの舟ふねを、けげんな顔かおでながめた。舟ふねはもう目めの前まえにその姿すがたを見みせていたのだ。そのほうを、顔かおをふってしめしながら、大石おおいし先生せんせいは笑顔えがおでいった。

「ミサ子こさん、あれ、わたしの息子むすこですよ。ああして毎日まいにち、わたしを迎むかえにきてくれますの」

それを聞きくとミサ子こは驚おどろきを声こえに出だし、

「まあ、そうですの。それで先生せんせい、浜はまにおいでたんですか」

もう三み日かつづいている大吉だいきちの出迎でむかえを、ミサ子こはまだしらなかったのだろうか。昔むかしからあまり人ひととまじわらない家風かふうをミサ子こもうけついでいるようにみえた。しかし時代じだいの風かぜはミサ子この家いえの高たかい土塀どべいをも忘わすれずにのりこえて、彼女かのじょの夫おっとをもさらっていったまま、まだ帰かえらぬ兵隊へいたいのひとりに加くわえていた。だが目めの前まえに見みるミサ子こは、くったくのない娘むすめのように大おおらかに、昔むかしながらの人ひとのよい顔かおつきでにこにこしていた。そまつなモンペから足あしをぬくことができないでいる村人むらびとのなかで、彼女かのじょひとりは大家おおやの若わか奥おくさまなのだ。永ながい年月としつきの昨日きのうから今日きょうにつづくさまざまな苦労くろうを、どのようにしてミサ子こはくぐってきたのであろうか。終戦しゅうせんのときには、西口にしぐち家かの倉庫そうこにも、軍ぐんの物資ぶっしが天井てんじょうまで積つみあげてあるという噂うわさもあったが、ほんとうかうそかさえも分わからずにすぎている。その物資ぶっしでミサ子この家いえはふとっているという噂うわさも聞きいたが、ミサ子この顔かおつきには、そんな悪あくのかげりはみえなかった。

今いまも彼女かのじょは大石おおいし先生せんせいと肩かたをならべ、大吉だいきちの舟ふねのひとゆれごとに本気ほんきな心配しんぱいをみせた。

「この風ふうでは、子こどもには少すこし無理むりですわ、先生せんせい。あ、あぶない!」

大吉だいきちの小ちいさなからだは櫓ろといっしょに、海うみにのめりこみそうに見みえたりする。そのけんめいさは、小舟こぶねとともに大吉だいきちの小ちいさなからだにあふれていて、見みているこちらもしぜんに力りきんできた。おかでは寒さむくさえあるのに、大吉だいきちは汗あせみずくにちがいなかった。

「自転じてん車しゃは、もうお乗のりにならないんですか、先生せんせい」

ミサ子こから声こえをかけられてもそれに耳みみをかすゆとりもなく、大石おおいし先生せんせいは、波なみにもまれる大吉だいきちを小舟こぶねもろともたぐりよせたい気持きもちで見みていた。ミサ子こはかさねて、

「雨あめや風かぜの日ひは、舟ふねはむりでしょう。自転じてん車しゃのほうが、かえって早はやいでしょうに」

「ええ、でもねミサ子こさん、自転じてん車しゃなんて、きょう日びは、買かうに買かえないでしょ。もしも買かえるとしても、ふところが承知しょうちしない」

舟ふねから目めをはなさずにいいながら、以前いぜんでさえも月賦げっぷで買かったことを思おもいだした。それをしてくれた富子とみこという自転じてん車しゃ屋やの娘むすめは、そのあと結婚けっこんして東京とうきょうでくらしていたのだが、はがきさえも品切しなぎれがちの戦争せんそう中ちゅうに消息しょうそくもたえ、そのままになっている。東京とうきょうの本所ほんじょで、やはり自転じてん車しゃ屋やをしていた彼女かのじょ一家いっかが、今いまどこにどうしているか、おそらくは三さん月がつ九ここの日かの空襲くうしゅうで一家いっか全滅ぜんめつしたのではなかろうかと考かんがえだしたのは、戦争せんそうも終おわるころだった。わが身みのあわただしい転変てんぺんに心こころをうばわれ、人ひとのことどころではなかったのだ。

K町ちょうの富子とみこの父ちちたちの住すんでいた家いえはいまも自転じてん車しゃ屋やであるが、どんないきさつからか戦争せんそう中ちゅうに店主てんしゅがかわって、今いまでは、いつ見みても貧相ひんそうな感かんじの年としとった男おとこが一人ひとり、きたない古こ自転じてん車しゃをいじくっているだけだった。そこでも、あととり息子むすこが戦死せんししたのだ。新あたらしい自転じてん車しゃなど、どこにあるのだろう。だのにミサ子こは、しごくかんたんにいった。

「先生せんせい、もしも自転じてん車しゃをお買かいになるんでしたら、ご相談そうだんにのりますから」

それがどういう意味いみなのか問といかえすひまもなく、大吉だいきちの舟ふねはきゅうに速力そくりょくをまして近ちかよってきた。陸地りくちのかげにはいって、風かぜがなくなったのであろう。大吉だいきちは母親ははおやにだけにっと笑わらって、そっぽをむいてすましていた。水棹みずさおを押おしていつもするように舳へさきを砂浜すなはまによせ、母親ははおやの乗のりこむのをまっている大吉だいきちの横顔よこがおに、いつもとちがったことばがいち早はやくとんできた。

「さ、坊ぼっちゃん、つかまえてますから、あがってらっしゃい」

おどろいてふりかえる大吉だいきちに、こんどは大石おおいし先生せんせいが笑わらいかけ、

「大吉だいきち、ひと休やすみしたら?」

だまってかぶりをふる大吉だいきちへ、かさねて、

「ちょっとお母ははさん、この方かたに、お話はなしがあるの。だから、そのあいだだけ待まって」

大吉だいきちはおこったような顔かおをして、だまって浜はまにとびおりた。大おおきな石いしにとも綱づなをとるのをまって、

「大吉だいきちも、ここへおいで」

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