四月とはいってもまだ寒さの名残りは午後の浜べにみちていた。砂の上に足をなげだしていた大石先生は、思わず立ちあがって、はたはたとモンペのひざをはたいた。そのうしろ姿へ呼びかける者があった。
「先生、そんなとこで、なにしておいでますか?」
西口ミサ子であった。
「まあ、ミサ子さん」
はでな花模様の銘仙の袷にきちんと帯つきで、ミサ子はこれからどこかへ出かけそうなかっこうに見えた。あらたまったあいさつのあと、きゅうに親しさをみせて、
「先生にお目にかかりたくて、いま、学校へゆくところでしたの」
そういってから、もう一度あらためて腰をこごめ、
「先生、このたびはまた、ふしぎな御縁で勝子がお世話になることになりまして、どうぞよろしくお願いもうします」
そのゆっくりとしたものいいぶりや、ていねいなものごしは、二十年前の彼女の母親にそっくりであった。しかしミサ子のほうは、さすがにあっさりと生地をみせ、なつかしそうにいった。
「先生がまた岬へおいでるというのを聞いて、わたし、うれしくて涙が出ましたの。母子二代ですもの。こんなこと、めずらしいですわ、ほんとに。でも先生、お達者で、よろしかったこと」
「おかげさまで。でも、みんな、いろんな苦労をくぐりましたね」
それには答えず、あたりを見まわしながら、ミサ子は、
「先生が怪我をしたところ、ここらへんでしたかしらん?」
なつかしそうな目をしていった。
「そう、でしたね。よく思いだしてくれたこと」
「そりゃあ忘れませんわ。ときどき思いだしては早苗さんと話していたんですもの。わたしらのクラスは、岬に学校がひらかれていらいの変わりものの寄り集まりらしいって。ほら、あのとき、先生とこまで歩いていったりして」
そういいながら、はるかな一本松に目をやり、ちょうど近づいてきた大吉の舟を、けげんな顔でながめた。舟はもう目の前にその姿を見せていたのだ。そのほうを、顔をふってしめしながら、大石先生は笑顔でいった。
「ミサ子さん、あれ、わたしの息子ですよ。ああして毎日、わたしを迎えにきてくれますの」
それを聞くとミサ子は驚きを声に出し、
「まあ、そうですの。それで先生、浜においでたんですか」
もう三日つづいている大吉の出迎えを、ミサ子はまだしらなかったのだろうか。昔からあまり人とまじわらない家風をミサ子もうけついでいるようにみえた。しかし時代の風はミサ子の家の高い土塀をも忘れずにのりこえて、彼女の夫をもさらっていったまま、まだ帰らぬ兵隊のひとりに加えていた。だが目の前に見るミサ子は、くったくのない娘のように大らかに、昔ながらの人のよい顔つきでにこにこしていた。そまつなモンペから足をぬくことができないでいる村人のなかで、彼女ひとりは大家の若奥さまなのだ。永い年月の昨日から今日につづくさまざまな苦労を、どのようにしてミサ子はくぐってきたのであろうか。終戦のときには、西口家の倉庫にも、軍の物資が天井まで積みあげてあるという噂もあったが、ほんとうかうそかさえも分からずにすぎている。その物資でミサ子の家はふとっているという噂も聞いたが、ミサ子の顔つきには、そんな悪のかげりはみえなかった。
今も彼女は大石先生と肩をならべ、大吉の舟のひとゆれごとに本気な心配をみせた。
「この風では、子どもには少し無理ですわ、先生。あ、あぶない!」
大吉の小さなからだは櫓といっしょに、海にのめりこみそうに見えたりする。そのけんめいさは、小舟とともに大吉の小さなからだにあふれていて、見ているこちらもしぜんに力んできた。おかでは寒くさえあるのに、大吉は汗みずくにちがいなかった。
「自転車は、もうお乗りにならないんですか、先生」
ミサ子から声をかけられてもそれに耳をかすゆとりもなく、大石先生は、波にもまれる大吉を小舟もろともたぐりよせたい気持で見ていた。ミサ子はかさねて、
「雨や風の日は、舟はむりでしょう。自転車のほうが、かえって早いでしょうに」
「ええ、でもねミサ子さん、自転車なんて、きょう日は、買うに買えないでしょ。もしも買えるとしても、ふところが承知しない」
舟から目をはなさずにいいながら、以前でさえも月賦で買ったことを思いだした。それをしてくれた富子という自転車屋の娘は、そのあと結婚して東京でくらしていたのだが、はがきさえも品切れがちの戦争中に消息もたえ、そのままになっている。東京の本所で、やはり自転車屋をしていた彼女一家が、今どこにどうしているか、おそらくは三月九日の空襲で一家全滅したのではなかろうかと考えだしたのは、戦争も終るころだった。わが身のあわただしい転変に心をうばわれ、人のことどころではなかったのだ。
K町の富子の父たちの住んでいた家はいまも自転車屋であるが、どんないきさつからか戦争中に店主がかわって、今では、いつ見ても貧相な感じの年とった男が一人、きたない古自転車をいじくっているだけだった。そこでも、あととり息子が戦死したのだ。新らしい自転車など、どこにあるのだろう。だのにミサ子は、しごくかんたんにいった。
「先生、もしも自転車をお買いになるんでしたら、ご相談にのりますから」
それがどういう意味なのか問いかえすひまもなく、大吉の舟はきゅうに速力をまして近よってきた。陸地のかげにはいって、風がなくなったのであろう。大吉は母親にだけにっと笑って、そっぽをむいてすましていた。水棹を押していつもするように舳を砂浜によせ、母親の乗りこむのをまっている大吉の横顔に、いつもとちがったことばがいち早くとんできた。
「さ、坊ちゃん、つかまえてますから、あがってらっしゃい」
おどろいてふりかえる大吉に、こんどは大石先生が笑いかけ、
「大吉、ひと休みしたら?」
だまってかぶりをふる大吉へ、かさねて、
「ちょっとお母さん、この方に、お話があるの。だから、そのあいだだけ待って」
大吉はおこったような顔をして、だまって浜にとびおりた。大きな石にとも綱をとるのをまって、
「大吉も、ここへおいで」