十日すぎても、半月たっても女先生は姿を見せなかった。職員室の外の壁にもたせてある自転車にほこりがたまり、子どもたちはそれをとりまいて、しょんぼりしていた。もう小石先生はこないのではないかと考えるものもあった。本校がよいの生徒にしてもそうだ。先生の自転車がどれほど毎日のはげみになっていたか、めいめいが、長い道中どれほど小石先生の姿をまっていたか、小石先生にあわなくなってから、そう思った。村の人にしても同じだった。だれがどうというのではなく、不当につらくあたっていたことを、ひそかに悔いているようだった。なぜなら、小石先生の評判がきゅうによくなったのだ。
「あの先生ほど、はじめから子どもにうけた先生は、これまでになかったろうな」
「早うなおってもらわんと、こまる。岬の子どもが、先生をちんばにして、てなことになると、こまるもん。あとへ来手がなかったりすると、なおこまる」
「ちんばになんぞ、ならにゃえいがなァ。若い身空で、ちんばじゃ、なおっても、かようにこまるじゃろな」
こんなふうに女先生の噂をした。どうしてももういちど岬の学校へきてもらいたい気持がふくまれていた。きてもらわないと、ほんとに困るのだ。直接に、もっとも困ったのは男先生だった。小さな村の小学校では、唱歌は一週一度だった。その一時間を、男先生はもてあましたのだ。女先生が休みだしてから、はじめのうちは、ならった歌を合唱させたり、じょうずらしい子どもに独唱させたりした。そうしてひと月ほどはすんだが、いつまでもごまかすわけにもゆかず、そこで男先生はとうとうオルガンのけいこをはじめ、そのために汗を流した。先生は声をあげて歌うのである。
ヒヒヒフミミミ イイイムイ――
ドドドレミミミ ソソソラソ――と発音するところを、年よりの男先生はヒヒヒフミミミ――という。それは昔、男先生が小学校のときにならったものであった。
ミミミミフフフ ヒヒフミヒ――
唱歌は土曜日の三時間目ときまっている。うれしくたのしく歌ってわかれて、日曜日をむかえるという寸法の時間割であったのが、子どもにとっても先生にとっても、きゅうにおもしろくない土曜日の三時間目になってしまった。男先生にとっては、なおのことである。木曜日ごろになると、もう男先生は土曜日の三時間目が気になりだし、そのために、きゅうに気短かになって、ちょっとのことで生徒にあたりちらした。わき見をしたといっては叱りつけ、わすれものをしてきた生徒をうしろに立たせた。
「男先生、このごろ、おこりばっかりするようになったな」
「すかんようになったな。どうしたんじゃろな」
子どもたちがふしぎがるそのわけを、一ばんよく知っている男先生の奥さんは、ひそかに心配して、それとなく男先生を助けようとした。金曜日の夜になると、奥さんは内職の麦稈真田をやめてオルガンのそばに立ち、先生をはげました。
「わたしが生徒になりますわ」
「うん、なってくれ」
豆ランプが、ちろちろゆらぎながら、オルガンと、二人の年より夫婦の姿をてらしているところは、もしも女の子がこれを見たら、ふるえあがりそうな光景である。やみと光りの交錯のなかで先生と奥さんは歌いかわしていた。
ヒヒヒフ ミミミ イイイムイ
奥さんだけが歌い、それにオルガンの調子があうまでにはだいぶ夜もふけた。村はもう一軒のこらず寝しずまっていることで、かえって気がねでもしているように、奥さんは豆ランプを消してから足さぐりで部屋にもどりながら、ほうっとため息をし、ひそやかに話しかけた。
「おなご先生も、えらい苦労かけますな」
「うん。しかし、むこうにすりゃあ、もっと苦労じゃろうて」
「そうですとも、あんたのオルガンどころじゃありませんわ。足一本折られたんですもん」
「もしかしたら、大石先生はもう、もどってこんかもしれんぞ。先生よりも、あの母親のほうが、えらいけんまくだったもんな。かけがえのない娘ですさかい、二度とふたたび、そんな性わるの村へは、もうやりとうありません、いうてな」
「そうでしょうな。しかし、こられんならこられんで、代りの先生がきてくれんと困りますな」
人にきかれたら困るとでもいうようにないしょ声でいって、うらめしそうに、ちらりと海のむこうを見た。一本松の村も静かにねむっているらしく、星くずのような遠い灯がかすかにまたたいている。こんな夜ふけに、こんな苦労をしているのはじぶんたちだけだと思うと、女先生がうらめしかった。
あれ以来、奥さんもまたひと役かって、四年生五人の裁縫をうけもっていたのだ。しかし、雑巾さしの裁縫はちっとも苦労ではなかった。まるで手まりでもかがるように、ていねいにさすのを、一時間のあいだ、かわるがわるにみてやればそれですむ。だが、唱歌だけは、なんとしてもオルガンがむつかしい。オルガンは、裁縫するようには手が動かないからだ。それを一生けんめい、ひきこなそうとする男先生の勉強ぶりは、奥さんにとっては、神々しいようでさえあった。十月だというのに、男先生は、たらたら汗を流していた。外へきこえるのをはばかって、教室の窓はいつもしめてあったから、汗はよけい流れた。
先生ならばオルガンぐらいひけるのがあたりまえなのだが、なにしろ、小学校を出たきり、努力ひとつで教師になった男先生としては、なによりもオルガンがにが手であった。田舎のこととて、どこの学校にも音楽専任の先生はいなかった。どの先生もじぶんの受けもちの生徒に、体操も唱歌も教えねばならない。そんなこともいやで、じぶんからたのんで、こんなへんぴな岬へきたのであったのに、今になってオルガンの前で汗を流すなど、オルガンをたたきつけたいほど腹が立った。
しかし、今夜はそうではなかった。奥さんひとりの生徒にしろ、ひき手と歌い手の調子が合うところまでいったのだ。そんなわけで、男先生のほうは、わりとごきげんだった。そこで奥さんにむかって、少し鼻をたかくした。
「おれだって、ひく気になればオルガンぐらい、すぐひけるんだよ」
奥さんもすなおにうなずいた。
「そうですとも、そうですとも」