← Library‹ 二十四の瞳 三 米五ン合豆一升

十とお日かすぎても、半月はんつきたっても女じょ先生せんせいは姿すがたを見みせなかった。職員室しょくいんしつの外そとの壁かべにもたせてある自転じてん車しゃにほこりがたまり、子こどもたちはそれをとりまいて、しょんぼりしていた。もう小石こいし先生せんせいはこないのではないかと考かんがえるものもあった。本校ほんこうがよいの生徒せいとにしてもそうだ。先生せんせいの自転じてん車しゃがどれほど毎日まいにちのはげみになっていたか、めいめいが、長ながい道中どうちゅうどれほど小石こいし先生せんせいの姿すがたをまっていたか、小石こいし先生せんせいにあわなくなってから、そう思おもった。村むらの人ひとにしても同おなじだった。だれがどうというのではなく、不当ふとうにつらくあたっていたことを、ひそかに悔くいているようだった。なぜなら、小石こいし先生せんせいの評判ひょうばんがきゅうによくなったのだ。

「あの先生せんせいほど、はじめから子こどもにうけた先生せんせいは、これまでになかったろうな」

「早はやうなおってもらわんと、こまる。岬みさきの子こどもが、先生せんせいをちんばにして、てなことになると、こまるもん。あとへ来手きてがなかったりすると、なおこまる」

「ちんばになんぞ、ならにゃえいがなァ。若わかい身空みそらで、ちんばじゃ、なおっても、かようにこまるじゃろな」

こんなふうに女じょ先生せんせいの噂うわさをした。どうしてももういちど岬みさきの学校がっこうへきてもらいたい気持きもちがふくまれていた。きてもらわないと、ほんとに困こまるのだ。直接ちょくせつに、もっとも困こまったのは男おとこ先生せんせいだった。小ちいさな村むらの小しょう学校がっこうでは、唱歌しょうかは一いち週しゅう一いち度どだった。その一いち時間じかんを、男おとこ先生せんせいはもてあましたのだ。女じょ先生せんせいが休やすみだしてから、はじめのうちは、ならった歌うたを合唱がっしょうさせたり、じょうずらしい子こどもに独唱どくしょうさせたりした。そうしてひと月がつほどはすんだが、いつまでもごまかすわけにもゆかず、そこで男おとこ先生せんせいはとうとうオルガンのけいこをはじめ、そのために汗あせを流ながした。先生せんせいは声こえをあげて歌うたうのである。

ヒヒヒフミミミ イイイムイ――

ドドドレミミミ ソソソラソ――と発音はつおんするところを、年としよりの男おとこ先生せんせいはヒヒヒフミミミ――という。それは昔むかし、男おとこ先生せんせいが小しょう学校がっこうのときにならったものであった。

ミミミミフフフ ヒヒフミヒ――

唱歌しょうかは土曜どよう日ひの三さん時間じかん目めときまっている。うれしくたのしく歌うたってわかれて、日曜にちよう日ひをむかえるという寸法すんぽうの時間じかん割わりであったのが、子こどもにとっても先生せんせいにとっても、きゅうにおもしろくない土曜どよう日ひの三さん時間じかん目めになってしまった。男おとこ先生せんせいにとっては、なおのことである。木曜もくよう日ひごろになると、もう男おとこ先生せんせいは土曜どよう日ひの三さん時間じかん目めが気きになりだし、そのために、きゅうに気短きみじかになって、ちょっとのことで生徒せいとにあたりちらした。わき見みをしたといっては叱しかりつけ、わすれものをしてきた生徒せいとをうしろに立たたせた。

「男おとこ先生せんせい、このごろ、おこりばっかりするようになったな」

「すかんようになったな。どうしたんじゃろな」

子こどもたちがふしぎがるそのわけを、一いちばんよく知しっている男おとこ先生せんせいの奥おくさんは、ひそかに心配しんぱいして、それとなく男おとこ先生せんせいを助たすけようとした。金曜きんよう日ひの夜よるになると、奥おくさんは内職ないしょくの麦稈真田ばっかんさなだをやめてオルガンのそばに立たち、先生せんせいをはげました。

「わたしが生徒せいとになりますわ」

「うん、なってくれ」

豆まめランプが、ちろちろゆらぎながら、オルガンと、二人ふたりの年としより夫婦ふうふの姿すがたをてらしているところは、もしも女おんなの子こがこれを見みたら、ふるえあがりそうな光景こうけいである。やみと光ひかりの交錯こうさくのなかで先生せんせいと奥おくさんは歌うたいかわしていた。

ヒヒヒフ ミミミ イイイムイ

奥おくさんだけが歌うたい、それにオルガンの調子ちょうしがあうまでにはだいぶ夜よるもふけた。村むらはもう一軒いっけんのこらず寝ねしずまっていることで、かえって気きがねでもしているように、奥おくさんは豆まめランプを消けしてから足あしさぐりで部屋へやにもどりながら、ほうっとため息いきをし、ひそやかに話はなしかけた。

「おなご先生せんせいも、えらい苦労くろうかけますな」

「うん。しかし、むこうにすりゃあ、もっと苦労くろうじゃろうて」

「そうですとも、あんたのオルガンどころじゃありませんわ。足あし一いち本ほん折おられたんですもん」

「もしかしたら、大石おおいし先生せんせいはもう、もどってこんかもしれんぞ。先生せんせいよりも、あの母親ははおやのほうが、えらいけんまくだったもんな。かけがえのない娘むすめですさかい、二に度どとふたたび、そんな性しょうわるの村むらへは、もうやりとうありません、いうてな」

「そうでしょうな。しかし、こられんならこられんで、代かわりの先生せんせいがきてくれんと困こまりますな」

人ひとにきかれたら困こまるとでもいうようにないしょ声せいでいって、うらめしそうに、ちらりと海うみのむこうを見みた。一本松いっぽんまつの村むらも静しずかにねむっているらしく、星ほしくずのような遠とおい灯ひがかすかにまたたいている。こんな夜よふけに、こんな苦労くろうをしているのはじぶんたちだけだと思おもうと、女じょ先生せんせいがうらめしかった。

あれ以来いらい、奥おくさんもまたひと役やくかって、四よん年ねん生せい五ご人にんの裁縫さいほうをうけもっていたのだ。しかし、雑巾ぞうきんさしの裁縫さいほうはちっとも苦労くろうではなかった。まるで手てまりでもかがるように、ていねいにさすのを、一いち時間じかんのあいだ、かわるがわるにみてやればそれですむ。だが、唱歌しょうかだけは、なんとしてもオルガンがむつかしい。オルガンは、裁縫さいほうするようには手てが動うごかないからだ。それを一生いっしょうけんめい、ひきこなそうとする男おとこ先生せんせいの勉強べんきょうぶりは、奥おくさんにとっては、神々こうごうしいようでさえあった。十じゅう月がつだというのに、男おとこ先生せんせいは、たらたら汗あせを流ながしていた。外そとへきこえるのをはばかって、教室きょうしつの窓まどはいつもしめてあったから、汗あせはよけい流ながれた。

先生せんせいならばオルガンぐらいひけるのがあたりまえなのだが、なにしろ、小しょう学校がっこうを出でたきり、努力どりょくひとつで教師きょうしになった男おとこ先生せんせいとしては、なによりもオルガンがにが手てであった。田舎いなかのこととて、どこの学校がっこうにも音楽おんがく専任せんにんの先生せんせいはいなかった。どの先生せんせいもじぶんの受うけもちの生徒せいとに、体操たいそうも唱歌しょうかも教おしえねばならない。そんなこともいやで、じぶんからたのんで、こんなへんぴな岬みさきへきたのであったのに、今いまになってオルガンの前まえで汗あせを流ながすなど、オルガンをたたきつけたいほど腹はらが立たった。

しかし、今夜こんやはそうではなかった。奥おくさんひとりの生徒せいとにしろ、ひき手てと歌うたい手ての調子ちょうしが合あうところまでいったのだ。そんなわけで、男おとこ先生せんせいのほうは、わりとごきげんだった。そこで奥おくさんにむかって、少すこし鼻はなをたかくした。

「おれだって、ひく気きになればオルガンぐらい、すぐひけるんだよ」

奥おくさんもすなおにうなずいた。

「そうですとも、そうですとも」

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