← Library‹ 二十四の瞳 六 月夜の蟹

五ご年ねん生せいの教室きょうしつは川かわっぷちに新あたらしく建たった校舎こうしゃのとっつきであった。川かわにむかった窓まどからのぞくと、衽おくみのような形かたちの、せまい三角さんかく地ちをはさんで、高たかい石垣いしがきは川床かわどこまで直角ちょっかくに築きずかれていた。危険きけん防止ぼうしの土手どては地面じめんから三さん尺しゃくほどの高たかさでめぐらしてあったが、土手どてはあまり用ようをなさず、子こどもらはわずかな遊あそび時間じかんをもかってに石垣いしがきをつたって、川かわの中なかへおりていった。おもに男おとこの子こだった。川上かわかみに家いえは一いち軒けんもなく、ちろちろの水みずはきれいだった。山やまから流ながれてきてはじめて、ここで人ひとの肌はだにふれる水みずは、おどろくほど、つめたく澄すみきっていた。子こどもらにとっては、ただ手足てあしをふれているだけで、じゅうぶん満足まんぞくのできる、こころよい感触かんしょくであった。水みずはここではじめて人ひとの手てにふれ、せきとめられて濁にごった。だれがいいだしたのか鰻うなぎがいるという噂うわさがたってから、子こどもたちの熱意ねついは川底かわぞこに集あつまり、毎日まいにち土手どての見物けんぶつと川かわの漁師りょうしとのあいだで時ときならぬやりとりがつづいた。川床かわどこの石いしをめくっては、まだ一いち度どもとれたことのない鰻うなぎをさがしているのだが、出でてくるのは蟹かにばかりである。それでもけっこうおもしろいらしく、漁師りょうしも見物けんぶつもふえるばかりだった。くるぶしをかくしかねるほどの水量すいりょうは、遊あそび場ばとしても危険きけんはなく、だから小石こいし先生せんせいもだまって眺ながめていた。

「せんせ、ズガニ あげよか」

保護色ほごしょくなのか泥色どろいろをして、足あしにあらい毛けのある蟹かにをつかまえて、うで一いっぱいさし出だしたのは森岡もりおか正ただしだった。

「いらん、そんなもん」

「たべられるのに、せんせ」

「いやだ、そんなもんたべたら、足あしや手てにヒゲがはえるもの」

川底かわぞこと土手どてからどっと笑わらい声ごえがおこった。窓まどぎわの先生せんせいももちろん笑わらいころげたのだが、ついさっきまでの先生せんせいは、そんな笑わらいとは遠とおい気持きもちで、窓まどの外そとにくりひろげられた風景ふうけいを眺ながめていたのであった。川かわの中なかでも土手どての上うえでも、岬みさきの子こどもらは知しらずしらずかたまっていた。だが、そこに松江まつえの姿すがたは見みることができない。その目めに見みえぬ姿すがたが、ときどき先生せんせいの心こころを占領せんりょうしてしまうのだ。

母親ははおやがなくなってから、松江まつえは一いち度どもこの教室きょうしつに姿すがたをあらわさなかった。窓まどぎわの、前まえから三さん番ばん目めの松江まつえの席せきは、もう二にか月げつもからっぽのままである。入学にゅうがくの日ひのことを思おもいだして、百合ゆりの花はなの絵えのついた弁当べんとう箱はこをみやげに松江まつえの家いえをたずねたのは、彼女かのじょの母親ははおやがなくなってからひと月がつぐらいたっていた。ちょうど川本かわもと大工だいくも家いえにいて、男泣おとこなきに泣なきながら、赤あかん坊ぼうが死しなないかぎり、松江まつえを学校がっこうにはやれぬといった。あまりに事情じじょうが明白めいはくなので、それでも松江まつえを学校がっこうによこせとはいえず、だまって松江まつえの顔かおをみた。小ちいさな赤あかん坊ぼうをおぶったまま、父親ちちおやのわきにちょこんとすわって松江まつえもだまっていた。へんにまぶたのはれて見みえる顔かおは、頭あたまのはたらきを失うしなったようにぼんやりしていた。その膝ひざの上うえへ、

「マッちゃん、これ、百合ゆりの花はなの弁当べんとう箱はこよ。あんたが学校がっこうにこられるようになったら、つかいなさいね」

あまりうれしそうにもせず、松江まつえはこっくりをした。

「早はやく、学校がっこうへこられるといいわね」

いってしまって、はっとした。それは赤あかん坊ぼうに早はやく死しねということになるのだ。思おもわず赤あかくなったが、松江まつえたち父子おやこには、はっきりひびかなかったらしく、ただ感謝かんしゃのまなざしでうけとられた。

まもなく、赤あかん坊ぼうがなくなったと聞きき、松江まつえのためにほっとしたのだが、松江まつえはなかなか姿すがたを見みせなかった。マスノやコトエたちにようすをきいてもらちがあかず、先生せんせいはとうとう手紙てがみをかいた。十とお日かほどまえになる。

――松江まつえさん、赤あかちゃんのユリエちゃんは、ほんとに かわいそうなことをしましたね。でももう それはしかたがありませんから、心こころの中なかでかわいがってあげることにして、あなたは元気げんきをだしなさいね。学校がっこうへは、いつからこられますか。先生せんせいは、まい日にちマッちゃんのからっぽのせきを見みては、マッちゃんのことを考かんがえています。

早はやくこい こい マッちゃん。早はやくきて みんなといっしょに、べんきょうしましょう。――

手紙てがみは松江まつえの家いえといちばん近ちかいコトエにことづけた。しかしこの手紙てがみが、松江まつえにとってどれほど無理むりな注文ちゅうもんであるかを先生せんせいは知しっていた。赤あかん坊ぼうのユリエはいなくなっても、松江まつえにはまだ弟妹ていまいが二人ふたりあった。五ご年ねん生せいになったばかりの彼女かのじょは、幼おさない頭脳ずのうと小ちいさなからだで、むりやり一家いっかの主婦しゅふの役やくをうけもたされているのだ。どんなにそれがいやでも、ぬけだすことはできない。父親ちちおやをはたらきに出だすためには、小ちいさな松江まつえがかまどの下したをたき、すすぎせんたくもせねばならぬ。ひよこのようにきょうだい三さん人にんよりあって、父親ちちおやの帰かえりをまっているだろうあわれな姿すがたが目めの前まえにちらつく。法律ほうりつはこの幼おさない子こどもを学校がっこうにかよわせることを義務ぎむづけてはいるが、そのために子こどもを守まもる制度せいどはないのだ。

翌日よくじつ、コトエは先生せんせいの顔かおを見みるなり報告ほうこくした。

「先生せんせい、きのうマッちゃん家くへ手紙てがみをもっていったら、知しらんよその小母おばさんがきとった。マッちゃんおりますか、いうたら、おりませんいうたん。しかたがないから、これマッちゃんにわたして、いうて、その小母おばさんにたのんできたん」

「そう、どうもありがとう。マッちゃんのお父ちちさんは?」

「知しらん。見みえなんだ。――その小母おばさん、おしろいつけて、きれい着物きものきとった。マッちゃん家くへ嫁よめにきたんとちがうかって、小しょうツルさんがいうんで」

コトエはちょっとはにかみ笑わらいをした。

「そうだと、マッちゃんも学校がっこうへこられていいけどね」

それからまた十とお日か以上いじょうたったが、松江まつえは姿すがたを見みせない。手紙てがみはよんだろうかと、ふと心こころにかげのさす思おもいで、窓まどの下したを見みていたのだった。ズガニを三さん匹ひきとった正せいは、それをあき缶かんにいれて得々とくとくとして石垣いしがきをのぼってきた。三角さんかく形けいの空地くうちにある杏あんずの木きは夏なつにむかって青々あおあおとしげり、黒くろいかげを土手どての上うえにおとしている。そのま下したにかたまって、岬みさき組くみの女おんな生徒せいとたちはズガニの勇士ゆうしを迎むかえ、われがちにいった。

「タンコ、一いちぴきくれなァ」

「うちにも、くれなァ」

「わたしにもな」

「やくそくど」

蟹かには三さん匹ひきなのに希望きぼう者しゃは四よん人にんなのだ。正せいは考かんがえながらあがってきて、

「食くうか、食くわんのか」

みんなの顔かおを見みまわした。食くうものにやろうと思おもったのだ。いち早はやく小こツルが、

「食くう食くう。月夜つきよの蟹かには、うまいもん」

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