← Library‹ 二十四の瞳 八 七重八重

春はるとはいえ、寒さむさはまだ朝あさの空気くうきの中なかに、鎌かまいたちのようなするどさでひそんでいて、日ひかげにいると足あしもとからふるえあがってくる。

K町ちょうのバスの停留所ていりゅうじょには、この早はやいのにもう用ようたしをすましてきた客きゃくが二人ふたり、下くだりバスをまっていた。六十ろくじゅうを二ふたつ三みつすぎたらしく見みえるおじいさんと、三十さんじゅう前後ぜんごの女客おんなきゃくと。

「ううっ、さぶい!」

思おもわず出でたうめき声ごえのようにつぶやくおじいさんに、

「ほんとに」

と、女客おんなきゃくは話はなしかけられもしないのに同意どういした。寒さむさは人間にんげんの心こころを寄よりあわせるらしく、どちらからとなく親したしさをみせあった。

「ほんとに、いつまでも寒さむいことですな」

「そうです。もう彼岸ひがんじゃというのに」

話はなしかけた若わかい女おんなは、四角しかくい包つつみを胸むねにかかえこむようにしながら、おじいさんの、むき出だしのまま片腕かたうでにひっかけている粗末そまつなランドセルに、親したしいまなざしをおくり、

「お孫まごさんのですか?」

「はいな」

「わたしも、息子むすこのを買こうてきました」

胸むねの包つつみを見みやりながら、

「今日きょう売うりだすというのを聞きいて一番いちばんのバスで出でかけたんですけど、昔むかしのような品しなはもう一ひとつもありませなんだ。こんな紙かみのじゃあ、一いち年ねんこっきりでしょう」

おたがいの品物しなものをなげくようにいうと、そうだというようにおじいさんは首くびをふり、

「ヤミなら、なんぼでもあるといな」

そして、はっはっと笑わらった。奥歯おくばのないらしい口くちの中なかがまっくらに見みえた。女おんなは目めをそらしながら、

「きょう日びのように、なんでもかでもヤミヤミと、学校がっこうのカバンまでヤミじゃあ、こまりますな」

「銭ぜにさえありゃあなんでもかでもあるそうな。甘あまいぜんざいでも、ようかんでも、あるとこにゃ山やまのようにあるそうな」

そういって歯はのない口くちもとから、ほんとによだれをこぼしかけたところは、甘党あまとうらしい。口くちもとを手てのひらでなでながら、てれかくしのように、向むこう側がわをあごでしゃくり、

「ねえさん、あっちで待まとうじゃないか。日向ひなただけはタダじゃ」

そういってさっさと反対はんたい側がわ乗場のりばの方ほうへ道みちを横よこぎった。ねえさんと呼よばれて思おもわずにやりとしながら、女客おんなきゃくもあとを追おった。――ねえさん、か。と、女客おんなきゃくは心こころの中なかでいってみて、背せの高たかいおじいさんをふりあおぎ、笑わらいながらたずねた。

「おじいさん、どちらですか」

「わしか。わしゃ岩いわが鼻はなでさ」

「そうですか。わたしは一本松いっぽんまつ」

「ああ一本松いっぽんまつなあ。あっこにゃ、わしの船乗ふなのり朋輩ほうばいがあってな。もうとうの昔むかしに死しんだけんど、大石嘉吉おおいしかきちという名前なまえじゃが、あんたらもう、知しるまい」

それをきいたとたん、女客おんなきゃくはとびあがるほどおどろいて、

「あら、それ、わたしの父ちちですが」

こんどは、おじいさんが、ひらきなおるようなかっこうで、

「ほう、こいつはめずらしい。そうかいな。今いまごろ嘉吉かきつつぁんの娘むすめさんにあうとはなあ。そういや似にたところがある」

「そうですか。父ちちはわたしが三みつのとき死しにましたから、なんにもおぼえとりませんけど、小父おじさん、いつごろ父ちちといっしょでしたの」

おじいさんを小父おじさんとあらためて呼よんだのも、生いきていれば父ちちもこのぐらいの年配ねんぱいかと思おもったからだ。

いうまでもなく、大石おおいし先生せんせいの、あれから八はち年ねん目めの姿すがたである。船乗ふなのりの妻つまとしてすごした八はち年間ねんかんには、腹はらをたてて教職きょうしょくをひいたあの時ときとはくらべることもできないほど、世よの中なかはいっそうはげしく変かわっていた。日華事変にっかじへんがおこり、日独伊防共協定にちどくいぼうきょうきょうていがむすばれ、国民こくみん精神せいしん総そう動員どういんという名なでおこなわれた運動うんどうは、寝言ねごとにも国くにの政治せいじに口くちを出だしてはならぬことを感かんじさせた。戦争せんそうだけを見みつめ、戦争せんそうだけを信しんじ、身みも心こころも戦争せんそうの中なかへ投なげこめと教おしえた。そしてそのように従したがわされた。不平ふへいや不満ふまんは腹はらの底そこへかくして、そしらぬ顔かおをしていないかぎり、世渡よわたりはできなかった。そんななかで大石おおいし先生せんせいは三さん人にんの子この母ははとなっていた。長男ちょうなんの大吉だいきち、二男じなんの並木なみき、末すえっ子この八津やつ。すっかり世よの常つねの母親ははおやになっている証拠しょうこに、ねえさんとよばれた。だがよく見みると、目めのかがやきの奥おくに、ただのねえさんでないものがかくれている。

「小父おじさん、もしよろしかったら、お茶ちゃでものみませんか」

停留ていりゅう所しょのわきの茶店ちゃみせをさしていった。この年としよりから、父親ちちおやをかぎだそうとしたのである。しかし年としよりは、がんこに首くびをふり、

「いや、もうすぐにバスがきまっそ。ここでよろしいわい」

年としよりのほうもなんとなく、あらたまった態度たいどを見みせていた。

「それで、嘉吉かきっつぁんの嫁よめさんは、おたっしゃかな」

「はあ、おかげさまで」

と、いったが、年としとった母ははが、嫁よめさんと呼よばれたことで思おもわず笑顔えがおになった。帰かえればまずそれを母ははにいおうと思おもった。ちょうど上のぼりバスが警笛けいてきとともに近ちかづいてきた。上のぼり客きゃくでないことをしめすように、急いそいで標識ひょうしきからはなれたが、バスは止とまった。茶店ちゃみせの軒下のきしたに立たって、おりる客きゃくの顔かおを、見みるともなく見みていた。バスはすし詰づめの満員まんいんで、おりてくるのは若わかい男おとこばかりだった。ほとんどみな、ここでおりるかと思おもうばかり、つぎからつぎへと出口でぐちにあらわれる若わかい顔かおをみているうち、ふと思おもいだしたのは、今日きょうこの町まちの公会こうかい堂どうで徴兵ちょうへい検査けんさがとりおこなわれることだった。ああ、それかと思おもいながら、若わかさにみちた個々ここの顔かおにつぎからつぎへと目めをうつしていた。

「あっ、小石こいし先生せんせい!」

思おもわずとびあがるほどの大声おおごえだった。ほとんど同時どうじに先生せんせいも叫さけんだ。さそわれるような大声おおごえで、

「あらっ、仁太にたさん!」

そして、あとからあとからとつづいて出でてくる顔かおに向むかって、

「あら あら あら みんないるの、まあ」

仁ひとし太ふとしにつづいて磯吉いそきち、竹一たけいち、正ただし、吉次きちじと、かつての岬みさきの少年しょうねんたちはみんなそろった。

「先生せんせい、しばらくです」

東京とうきょうの大学だいがくをあと一いち年ねんという竹たけ一いちは、細長ほそながくなった顔かおを、いかにも都会とかいの風かぜに吹ふかれてきたというようなようすで、まっさきにあいさつした。つづいて神戸こうべの造船ぞうせん所しょではたらいている正せいが、これはいかにも労働ろうどう者しゃらしく鍛きたえられた面魂つらだましいながら、人ひとのよい笑顔えがおで頭あたまをさげ、きまりわるげに耳みみのうしろをかいた。まっていたように磯吉いそきちが前まえに出でてきて、

「先生せんせい、ごぶさたいたしまして」

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