健のお母さんは、今夜また赤ん坊の克子をつれて神戸の病院へ行くことになっている。健はどうにかしてお母さんについて神戸へ行きたいと思うのだったが、お母さんはどうしても、よい返事をしてくれない。部屋いっぱいに並べられた着類や、手まわりのものなどを大きな柳行李に入れたり、またそれを取り出してつめかえたりしているお母さんのそばにつっ立って、健はふくれかえっていた。いつだって、どこへ行くときだって、お母さんは克子をおんぶして、健の手を引いて出かけた。お祭りに行ったときも、学校の運動会のときも、いっしょにつれて行ってくれた。それなのに神戸へはどうしてもつれて行ってくれない。この前のときにも、そしてまた、こんども克子だけをつれて行って、健は隣り村のおばあさんの家で留守番をしておれというのだ。健は不平でならなかった。自分はまだ一ぺんも汽船に乗ったことがないのに、克ちゃんは赤ん坊のくせに、もうこれで二へんも乗るのだ。健はどうしても汽船に乗ってお母さんに手をひかれて神戸へ行きたかった。
「なあ健、お土産買うてきてやるせに、おもちゃや、バナナや、な。かしこいせに健、おばあさん家で待っちょれよ、え。」
お母さんは何べんめかの言葉をくりかえし、荷づくりの手をやめて健の顔を見つめた。
「ええい。健も神戸い行くんじゃい。」
健も何べんめかの口ごたえをした。こんりんざい、おばあさん家へは行くまいとするかのように、肩をゆすって一歩すさった。
「ふむ、ほんな、健はもう馬鹿になってもえいなあ。」
お母さんは向きなおって、健に膝をよせた。
「ん、馬鹿になってもえい。」
「そうか、ほんな健は馬鹿じゃ、今ま半べのような馬鹿になる。それでも、えいなあ。」
「ん、えい。」
健はつねづね馬鹿になるのが、ひじょうにいやだった。半べという馬鹿の大男がのっしのっしと終日、村中をほっつきまわっているのが世の中で一ばん恐ろしかった。半べのようにならないためにでも、健はお母さんのいうことをきき、お使いをしたり、いたずらをやめたりした。だが、今日はちがう。お母さんといっしょに神戸へ行けるなら、あとで半べになってもいいと思った。お母さんは、きまじめな顔をしている健を見、そして笑いだした。
「健、そんなに神戸い行きたいか。」
「ん、行きたい。健、行きたい行きたいんで。船にのってな。」
健はじぶくれた顔をゆるめ、お母さんを見て笑った。
「困ったなあ、健は馬鹿になってもえいというし。」
お母さんは、またもとへ向いて荷づくりをはじめた。健は目をぱちぱちしながら、いそがしく動くお母さんの手もとを見ていた。だが、やっぱり行李の中へは克ちゃんの洋服と着物と、それからお母さんの着物や羽織や、新しい毛糸の束などを、たくさんつめこんで蓋をしてしまった。そして、健の着がえの洋服やエプロンは別の風呂敷に包んだ。それを見ると、健はまたもとのすねた顔にもどり、くるりと背をむけて、うつむいてしまった。お母さんは白いエプロンの袖をまくりあげて、できた荷物を部屋の隅に押しよせ、サッ、サッと荒々しく箒をつかった。
「おっ、大けなゴミがあるな、ここに。あら、このゴミ足があるがい、おもしろい、おりゃ、洋服着とる……。なんじゃ、ゴミか思たら健か。」
お母さんは健の前にまわり、目を足からだんだん上の方へ移していった。健は、いつものように笑って逃げだそうとはせず、また、くるりと背をむけた。そこだけよけて掃いてしまうと、お母さんは隣りの部屋に寝かせている克子のそばへ行って着物を着せかえ、こんどは健のそばへ来てだまって洋服をぬがせ、でくのぼうのようにしている健をなれた手つきで手っとり早くパンツまでとりかえた。健の好きなラクダ色の毛糸の洋服であった。タオルに薬罐の湯をそそぎ、健の頭を手荒く、ひっ抱えて顔をふいた。そして、自分も縞メリンスのちょいちょい着に着かえて、よそいきの紫矢絣の負ぶい半纏で克子を背負い、どんどん戸締りをした。健は、けっきょく追い出されるように、仕方なく縁側に出た。靴がちゃんとそろえてある。東京にいるお父さんから送ってきたお正月の革靴である。それでも健の気持はほぐれない。
「さ、早よ靴はいて。」
お母さんはしゃがんで片っ方の靴を持ってまっている。健はやっぱし黙って縁の上につっ立って、だらりと両手をたれ、ぽかんとしたような、不貞くされたような、それでいて今にも泣きだしそうな、複雑な表情であった。お母さんは困った顔をして靴をまたそこへ置き、縁側に腰をおろした。そして、腰かけたままのところから、ひとりでに目にはいってくる観音山の方を見るともなく眺めた。観音の山からは、ごーん、うおんうおん――と、たえまなく鐘の音がひびいてきた。雑木林の山肌のところどころが彼岸桜にいろどられて、そこだけ一足さきに春が来たように鮮やかな薄紅色に浮きだしている。山の中腹から人家のある山裾まで段々畑がつづいて、その青い麦畑や、みかん畑をぬって曲りくねった遍路道に、山からおりてくる巡礼の白い姿が見えかくれ、御詠歌が手にとるように聞こえた。
やがてお母さんは健のそばによって来て、その顔をのぞきこんだ。
「健、お正月が来て何ぼになったんぞいな。」
やさしい声である。もうおばあさん家へ行くのをやめたような顔に見えた。健は思わず引き入れられた。
「五つ。」
「克ちゃんは何ぼになったんぞいな。」
「二つ。」
「健と克ちゃんと、どっちが大けい。」
「けん。」
「ほんな、健と克ちゃんとどっちがかしこい。」
「けん!」
健は得意になった。大きい鼻がひろがって、頬をゆるめて笑うと頬っぺたの垂れさがった、丸い顔が大きくなった。お母さんは、なおもにこにこして顔をさしよせ、健の肩を両手ではさんだ。
「健と克ちゃんと、どっちがお母さんのいうこと聞くぞいなあ。」
「けん!」
「よし! そんなら健はおばあさん家、行くなあ。」
お母さんは理づめでせめてきた。思わず不覚をとった健は、あわてて地だんだをふみ、
「ええい、ええい、健、神戸い行くんじゃい。おばあさん家やこい行かんわい、行かんわい、克ちゃん行けくされ、健、行かんわい。」