← Library‹ 虞美人草 十八

小夜子さよこは婆ばあさんから菓子かしの袋ふくろを受取うけとった。底そこを立たてて出雲焼いずもやきの皿さらに移うつすと、真中まなかにある青あおい鳳凰ほうおうの模様もようが和製わせいのビスケットで隠かくれた。黄色きいろな縁ふちはだいぶ残のこっている。揃そろえて渡わたす二に本ほんの竹箸たけばしを、落おとさぬように茶ちゃの間まから座敷ざしきへ持もって出でた。座敷ざしきには浅井あさい君くんが先生せんせいを相手あいてに、京都きょうと以来いらいの旧きゅう歓かんを暖あたためている。時ときは朝あさである。日影ひかげはじりじりと椽えんに逼せまってくる。

「御ご嬢じょうさんは、東京とうきょうを御ご存ぞんじでしたな」と問といかけた。

菓子かし皿さらを主客しゅきゃくの間あいだに置おいて、やさしい肩かたを後うしろへ引ひくついでに、

「ええ」と小声こごえに答こたえて、立たち兼かねた。

「これは東京とうきょうで育そだったのだよ」と先生せんせいが足たらぬところを補おぎなってくれる。

「そうでしたな。――大変たいへん大おおきくなりましたな」と突然とつぜん別べつ問題もんだいに飛とび移うつった。

小夜子さよこは淋さびしい笑顔えがおを俯向うつむけて、今度こんどは答こたえさえも控ひかえた。浅井あさい君くんは遠慮えんりょのない顔かおをして小夜子さよこを眺ながめている。これからこの女おんなの結婚けっこん問題もんだいを壊こわすんだなと思おもいながら平気へいきに眺ながめている。浅井あさい君くんの結婚けっこん問題もんだいに関かんする意見いけんは大道だいどう易者えきしゃのごとく容易よういである。女おんなの未来みらいや生涯しょうがいの幸福こうふくについてはあまり同情どうじょうを表ひょうしておらん。ただ頼たのまれたから頼たのまれたなりに事ことを運はこべば好よいものと心得こころえている。そうしてそれがもっとも法学ほうがく士し的てきで、法学ほうがく士し的てきはもっとも実際じっさい的てきで、実際じっさい的てきは最上さいじょうの方法ほうほうだと心得こころえている。浅井あさい君くんはもっとも想像そうぞう力りょくの少すくない男おとこで、しかも想像そうぞう力りょくの少すくないのをかつて不足ふそくだと思おもった事ことのない男おとこである。想像そうぞう力りょくは理知りちの活動かつどうとは全然ぜんぜん別べつ作用さようで、理知りちの活動かつどうはかえって想像そうぞう力りょくのために常つねに阻害そがいせらるるものと信しんじている。想像そうぞう力りょくを待まって、始はじめて、全まったき人性じんせいに戻もとらざる好こう処置しょちが、知慧ちえ分別ぶんべつの純じゅん作用さよう以外いがいに活いきてくる場合ばあいがあろうなどとは法科ほうかの教室きょうしつで、どの先生せんせいからも聞きいた事ことがない。したがって浅井あさい君くんはいっこう知しらない。ただ断ことわれば済すむと思おもっている。淋さびしい小夜子さよこの運命うんめいが、夫子ふうしの一言いちごんでどう変化へんかするだろうかとは浅井あさい君くんの夢ゆめにだも考かんがえ得えざる問題もんだいである。

浅井あさい君くんが無む意味いみに小夜子さよこを眺ながめているうちに、孤堂こどう先生せんせいは変へんな咳せきを二ふたつ三みつ塞せいた。小夜子さよこは心こころ元もとなく父ちちの方かたを向むく。

「御お薬くすりはもう上あがったんですか」

「朝あさの分ぶんはもう飲のんだよ」

「御お寒さむい事ことはござんせんか」

「寒さむくはないが、少すこし……」

先生せんせいは右みぎの手頸てくびへ左ひだりの指ゆびを三さん本ほん懸かけた。小夜子さよこは浅井あさいのいる事ことも忘わすれて、脈みゃくをはかる先生せんせいの顔かおばかり見詰みつめている。先生せんせいの顔かおは髯ひげと共ともに日ひごとに細長ほそながく瘠やせこけて来くる。

「どうですか」と気遣きづかわし気げに聞きく。

「少すこし、早はやいようだ。やっぱり熱ねつが除とれない」と額がくに少すこし皺しわが寄よった。先生せんせいが熱度ねつどを計はかって、じれったそうに不ふ愉快ゆかいな顔かおをするたびに小夜子さよこは悲かなしくなる。夕立ゆうだちを野中のなかに避さけて、頼たよりと思おもう一いち本ほん杉すぎをありがたしと梢こずえを見みれば稲妻いなずまがさす。怖こわいと云いうよりも、年としを取とった人ひとに気きの毒どくである。行いき届とどかぬ世話せわから出でる疳癪かんしゃくなら、機嫌きげんの取とりようもある。気きで勝かてぬ病気びょうきのためなら孝行こうこうの尽つくしようがない。かりそめの風邪かぜと、当人とうにんも思おもい、自分じぶんも苦くにしなかった昨日今日きのうきょうの咳せきを、蔭かげへ廻まわって聞きいて見みると、医者いしゃは性質たちが善よくないと云いう。二三にさん日にちで熱ねつが退ひかないと云いって焦慮じれるような軽かるい病症びょうしょうではあるまい。知しらせれば心配しんぱいする。云いわねば気きで通とおす。その上うえ疳かんを起おこす。この調子ちょうしで進すすんで行いくと、一いち年ねんの後のちには神経しんけいが赤裸あかはだかになって、空気くうきに触ふれても飛とび上あがるかも知しれない。――昨夜ゆうべ小夜子さよこは眼めを合あわせなかった。

「羽織はおりでも召めしていらしったら好よいでしょう」

孤こ堂どう先生せんせいは返事へんじをせずに、

「験げん温おん器きがあるかい。一ひとつ計はかってみよう」と云いう。小夜子さよこは茶ちゃの間まへ立たつ。

「どうかなすったんですか」と浅井あさい君くんが無雑作むぞうさに尋たずねた。

「いえ、ちっと風邪かぜを引ひいてね」

「はあ、そうですか。――もう若葉わかばがだいぶ出でましたな」と云いった。先生せんせいの病気びょうきに対たいしてはまるで同情どうじょうも頓着とんじゃくもなかった。病気びょうきの源みなもとの因と、経過けいかと、容体ようだいを精くわしく聞きいて貰もらおうと思おもっていた先生せんせいは当あてが外はずれた。

「おい、無ないかね。どうした」と次つぎの間まを向むいて、常つねよりは大おおきな声こえを出だす。ついでに咳せきが二ふたつ出でた。

「はい、ただ今いま」と小ちさい声こえが答こたえた。が験げん温おん器きを持もって出でる様子ようすがない。先生せんせいは浅井あさい君くんの方ほうを向むいて

「はあ、そうかい」と気きのない返事へんじをした。

浅井あさい君くんはつまらなくなる。早はやく用ようを片かたづけて帰かえろうと思おもう。

「先生せんせい小野おのはいっこう駄目だめですな、ハイカラにばかりなって。御ご嬢じょうさんと結婚けっこんする気きはないですよ」とぱたぱたと順序じゅんじょなく並ならべた。

孤こ堂どう先生せんせいの窪くぼんだ眼まなこは一いち度どに鋭するどくなった。やがて鋭するどいものが一面いちめんに広ひろがって顔かお中ちゅう苦々にがにがしくなる。

「廃よした方ほうが好ええですな」

置おき失なくした験げん温おん器きを捜さがしていた、次つぎの間まの小夜子さよこは、長なが火鉢ひばちの二に番ばん目めの抽出ひきだしを二に寸すんほど抜ぬいたまま、はたりと引ひく手てを留とめた。

先生せんせいの苦々にがにがしい顔かおは一層いっそうこまやかになる。想像そうぞう力りょくのない浅井あざい君くんはとんと結果けっかを予想よそうし得えない。

「小野おのは近頃ちかごろ非常ひじょうなハイカラになりました。あんな所ところへ行いくのは御ご嬢じょうさんの損そんです」

苦々にがにがしい顔かおはとうとう持もち切きれなくなった。

「君きみは小野おのの悪口わるぐちを云いいに来きたのかね」

「ハハハハ先生せんせい本当ほんとうですよ」

浅井あさい君くんは妙みょうなところで高こう笑わらいをいた。

「余計よけいな御ご世話せわだ。軽薄けいはくな」と鋭するどく跳はねつけた。先生せんせいの声こえはようやく尋常じんじょうを離はなれる。浅井あさい君くんは始はじめて驚おどろいた。しばらく黙だまっている。

「おい験げん温おん器きはまだか。何なんをぐずぐずしている」

次つぎの間まの返事へんじは聞きこえなかった。ことりとも云いわぬうちに、片寄かたよせた障子しょうじに影かげがさす。腰板こしいたの外はずれから細ほそい白木しろきの筒つつがそっと出でる。畳たたみの上うえで受取うけとった先生せんせいはぽんと云いわして筒つつを抜ぬいた。取とり出だした験げん温おん器きを日ひに翳かざして二三にさん度どやけに振ふりながら、

「何なんだって、そんな余計よけいな事ことを云いうんだ」と度盛どもりを透すかして見みる。先生せんせいの精神せいしんは半なかば験げん温おん器きにある。浅井あさい君くんはこの間あいだに元気げんきを回復かいふくした。

「実じつは頼たのまれたんです」

「頼たのまれた? 誰だれに」

「小野おのに頼たのまれたんです」

「小野おのに頼たのまれた?」

先生せんせいは腋わきの下したへ験げん温おん器きを持もって行いく事ことを忘わすれた。茫然ぼうぜんとしている。

「ああ云いう男おとこだものだから、自分じぶんで先生せんせいの所ところへ来きて断ことわり切きれないんです。それで僕ぼくに頼たのんだです」

「ふうん。もっと精くわしく話はなすがいい」

「二三にさん日にち中じゅうに是非ぜひこちらへ御ご返事へんじをしなければならないからと云いいますから、僕ぼくが代理だいりにやって来きたんです」

「だから、どう云いう理由りゆうで断ことわるんだか、それを精くわしく話はなしたら好よいじゃないか」

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