床の間の前に碁盤を中に据えて迷亭君と独仙君が対坐している。
「ただはやらない。負けた方が何か奢るんだぜ。いいかい」と迷亭君が念を押すと、独仙君は例のごとく山羊髯を引っ張りながら、こう云った。
「そんな事をすると、せっかくの清戯を俗了してしまう。かけなどで勝負に心を奪われては面白くない。成敗を度外において、白雲の自然に岫を出でて冉々たるごとき心持ちで一局を了してこそ、個中の味はわかるものだよ」
「また来たね。そんな仙骨を相手にしちゃ少々骨が折れ過ぎる。宛然たる列仙伝中の人物だね」
「無絃の素琴を弾じさ」
「無線の電信をかけかね」
「とにかく、やろう」
「君が白を持つのかい」
「どっちでも構わない」
「さすがに仙人だけあって鷹揚だ。君が白なら自然の順序として僕は黒だね。さあ、来たまえ。どこからでも来たまえ」
「黒から打つのが法則だよ」
「なるほど。しからば謙遜して、定石にここいらから行こう」
「定石にそんなのはないよ」
「なくっても構わない。新奇発明の定石だ」
吾輩は世間が狭いから碁盤と云うものは近来になって始めて拝見したのだが、考えれば考えるほど妙に出来ている。広くもない四角な板を狭苦しく四角に仕切って、目が眩むほどごたごたと黒白の石をならべる。そうして勝ったとか、負けたとか、死んだとか、生きたとか、あぶら汗を流して騒いでいる。高が一尺四方くらいの面積だ。猫の前足で掻き散らしても滅茶滅茶になる。引き寄せて結べば草の庵にて、解くればもとの野原なりけり。入らざるいたずらだ。懐手をして盤を眺めている方が遥かに気楽である。それも最初の三四十目は、石の並べ方では別段目障りにもならないが、いざ天下わけ目と云う間際に覗いて見ると、いやはや御気の毒な有様だ。白と黒が盤から、こぼれ落ちるまでに押し合って、御互にギューギュー云っている。窮屈だからと云って、隣りの奴にどいて貰う訳にも行かず、邪魔だと申して前の先生に退去を命ずる権利もなし、天命とあきらめて、じっとして身動きもせず、すくんでいるよりほかに、どうする事も出来ない。碁を発明したものは人間で、人間の嗜好が局面にあらわれるものとすれば、窮屈なる碁石の運命はせせこましい人間の性質を代表していると云っても差支えない。人間の性質が碁石の運命で推知する事が出来るものとすれば、人間とは天空海濶の世界を、我からと縮めて、己れの立つ両足以外には、どうあっても踏み出せぬように、小刀細工で自分の領分に縄張りをするのが好きなんだと断言せざるを得ない。人間とはしいて苦痛を求めるものであると一言に評してもよかろう。
呑気なる迷亭君と、禅機ある独仙君とは、どう云う了見か、今日に限って戸棚から古碁盤を引きずり出して、この暑苦しいいたずらを始めたのである。さすがに御両人御揃いの事だから、最初のうちは各自任意の行動をとって、盤の上を白石と黒石が自由自在に飛び交わしていたが、盤の広さには限りがあって、横竪の目盛りは一手ごとに埋って行くのだから、いかに呑気でも、いかに禅機があっても、苦しくなるのは当り前である。
「迷亭君、君の碁は乱暴だよ。そんな所へ這入ってくる法はない」
「禅坊主の碁にはこんな法はないかも知れないが、本因坊の流儀じゃ、あるんだから仕方がないさ」
「しかし死ぬばかりだぜ」
「臣死をだも辞せず、いわんや彘肩をやと、一つ、こう行くかな」
「そうおいでになったと、よろしい。薫風南より来って、殿閣微涼を生ず。こう、ついでおけば大丈夫なものだ」
「おや、ついだのは、さすがにえらい。まさか、つぐ気遣はなかろうと思った。ついで、くりゃるな八幡鐘をと、こうやったら、どうするかね」
「どうするも、こうするもないさ。一剣天に倚って寒し――ええ、面倒だ。思い切って、切ってしまえ」
「やや、大変大変。そこを切られちゃ死んでしまう。おい冗談じゃない。ちょっと待った」
「それだから、さっきから云わん事じゃない。こうなってるところへは這入れるものじゃないんだ」
「這入って失敬仕り候。ちょっとこの白をとってくれたまえ」
「それも待つのかい」
「ついでにその隣りのも引き揚げて見てくれたまえ」
「ずうずうしいぜ、おい」
「Do you see the boy か。――なに君と僕の間柄じゃないか。そんな水臭い事を言わずに、引き揚げてくれたまえな。死ぬか生きるかと云う場合だ。しばらく、しばらくって花道から馳け出してくるところだよ」
「そんな事は僕は知らんよ」
「知らなくってもいいから、ちょっとどけたまえ」
「君さっきから、六返待ったをしたじゃないか」
「記憶のいい男だな。向後は旧に倍し待ったを仕り候。だからちょっとどけたまえと云うのだあね。君もよッぽど強情だね。座禅なんかしたら、もう少し捌けそうなものだ」
「しかしこの石でも殺さなければ、僕の方は少し負けになりそうだから……」
「君は最初から負けても構わない流じゃないか」
「僕は負けても構わないが、君には勝たしたくない」
「飛んだ悟道だ。相変らず春風影裏に電光をきってるね」
「春風影裏じゃない、電光影裏だよ。君のは逆だ」
「ハハハハもうたいてい逆かになっていい時分だと思ったら、やはりたしかなところがあるね。それじゃ仕方がないあきらめるかな」
「生死事大、無常迅速、あきらめるさ」
「アーメン」と迷亭先生今度はまるで関係のない方面へぴしゃりと一石を下した。
床の間の前で迷亭君と独仙君が一生懸命に輸贏を争っていると、座敷の入口には、寒月君と東風君が相ならんでその傍に主人が黄色い顔をして坐っている。寒月君の前に鰹節が三本、裸のまま畳の上に行儀よく排列してあるのは奇観である。
この鰹節の出処は寒月君の懐で、取り出した時は暖たかく、手のひらに感じたくらい、裸ながらぬくもっていた。主人と東風君は妙な眼をして視線を鰹節の上に注いでいると、寒月君はやがて口を開いた。
「実は四日ばかり前に国から帰って来たのですが、いろいろ用事があって、方々馳けあるいていたものですから、つい上がられなかったのです」
「そう急いでくるには及ばないさ」と主人は例のごとく無愛嬌な事を云う。