← Library‹ 吾輩は猫である 四

例れいによって金田かなだ邸ていへ忍しのび込こむ。

例れいによってとは今更いまさら解釈かいしゃくする必要ひつようもない。しばしばを自乗じじょうしたほどの度合どあいを示しめす語ことばである。一いち度どやった事ことは二に度どやりたいもので、二に度ど試こころみた事ことは三さん度ど試こころみたいのは人間にんげんにのみ限かぎらるる好奇こうき心しんではない、猫ねこといえどもこの心理しんり的てき特権とっけんを有ゆうしてこの世界せかいに生うまれ出ででたものと認定にんていしていただかねばならぬ。三さん度ど以上いじょう繰返くりかえす時とき始はじめて習慣しゅうかんなる語ごを冠かんせられて、この行為こういが生活せいかつ上じょうの必要ひつようと進化しんかするのもまた人間にんげんと相違そういはない。何なんのために、かくまで足繁あししげく金田かなだ邸ていへ通かようのかと不審ふしんを起おこすならその前まえにちょっと人間にんげんに反問はんもんしたい事ことがある。なぜ人間にんげんは口くちから煙けむりを吸すい込こんで鼻はなから吐はき出だすのであるか、腹はらの足たしにも血ちの道みちの薬くすりにもならないものを、恥はずかし気げもなく吐呑とどんして憚はばからざる以上いじょうは、吾輩わがはいが金田かねだに出入しゅつにゅうするのを、あまり大おおきな声こえで咎とがめ立だてをして貰もらいたくない。金田かねだ邸ていは吾輩わがはいの煙草たばこである。

忍しのび込こむと云いうと語弊ごへいがある、何なんだか泥棒どろぼうか間男まおとこのようで聞きき苦ぐるしい。吾輩わがはいが金田かねだ邸ていへ行いくのは、招待しょうたいこそ受うけないが、決けっして鰹かつおの切身きりみをちょろまかしたり、眼鼻めはなが顔かおの中心ちゅうしんに痙攣的けいれんてきに密着みっちゃくしている狆ちん君くんなどと密談みつだんするためではない。――何なん探偵たんてい?――もってのほかの事ことである。およそ世よの中なかに何なんが賤いやしい家業かぎょうだと云いって探偵たんていと高利こうり貸かしほど下等かとうな職しょくはないと思おもっている。なるほど寒月かんげつ君くんのために猫ねこにあるまじきほどの義侠心ぎきょうしんを起おこして、一度ひとたびは金田かねだ家かの動静どうせいを余所よそながら窺うかがった事ことはあるが、それはただの一遍いっぺんで、その後あとは決けっして猫ねこの良心りょうしんに恥はずるような陋劣ろうれつな振舞ふるまいを致いたした事ことはない。――そんなら、なぜ忍しのび込こむと云いうような胡乱うろんな文字もじを使用しようした?――さあ、それがすこぶる意味いみのある事ことだて。元来がんらい吾輩わがはいの考かんがえによると大空たいくうは万物ばんぶつを覆おおうため大地だいちは万物ばんぶつを載のせるために出来できている――いかに執拗しつような議論ぎろんを好このむ人間にんげんでもこの事実じじつを否定ひていする訳わけには行いくまい。さてこの大空大地たいくうだいちを製造せいぞうするために彼かれ等ら人類じんるいはどのくらいの労力ろうりょくを費ついやしているかと云いうと尺寸せきすんの手伝てつだいもしておらぬではないか。自分じぶんが製造せいぞうしておらぬものを自分じぶんの所有しょゆうと極きめる法ほうはなかろう。自分じぶんの所有しょゆうと極きわめても差さし支つかえないが他ほかの出入しゅつにゅうを禁きんずる理由りゆうはあるまい。この茫々ぼうぼうたる大地だいちを、小賢こざかしくも垣かきを囲めぐらし棒杭ぼうぐいを立たてて某々ぼうぼう所有しょゆう地ちなどと劃かくし限かぎるのはあたかもかの蒼天そうてんに縄張なわばりして、この部分ぶぶんは我われの天てん、あの部分ぶぶんは彼かれの天てんと届とどけ出でるような者ものだ。もし土地とちを切きり刻きざんで一いち坪つぼいくらの所有しょゆう権けんを売買ばいばいするなら我われ等らが呼吸こきゅうする空気くうきを一いち尺しゃく立方りっぽうに割わって切売きりうりをしても善よい訳わけである。空気くうきの切売きりうりが出来できず、空そらの縄張なわばりが不当ふとうなら地面じめんの私有しゆうも不ふ合理ごうりではないか。如是観にょぜかんによりて、如是法にょぜほうを信しんじている吾輩わがはいはそれだからどこへでも這入はいって行いく。もっとも行いきたくない処ところへは行いかぬが、志こころざす方角ほうがくへは東西とうざい南北なんぼくの差別さべつは入はいらぬ、平気へいきな顔かおをして、のそのそと参まいる。金田かねだごときものに遠慮えんりょをする訳わけがない。――しかし猫ねこの悲かなしさは力ちからずくでは到底とうてい人間にんげんには叶かなわない。強勢きょうせいは権利けんりなりとの格言かくげんさえあるこの浮世うきよに存在そんざいする以上いじょうは、いかにこっちに道理どうりがあっても猫ねこの議論ぎろんは通とおらない。無理むりに通とおそうとすると車屋くるまやの黒くろのごとく不意ふいに肴屋さかなやの天秤棒てんびんぼうを喰くらう恐おそれがある。理りはこっちにあるが権力けんりょくは向むこうにあると云いう場合ばあいに、理りを曲まげて一いちも二にもなく屈従くつじゅうするか、または権力けんりょくの目めを掠かすめて我わが理りを貫つらぬくかと云いえば、吾輩わがはいは無論むろん後者こうしゃを択えらぶのである。天秤てんびん棒ぼうは避さけざるべからざるが故ゆえに、忍しのばざるべからず。人ひとの邸内ていないへは這入はいり込こんで差支さしつかえなき故ゆえ込こまざるを得えず。この故ゆえに吾輩わがはいは金田かねだ邸ていへ忍しのび込こむのである。

忍しのび込こむ度どが重かさなるにつけ、探偵たんていをする気きはないが自然しぜん金田かなだ君くん一家いっかの事情じじょうが見みたくもない吾輩わがはいの眼めに映えいじて覚おぼえたくもない吾輩わがはいの脳裏のうりに印象いんしょうを留とどむるに至いたるのはやむを得えない。鼻子はなこ夫人ふじんが顔かおを洗あらうたんびに念ねんを入いれて鼻はなだけ拭ふく事ことや、富子ふうし令嬢れいじょうが阿倍川餅あべかわもちを無暗むやみに召めし上あがらるる事ことや、それから金田かなだ君くん自身じしんが――金田かなだ君くんは妻君さいくんに似合にあわず鼻はなの低ひくい男おとこである。単たんに鼻はなのみではない、顔かお全体ぜんたいが低ひくい。小供こどもの時分じぶん喧嘩けんかをして、餓鬼大将がきだいしょうのために頸筋くびすじを捉つらまえられて、うんと精せい一杯いっぱいに土塀どべいへ圧おし付つけられた時ときの顔かおが四十よんじゅう年ねん後ごの今日こんにちまで、因果いんがをなしておりはせぬかと怪あやしまるるくらい平坦へいたんな顔かおである。至極しごく穏おだやかで危険きけんのない顔かおには相違そういないが、何なんとなく変化へんかに乏とぼしい。いくら怒おこっても平たいらかな顔かおである。――その金田かなだ君くんが鮪まぐろの刺身さしみを食くって自分じぶんで自分じぶんの禿頭はげあたまをぴちゃぴちゃ叩たたく事ことや、それから顔かおが低ひくいばかりでなく背せが低ひくいので、無暗むやみに高たかい帽子ぼうしと高たかい下駄げたを穿はく事ことや、それを車夫しゃふがおかしがって書生しょせいに話はなす事ことや、書生しょせいがなるほど君きみの観察かんさつは機敏きびんだと感心かんしんする事ことや、――一々いちいち数かぞえ切きれない。

近頃ちかごろは勝手口かってぐちの横よこを庭にわへ通とおり抜ぬけて、築山つきやまの陰かげから向むこうを見渡みわたして障子しょうじが立たて切きって物静ものしずかであるなと見極みきわめがつくと、徐々そろそろ上あがり込こむ。もし人声ひとごえが賑にぎやかであるか、座敷ざしきから見透みすかさるる恐おそれがあると思おもえば池いけを東ひがしへ廻まわって雪隠せついんの横よこから知しらぬ間まに椽えんの下したへ出でる。悪わるい事ことをした覚おぼえはないから何なんも隠かくれる事ことも、恐おそれる事こともないのだが、そこが人間にんげんと云いう無法むほう者しゃに逢あっては不運ふうんと諦あきらめるより仕方しかたがないので、もし世間せけんが熊坂長範くまさかちょうはんばかりになったらいかなる盛徳せいとくの君子くんしもやはり吾輩わがはいのような態度たいどに出いずるであろう。金田かねだ君くんは堂々どうどうたる実業じつぎょう家かであるから固もとより熊坂くまさか長範ながのりのように五ご尺しゃく三さん寸すんを振ふり廻まわす気遣きづかいはあるまいが、承うけたまわる処ところによれば人ひとを人ひとと思おもわぬ病気びょうきがあるそうである。人ひとを人ひとと思おもわないくらいなら猫ねこを猫ねことも思おもうまい。して見みれば猫ねこたるものはいかなる盛徳せいとくの猫ねこでも彼かれの邸内ていないで決けっして油断ゆだんは出来できぬ訳わけである。しかしその油断ゆだんの出来できぬところが吾輩わがはいにはちょっと面白おもしろいので、吾輩わがはいがかくまでに金田かねだ家かの門もんを出入しゅつにゅうするのも、ただこの危険きけんが冒おかして見みたいばかりかも知しれぬ。それは追おって篤とくと考かんがえた上うえ、猫ねこの脳裏のうりを残のこりなく解剖かいぼうし得えた時とき改あらためて御吹聴ごふいちょう仕つかまつろう。

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