← Library‹ 三四郎 一一

このごろ与次郎よじろうが学校がっこうで文芸ぶんげい協会きょうかいの切符きっぷを売うって回まわっている。二に、三さん日にちかかって、知しった者ものへはほぼ売うりつけた様子ようすである。与次郎よじろうはそれから知しらない者ものをつかまえることにした。たいていは廊下ろうかでつかまえる。するとなかなか放はなさない。どうかこうか、買かわせてしまう。時ときには談判だんぱん中ちゅうにベルが鳴なって取とり逃にがすこともある。与次郎よじろうはこれを時利じりあらずと号ごうしている。時ときには相手あいてが笑わらっていて、いつまでも要領ようりょうを得えないことがある。与次郎よじろうはこれを人ひと利りあらずと号ごうしている。ある時とき便所べんじょから出でて来きた教授きょうじゅをつかまえた。その教授きょうじゅはハンケチで手てをふきながら、今いまちょっとと言いったまま急いそいで図書としょ館かんへはいってしまった。それぎりけっして出でて来こない。与次郎よじろうはこれを――なんとも号ごうしなかった。後影うしろかげを見送みおくって、あれは腸ちょうカタルに違ちがいないと三四郎さんしろうに教おしえてくれた。

与次郎よじろうに切符きっぷの販売方はんばいかたを何なん枚まい頼たのまれたのかと聞きくと、何なん枚まいでも売うれるだけ頼たのまれたのだと言ゆう。あまり売うれすぎて演芸えんげい場じょうにはいりきれない恐おそれはないかと聞きくと、少すこしはあると言ゆう。それでは売うったあとで困こまるだろうと念ねんをおすと、なに大丈夫だいじょうぶだ、なかには義理ぎりで買かう者ものもあるし、事故じこで来こないのもあるし、それから腸ちょうカタルも少すこしはできるだろうと言いって、すましている。

与次郎よじろうが切符きっぷを売うるところを見みていると、引ひきかえに金かねを渡わたす者ものからはむろん即座そくざに受うけ取とるが、そうでない学生がくせいにはただ切符きっぷだけ渡わたしている。気きの小ちいさい三四郎さんしろうが見みると、心配しんぱいになるくらい渡わたして歩あるく。あとから思おもうとおりお金かねが寄よるかと聞きいてみると、むろん寄よらないという答こたえだ。几帳面きちょうめんにわずか売うるよりも、だらしなくたくさん売うるほうが、大体だいたいのうえにおいて利益りえきだからこうすると言いっている。与次郎よじろうはこれをタイムス社しゃが日本にっぽんで百科ひゃっか全書ぜんしょを売うった方法ほうほうに比較ひかくしている。比較ひかくだけはりっぱに聞きこえたが、三四郎さんしろうはなんだか心こころもとなく思おもった。そこで一応いちおう与次郎よじろうに注意ちゅういした時ときに、与次郎よじろうの返事へんじはおもしろかった。

「相手あいては東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく学生がくせいだよ」

「いくら学生がくせいだって、君きみのように金かねにかけるとのん気きなのが多おおいだろう」

「なに善意ぜんいに払はらわないのは、文芸ぶんげい協会きょうかいのほうでもやかましくは言いわないはずだ。どうせいくら切符きっぷが売うれたって、とどのつまりは協会きょうかいの借金しゃっきんになることは明あきらかだから」

三四郎さんしろうは念ねんのため、それは君きみの意見いけんか、協会きょうかいの意見いけんかとただしてみた。与次郎よじろうは、むろんぼくの意見いけんであって、協会きょうかいの意見いけんであるとつごうのいいことを答こたえた。

与次郎よじろうの説せつを聞きくと、今度こんどは演芸えんげい会かいを見みない者ものは、まるでばかのような気きがする。ばかのような気きがするまで与次郎よじろうは講釈こうしゃくをする。それが切符きっぷを売うるためだか、じっさい演芸えんげい会かいを信仰しんこうしているためだか、あるいはただ自分じぶんの景気けいきをつけて、かねて相手あいての景気けいきをつけ、次ついでは演芸えんげい会かいの景気けいきをつけて、世上せじょう一般いっぱんの空気くうきをできるだけにぎやかにするためだか、そこのところがちょっと明晰めいせきに区別くべつが立たたないものだから、相手あいてはばかのような気きがするにもかかわらず、あまり与次郎よじろうの感化かんかをこうむらない。

与次郎よじろうは第だい一いちに会員かいいんの練習れんしゅうに骨ほねを折おっている話はなしをする。話はなしどおりに聞きいていると、会員かいいんの多数たすうは、練習れんしゅうの結果けっかとして、当日とうじつ前ぜんに役やくに立たたなくなりそうだ。それから背景はいけいの話はなしをする。その背景はいけいが大たいしたもので、東京とうきょうにいる有為ゆういの青年せいねん画家がかをことごとく引ひき上あげて、ことごとく応分おうぶんの技倆ぎりょうを振ふるわしたようなことになる。次つぎに服装ふくそうの話はなしをする。その服装ふくそうが頭あたまから足あしの先さきまで故実こじつずくめにでき上あがっている。次つぎに脚本きゃくほんの話はなしをする。それが、みんな新作しんさくで、みんなおもしろい。そのほかいくらでもある。

与次郎よじろうは広田ひろた先生せんせいと原口はらぐちさんに招待しょうたい券けんを送おくったと言いっている。野々宮ののみや兄妹きょうだいと里見さとみ兄妹きょうだいには上等じょうとうの切符きっぷを買かわせたと言いっている。万事ばんじが好こう都合つごうだと言いっている。三四郎さんしろうは与次郎よじろうのために演芸えんげい会かい万歳ばんざいを唱となえた。

万歳ばんざいを唱となえる晩ばん、与次郎よじろうが三四郎さんしろうの下宿げしゅくへ来きた。昼間ひるまとはうって変かわっている。堅かたくなって火鉢ひばちのそばへすわって寒さむい寒さむいと言ゆう。その顔かおがただ寒さむいのではないらしい。はじめは火鉢ひばちへ乗のりかかるように手てをかざしていたが、やがて懐手ふところでになった。三四郎さんしろうは与次郎よじろうの顔かおを陽気ようきにするために、机つくえの上うえのランプを端はじから端はしへ移うつした。ところが与次郎よじろうは顎あごをがっくり落おとして、大おおきな坊主ぼうず頭あたまだけを黒くろく灯ひに照てらしている。いっこうさえない。どうかしたかと聞きいた時ときに、首くびをあげてランプを見みた。

「この家うちではまだ電気でんきを引ひかないのか」と顔かおつきにはまったく縁えんのないことを聞きいた。

「まだ引ひかない。そのうち電気でんきにするつもりだそうだ。ランプは暗くらくていかんね」と答こたえていると、急きゅうに、ランプのことは忘わすれたとみえて、

「おい、小川おがわ、たいへんな事ことができてしまった」と言いいだした。

一応いちおう理由わけを聞きいてみる。与次郎よじろうは懐ふところから皺しわだらけの新聞しんぶんを出だした。二に枚まい重かさなっている。その一いち枚まいをはがして、新あたらしく畳たたみ直なおして、ここを読よんでみろと差さしつけた。読よむところを指ゆびの頭あたまで押おさえている。三四郎さんしろうは目めをランプのそばへ寄よせた。見出みだしに大学だいがくの純じゅん文科もんかとある。

大学だいがくの外国がいこく文学ぶんがく科かは従来じゅうらい西洋せいよう人にんの担当たんとうで、当事とうじ者しゃはいっさいの授業じゅぎょうを外国がいこく教師きょうしに依頼いらいしていたが、時勢じせいの進歩しんぽと多数たすう学生がくせいの希望きぼうに促うながされて、今度こんどいよいよ本ほん邦人ほうじんの講義こうぎも必須ひっす課か目めとして認みとめるに至いたった。そこでこのあいだじゅうから適当てきとうの人物じんぶつを人選じんせん中ちゅうであったが、ようやく某氏ぼうしに決定けっていして、近々きんきん発表はっぴょうになるそうだ。某氏ぼうしは近ちかき過去かこにおいて、海外かいがい留学りゅうがくの命いのちを受うけたことのある秀才しゅうさいだから至極しごく適任てきにんだろうという内容ないようである。

「広田ひろた先生せんせいじゃなかったんだな」と三四郎さんしろうが与次郎よじろうを顧かえりみた。与次郎よじろうはやっぱり新聞しんぶんの上うえを見みている。

「これはたしかなのか」と三四郎さんしろうがまた聞きいた。

「どうも」と首くびを曲まげたが、「たいてい大丈夫だいじょうぶだろうと思おもっていたんだがな。やりそくなった。もっともこの男おとこがだいぶ運動うんどうをしているという話はなしは聞きいたこともあるが」と言ゆう。

「しかしこれだけじゃ、まだ風説ふうせつじゃないか。いよいよ発表はっぴょうになってみなければわからないのだから」

「いや、それだけならむろんかまわない。先生せんせいの関係かんけいしたことじゃないから、しかし」と言いって、また残のこりの新聞しんぶんを畳たたみ直なおして、標題みだしを指ゆびの頭あたまで押おさえて、三四郎さんしろうの目めの下したへ出だした。

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