← Library‹ 少女地獄 何んでも無い

白鷹秀麿しらたかひでまろ兄あに 足下あしもと

臼杵うすき利平りへい

小生しょうせいは先般せんぱん、丸まるの内うち倶楽部くらぶの庚戌会こうぼくかいで、短たん時間じかん拝眉はいびの栄さかえを得えましたもので、貴兄きけいと御ご同様どうように九州きゅうしゅう帝国ていこく大学だいがく、耳鼻じび科か出身しゅっしんの後輩こうはいであります。昨さく、昭和しょうわ八はち年ねんの六ろく月がつ初旬しょじゅんから、当とう横浜よこはま市しの宮崎みやざき町ちょうに、臼杵うすき耳鼻じび科かのネオンサインを掲かかげておる者ものでありますが、突然とつぜんにかような奇怪きっかいな手紙てがみを差さし上あげる非礼ひれいをお許ゆるし下ください。

姫ひめ草そうユリ子こが自殺じさつしたのです。

あの名前なまえの通とおりに可憐かれんな、清浄無垢せいじょうむくな姿すがたをした彼女かのじょは、貴下きかと小生しょうせいの名なを呪咀のろいながら自殺じさつしたのです。あの鳩はとのような小ちいさな胸むねに浮うかみ現あらわれた根ねも葉はもない妄想もうそうによって、貴下きかと小生しょうせいの家庭かていは申もうすに及およばず、満都まんとの新聞しんぶん紙し、警視けいし庁ちょう、神奈川かながわ県けんの司法しほう当局とうきょくまでも、その虚構うその天国てんごくを構成こうせいする材料ざいりょうに織込おりこんで来きたつもりで、却かえって一種いっしゅの戦慄せんりつすべき脅迫きょうはく観念かんねんの地獄じごく絵巻えまきを描えがき現あらわして来きました彼女かのじょは、遂ついに彼女かのじょ自身じしんを、その自分じぶんの創作そうさくした地獄じごく絵巻えまきのドン底ぞこに葬ほうむり去さらなければならなくなったのです。その地獄じごく絵巻えまきの実在じつざいを、自分じぶんの死しによって裏書うらがきして、小生しょうせい等とうを仏教ぶっきょうの所謂いわゆる、永劫えいごうの戦慄せんりつ、恐怖きょうふの無間むげん地獄じごくに突つき落おとすべく……。

その一見いっけん、平々へいへい凡々ぼんぼんな、何なんんでもない出来事できごとの連続れんぞくのように見みえる彼女かのじょの虚構きょこうの裡面りめんに脈動みゃくどうしている摩訶まか不思議ふしぎな少女しょうじょの心理しんり作用さようの恐おそろしさ。その心理しんり作用さように対たいする彼女かのじょの執着しゅうちゃくさを、小生しょうせいは貴下きかに対たいして逐一ちくいち説明せつめいし、解剖かいぼうし、分析ぶんせきして行いかねばならぬという異常いじょうな責任せきにんを持もっておる者ものであります。

しかもその困難こんなんを極きわめた、一種いっしゅ異様いような責任せきにんは本日ほんじつの午後ごごに、思おもいもかけぬ未知みちの人物じんぶつから、私わたくしの双肩そうけんに投なげかけられたものであります。……ですからこの一種いっしゅ特別とくべつの報告ほうこく書しょも、順序じゅんじょとしてその不可思議ふかしぎな未知みちの人物じんぶつの事ことから書かき始はじめさして頂いただきます。

本日ほんじつの午後ごご一いち時じ頃ころの事ことでした。

重態じゅうたいの脳膜炎のうまくえん患者かんじゃの手術しゅじゅつに疲つかれ切きった私わたくしは、外来がいらい患者かんじゃの途絶とだえた診察しんさつ室しつの長ちょう椅子いすに横よこたわって、硝子ガラス窓まど越こしに見みえる横浜よこはま港内こうないの汽笛きてきと、窓まどの下したの往来おうらいの雑音ざつおんをゴッチャに聞ききながらウトウトしておりますと、突然とつぜんに玄関げんかんのベルが鳴なって、一人ひとりの黒くろい男性だんせいの影かげが静しずかに辷すべり込こんで来きました。

跳はね起おきてみますと、それはさながらに外国がいこくの映画えいがに出でて来くる名めい探偵たんていじみた風采ふうさいの男おとこでした。年ねんの頃ころは四十よんじゅう四、五しごでしたろうか。顔かおが長ながく、眉まゆが濃こく太ふとく、高たかい、品しなのいい鼻梁はなすじの左右さゆうに、切きれ目めの長ながい眼めが落おち窪くぼんで鋭するどい、黒くろい光ひかりを放はなっているところは、とりあえず和製わせいのシャアロック・ホルムズと言いった感かんじでした。全体ぜんたいの皮膚ひふの色いろが私わたくしと同様どうように青黒あおぐろく、スラリとした骨ほね太ふとい身体からだに、シックリした折目おりめ正ただしい黒地くろじのモーニング、真新まあたらしい黒くろのベロア帽ぼう、同おなじく黒くろのエナメル靴くつ、銀頭ぎんとうの蛇木杖スネキウッドという微塵みじんも隙すきのない態度たいど風采ふうさいで、診察しんさつ室しつの扉ドアを後うしろ手でに静しずかに閉しめますと、私わたくし一人ひとりしかいない室内しつないをジロリと一いち眼がん見みまわしながら立たち佇どまって、慇懃いんぎんに帽子ぼうしを脱とって、中なか禿はげを巧たくみに隠かくした頭あたまを下さげました。

軽率けいそつな私わたくしは、この人物じんぶつを新来しんらいの患者かんじゃと思おもいましたので愛想あいそよく立たち上のぼりました。

「サアどうぞ」とジャコビアン張ばりの小椅子サイドチェアを進すすめました。

「私わたくしが臼杵うすきです」

しかし相手あいての紳士しんしは依然いぜんとして黒くろい、冷つめたい影かげ法師ほうしのように突立つきたっておりました。ちょっと眼めを伏ふせて……わかっている……と言いったような表情ひょうじょうをした切きり一言ひとことも口くちを利ききませんでした。そのうちに青白あおじろい毛けムクジャラの手てを胴衣チョッキの内うちポケットに入いれて、一いち枚まいのカード型がたの紙片しへんを探さぐり出だしますと、私わたくしの顔かおを意味いみありげにチラリと見みながら、傍そばの小卓子カードテーブルの上うえに置おいて私わたくしの方ほうへ押おし遣やりました。

そこで私わたくしは滑稽こっけいにも……サテは唖おしの患者かんじゃが来きたな……と思おもいながらその紙片しへんを取とり上あげてみますと、意外いがいにも下手へたな小学しょうがく生せいじみた鉛筆えんぴつ文字もじでハッキリと「姫ひめ草そうユリ子この行方ゆくえを御ご存ぞんじですか」と書かいて在あるのです。

私わたくしは唖然あぜんとなってその男おとこの顔かおを見上みあげました。背丈せいが五ご尺しゃく七、八しちはち寸すんもありましたろうか。

「……ハハア。知しりませんがね。だまって出でて行いきましたから……」

と即答そくとうをしましたが、その刹那せつなに……サテハこの男おとこが姫ひめ草そうユリ子この黒幕くろまくだな。何なんかしら俺おれを脅迫きょうはくしに来きやがったんだな……と直感ちょっかんしましたので直すぐに……糞くそでも啖くらえ……という覚悟かくごを腹はらの中なかで決きめてしまいました。しかし表面うわべにはソンナ気振けぶらいも見みせないようにして、平凡へいぼんな開業かいぎょう医いらしいトボケ方かたをしておりました。……姫ひめ草そうユリ子この行方ゆくえを知しっていないでよかった。知しっていると言いったら直すぐに付つけ込こまれて脅迫きょうはくされるところであったろう……と腹はらの中なかで思おもいながら……。

相手あいての紳士しんしはそうした私わたくしの顔かおを、その黒くろい、つめたい執念しゅうねん深ふかい瞳付めつきで十じゅう数すう秒間びょうかん、凝視ぎょうししておりましたが、やがてまた胴衣チョッキの内側うちがわから一ひとつの白しろい封筒ふうとうを探さぐり出だして、恭うやうやしく私わたくしの前まえに置おきました。……御覧ごらん下ください……と言いう風ふうに薄笑うすわらいを含ふくみながら……。

白しろい封筒ふうとうの中味なかみはありふれた便箋びんせんでしたが、文字もじは擬まがいもない姫ひめ草そうユリ子このペン字じで、処ところ々汚きたなくにじんだり、奇妙きみょうに震ふるえたりしているのが何なんとなく無む気味きみでした。

「白鷹しらたか先生せんせい

臼杵うすき先生せんせい

妾わたしは自殺じさついたします。お二人ふたりに御ご迷惑めいわくのかからないように、築地つきじの婦人ふじん科か病院びょういん、曼陀羅まんだら先生せんせいの病室びょうしつで自殺じさついたします。子宮しきゅう病びょうで入院にゅういん中ちゅうにジフテリ性せいの心臓しんぞう麻痺まひで死しんだようにして処理しょりして頂いただくよう曼陀羅まんだら先生せんせいにお願ねがいして置おきます。

白鷹しらたか先生せんせい 臼杵うすき先生せんせい

お二人ふたり様さまの妾めかけに賜たまわりました御ご愛情あいじょうと、その御ご愛情あいじょうを受うけ入いれました妾めかけを、お憎にくしみにもならず、親身しんみの妹いもうと同様どうように可愛かわいがって頂いただきました、お二人ふたりの奥おく様さま方かたの御ご恩おんを、妾めかけは死しんでも忘わすれませぬでしょう。ですから、その奥おく様さま方かたの気高けだかい、ありがたい御ご恩おんの万まん分ぶんの一いちでも報むくいたい気持きもちから妾めかけは、こんなにコッソリと自殺じさつするのです。わたくしの小ちいさい霊魂れいこんはこれから、お二人ふたりの御ご家庭かていの平和へいわを永久えいきゅうに守まもるでしょう。

妾めかけが息いきを引ひき取とりましたならば、眼めを閉とじて、口くちを塞ふさぎましたならば、今いままで妾めかけが見みたり聞きいたり致いたしました事実じじつは皆みな、あとかたもないウソとなりまして、お二人ふたりの先生せんせい方ほうは安心あんしんして貞淑ていしゅくな、お美うつくしい奥おく様さま方かたと平和へいわな御ご家庭かていを守まもってお出いでになれるだろうと思おもいますから。

罪深つみぶかい罪深つみぶかいユリ子こ。

姫ひめ草そうユリ子こはこの世よに望のぞみをなくしました。

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