月の位置が低いあいだに、僕はもう一度、チューブ・ライディングをおこなった。月が高くに昇ってしまうと、チューブの出口から内部の深いところまで月光が射しこんで来るという、神秘的な空間は楽しめなくなる。
さきほどとほぼおなじだった。だが、寸分たがわずおなじ波は地球上にあり得ない。それに、ライディングする僕だって、さきほどの僕ではない。ライディングのかたちはほぼおなじなのだが、体験は完全に独立した別物だ。
閉じたチューブの名残りが低い波の峰となって北の岬へ走っていくのを、僕は見守った。その僕に、月がけしかける。表情を崩さないままに不気味に笑っているような青く丸い月が、もう一度チューブに入れ、と僕に語りかけた。いまとおなじ場所にいてやるから、もうひとつだけチューブを体験しろ。月の大きな丸い輪郭と青い光が、僕をそんなふうに誘っていた。
いったん少し沖に出てから、チューブ波をつかまえる地点まで、僕はパドリングで引き返した。黒い砂の岸に砕ける波の音が、風に乗って沖まで届いて来る。ボードに腹ばいの僕は、体を波に洗われながら、その音を聞いた。そして波を待った。
湾に面している小さな田舎町の明かりが、夜の深い黒さのなかに、鮮明に輝く宝石のようだ。山裾の道路を、明かりの点がひとつ、動いていく。山の中腹に向かってのぼっていく自動車だ。林にさえぎられてその明かりは見えなくなり、しばらくしてかなり離れたところに、ふたたび登場した。
夜の湾の広がりは、静かで堂々としている。海がたたえている水の量は、太陽の照る昼間よりも、はるかに多いように思える。そしてこの夜の海ぜんたいが、不思議な生き物になっている。サーフボードと僕を操るリズムは、その海の呼吸のリズムだ。
僕がひとりだけ、その律動の内部にいる。今夜の海は僕を許容し、僕につきあってくれている。もし海が機嫌をそこねたら、僕などひとたまりもない。チューブ波の海底のことを僕は思った。チューブが出来る部分の水深は二メートルない。海底は珊瑚礁の棚だ。大根おろしのおろしがねを巨大に引きのばしたような岩棚だ。
ワイプアウトして波に巻かれたら、海底に叩きつけられる。波ぜんたいで体を珊瑚礁に押しつけられ、さんざんに叩きのめされ、そしてひきずられる。その結果、人間の体がどんなふうになるか、僕は実際の例を何度も見ている。
振り向いて見つめる暗い海の向こうから、波が来た。僕に接近し、サーフボードごと僕を高く逆落としのように、持ちあげる。僕は必死でパドリングする。波の高さのピークをつかまえてはなさないまま、波のスピードとパワーに負けないよう、腹ばいになった全身の力を振り絞った。
そして両腕をボードに立てようとする瞬間、僕は音を聞いた。聞いたとたん、言いようのない戦慄が、全身をつらぬいた。あまりの怖さに体ぜんたいに鳥肌が立った。腕や太腿の鳥肌のひとつひとつに、水がひっかかるのがわかった。
サーフボードとともに海に出始めてすでに十数年になる。さまざまな波を体験してきたが、いまのような音を聞くのは初めてだ。重い音だった。いつまでも体の内部に残響が宿るような、気味の悪い重低音だ。音は、明らかに海のなかから、聞こえて来た。海底から沸きあがる音だった。大きな岩が海底で動きだし、岩どうし何度かぶつかりあうような、そんな音だった。
説明不可能な戦慄に全身がすくみあがりつつも、僕の体の反射的な動きに狂いはなかった。筋力を限界まで絞りきった最後のパドリングのあと、僕はボードに立ちあがった。立ちあがると同時に、ボードの先端に重心をかけ、オーヴァーハングの頂上を突き破り、空間へ飛び出した。
飛沫を全身に浴びた。月光の乱反射で、自分の体が青白い光の発光体になったように錯覚する。その錯覚の一瞬、僕はふたたび音を聞いた。間違いない。その音は海の底から来る。重い音波が、サーフボード越しに僕の両脚に伝わるのを、はっきり感じた。
見えない恐怖でしばりあげられたように硬くなった体で、深くえぐれてそそり立つ波のスロープに僕は飛びこんだ。自分のまわりに広がる夜の空間に、いつもなら五感のありったけが飛翔していく。だがいまは違っていた。感覚は僕の内部で臆病に小さく固まっていた。そしてその感覚は、恐怖しか感じていない。スケッグとテールが波の腹にくいこむ瞬間の、強烈な手ごたえと同時に、またあの音が聞こえた。
海底の巨岩がふわりと浮きあがり、仲間の岩の上に落下するような音。海底よりもさらに深い、地殻のもっと奥の暗黒から聞こえて来るような音。あるいは、地底の秘密の場所には常に満ちていて、地殻に亀裂が走ったときにだけ海のなかにもれて来る奇怪な音。そんな想像が、ごく自然に沸きあがって来るような音だった。
僕と美しい調和を保っていた海や波、それに月や星空が、一転して怖いものに変わった。サーフボードの下の海は、底なしの奈落だ。背後には巨大な夜の空間が、いつでも僕をのみこめるよう、大口を開けている。
湾が急激に広がっていくように思える。すぐうしろに立ちはだかっている波の水量が、僕の気持を圧倒してこっぱみじんに砕く。星空が狂っている。青い月が哄笑している。
チューブに入るのを、僕はとっくにあきらめていた。ボードに腹ばいのまま、ボードの先端に重心をかけきり、湾の奥に向かって波を一直線に滑り降りた。そのまま、いけるところまでいった。ボードのスピードが落ちてからパドリングを始めた。
パドリングで岸に向かいながら、僕は振り返った。チューブが出来始める瞬間だった。落下して来るアーチの部分だけ、月光を受けとめてまっ白だ。胸の高鳴りを覚えずにはいられない、みごとなチューブの誕生の瞬間だ。
だがこのチューブが、このときほど恐ろしく不気味に感じられたことはない。脱出せずにチューブに入ろうとしていたら、僕はかならずワイプアウトし、あのアーチの下で岩のあいだに押さえこまれ、波に叩きまくられていたに違いない。
まっ白な砕け波が背後から来た。海底から僕をつかまえに来る、白い使者のようだった。白い段丘のようなその波になかばつかまったまま、僕は力まかせのパドリングを続けた。浅瀬のこのあたりになると、波の表面の水じたいも動いていく。それに乗って僕は岸に向かった。
スケッグが砂をこすった。僕はボードに立ちあがり、飛び降りた。体のまわりを白い波はとおり越していった。サーフボードは黒い砂浜に乗りあげた。
ボードをかかえあげ、波を蹴り散らして走り、砂浜に駆けあがった。黒い砂に自分の両足が白く見えた。砂浜を椰子の樹まで這いのぼった波は、力つきて引き返して来た。走る僕の両足を洗った。一度だけ海を振り返り、椰子の林のなかの道へ飛びこんだ。林の向こうへ抜けるせまい道だ。葉のあいだをもれてくる月光に、深い影が交錯していた。
ビーチハウスでシャワーを浴びた。冷たい水に全身を叩かせながら、沖の波の上で聞いた音を僕は体の内部で反芻した。ひとまわり小さくなってはいるものの、波の上にいたときに感じたのと同質の恐怖が、僕の内部によみがえった。あの音は、いったいなにの音だったのか。素朴な疑問は、そのまま底なしの恐怖だった。なにの音にせよ、不気味な音だった。海底の雷鳴のような音だ。錯覚ではなく、たしかに聞いた。
ビーチハウスの外でサーフボードをジープに積んだ。アメリカ陸軍払い下げのジープだ。見かけはおんぼろだが、エンジンやトランスミッションは、まだ壮年期に達したばかりのタフさだった。ジープに乗りエンジンを始動した。湾に面した町の裏側を抜けていく道路に向かって、僕はジープで走り始めた。
月が正面にまわった。位置は少し高さを増していた。湾の沖で僕に語りかけたときよりも、ふたまわりは小さくなっていた。