← Library‹ 波乗りの島 アイランド・スタイル 3

月つきの位置いちが低ひくいあいだに、僕ぼくはもう一いち度ど、チューブ・ライディングをおこなった。月つきが高たかくに昇のぼってしまうと、チューブの出口でぐちから内部ないぶの深ふかいところまで月光げっこうが射さしこんで来くるという、神秘しんぴ的てきな空間くうかんは楽たのしめなくなる。

さきほどとほぼおなじだった。だが、寸分すんぶんたがわずおなじ波なみは地球ちきゅう上じょうにあり得えない。それに、ライディングする僕ぼくだって、さきほどの僕ぼくではない。ライディングのかたちはほぼおなじなのだが、体験たいけんは完全かんぜんに独立どくりつした別物べつものだ。

閉とじたチューブの名残なごりが低ひくい波なみの峰みねとなって北きたの岬みさきへ走はしっていくのを、僕ぼくは見守みまもった。その僕ぼくに、月つきがけしかける。表情ひょうじょうを崩くずさないままに不ふ気味きみに笑わらっているような青あおく丸まるい月つきが、もう一いち度どチューブに入いれ、と僕ぼくに語かたりかけた。いまとおなじ場所ばしょにいてやるから、もうひとつだけチューブを体験たいけんしろ。月つきの大おおきな丸まるい輪郭りんかくと青あおい光ひかりが、僕ぼくをそんなふうに誘さそっていた。

いったん少すこし沖おきに出でてから、チューブ波はをつかまえる地点ちてんまで、僕ぼくはパドリングで引ひき返かえした。黒くろい砂すなの岸きしに砕くだける波なみの音おとが、風かぜに乗のって沖おきまで届とどいて来くる。ボードに腹はらばいの僕ぼくは、体からだを波なみに洗あらわれながら、その音おとを聞きいた。そして波なみを待まった。

湾わんに面めんしている小ちいさな田舎町いなかまちの明あかりが、夜よるの深ふかい黒くろさのなかに、鮮明せんめいに輝かがやく宝石ほうせきのようだ。山裾やますその道路どうろを、明あかりの点てんがひとつ、動うごいていく。山やまの中腹なかはらに向むかってのぼっていく自動じどう車しゃだ。林はやしにさえぎられてその明あかりは見みえなくなり、しばらくしてかなり離はなれたところに、ふたたび登場とうじょうした。

夜よるの湾わんの広ひろがりは、静しずかで堂々どうどうとしている。海うみがたたえている水みずの量りょうは、太陽たいようの照てる昼間ひるまよりも、はるかに多おおいように思おもえる。そしてこの夜よるの海うみぜんたいが、不思議ふしぎな生いき物ものになっている。サーフボードと僕ぼくを操あやつるリズムは、その海うみの呼吸こきゅうのリズムだ。

僕ぼくがひとりだけ、その律動りつどうの内部ないぶにいる。今夜こんやの海うみは僕ぼくを許容きょようし、僕ぼくにつきあってくれている。もし海うみが機嫌きげんをそこねたら、僕ぼくなどひとたまりもない。チューブ波はの海底かいていのことを僕ぼくは思おもった。チューブが出来できる部分ぶぶんの水深すいしんは二にメートルない。海底かいていは珊瑚さんご礁しょうの棚たなだ。大根だいこんおろしのおろしがねを巨大きょだいに引ひきのばしたような岩棚いわだなだ。

ワイプアウトして波なみに巻まかれたら、海底かいていに叩たたきつけられる。波なみぜんたいで体からだを珊瑚さんご礁しょうに押おしつけられ、さんざんに叩たたきのめされ、そしてひきずられる。その結果けっか、人間にんげんの体からだがどんなふうになるか、僕ぼくは実際じっさいの例れいを何なん度ども見みている。

振ふり向むいて見みつめる暗くらい海うみの向むこうから、波なみが来きた。僕ぼくに接近せっきんし、サーフボードごと僕ぼくを高たかく逆落さかおとしのように、持もちあげる。僕ぼくは必死ひっしでパドリングする。波なみの高たかさのピークをつかまえてはなさないまま、波なみのスピードとパワーに負まけないよう、腹はらばいになった全身ぜんしんの力ちからを振ふり絞しぼった。

そして両腕りょううでをボードに立たてようとする瞬間しゅんかん、僕ぼくは音おとを聞きいた。聞きいたとたん、言いいようのない戦慄せんりつが、全身ぜんしんをつらぬいた。あまりの怖こわさに体たいぜんたいに鳥肌とりはだが立たった。腕うでや太腿ふとももの鳥肌とりはだのひとつひとつに、水みずがひっかかるのがわかった。

サーフボードとともに海うみに出で始はじめてすでに十じゅう数すう年ねんになる。さまざまな波なみを体験たいけんしてきたが、いまのような音おとを聞きくのは初はじめてだ。重おもい音おとだった。いつまでも体からだの内部ないぶに残響ざんきょうが宿やどるような、気味きみの悪わるい重じゅう低音ていおんだ。音おとは、明あきらかに海うみのなかから、聞きこえて来きた。海底かいていから沸わきあがる音おとだった。大おおきな岩いわが海底かいていで動うごきだし、岩いわどうし何なん度どかぶつかりあうような、そんな音おとだった。

説明せつめい不ふ可能かのうな戦慄せんりつに全身ぜんしんがすくみあがりつつも、僕ぼくの体からだの反射はんしゃ的てきな動うごきに狂くるいはなかった。筋力きんりょくを限界げんかいまで絞しぼりきった最後さいごのパドリングのあと、僕ぼくはボードに立たちあがった。立たちあがると同時どうじに、ボードの先端せんたんに重心じゅうしんをかけ、オーヴァーハングの頂上ちょうじょうを突つき破やぶり、空間くうかんへ飛とび出だした。

飛沫ひまつを全身ぜんしんに浴あびた。月光げっこうの乱らん反射はんしゃで、自分じぶんの体からだが青白あおじろい光ひかりの発光はっこう体たいになったように錯覚さっかくする。その錯覚さっかくの一瞬いっしゅん、僕ぼくはふたたび音おとを聞きいた。間違まちがいない。その音おとは海うみの底そこから来くる。重おもい音波おんぱが、サーフボード越ごしに僕ぼくの両脚りょうあしに伝つたわるのを、はっきり感かんじた。

見みえない恐怖きょうふでしばりあげられたように硬かたくなった体からだで、深ふかくえぐれてそそり立たつ波なみのスロープに僕ぼくは飛とびこんだ。自分じぶんのまわりに広ひろがる夜よるの空間くうかんに、いつもなら五感ごかんのありったけが飛翔ひしょうしていく。だがいまは違ちがっていた。感覚かんかくは僕ぼくの内部ないぶで臆病おくびょうに小ちいさく固かたまっていた。そしてその感覚かんかくは、恐怖きょうふしか感かんじていない。スケッグとテールが波なみの腹はらにくいこむ瞬間しゅんかんの、強烈きょうれつな手てごたえと同時どうじに、またあの音おとが聞きこえた。

海底かいていの巨岩きょがんがふわりと浮うきあがり、仲間なかまの岩いわの上うえに落下らっかするような音おと。海底かいていよりもさらに深ふかい、地殻ちかくのもっと奥おくの暗黒あんこくから聞きこえて来くるような音おと。あるいは、地底ちていの秘密ひみつの場所ばしょには常つねに満みちていて、地殻ちかくに亀裂きれつが走はしったときにだけ海うみのなかにもれて来くる奇怪きっかいな音おと。そんな想像そうぞうが、ごく自然しぜんに沸わきあがって来くるような音おとだった。

僕ぼくと美うつくしい調和ちょうわを保たもっていた海うみや波なみ、それに月つきや星空ほしぞらが、一転いってんして怖こわいものに変かわった。サーフボードの下したの海うみは、底そこなしの奈落ならくだ。背後はいごには巨大きょだいな夜よるの空間くうかんが、いつでも僕ぼくをのみこめるよう、大口おうぐちを開あけている。

湾わんが急激きゅうげきに広ひろがっていくように思おもえる。すぐうしろに立たちはだかっている波なみの水量すいりょうが、僕ぼくの気持きもちを圧倒あっとうしてこっぱみじんに砕くだく。星空ほしぞらが狂くるっている。青あおい月つきが哄笑こうしょうしている。

チューブに入はいるのを、僕ぼくはとっくにあきらめていた。ボードに腹はらばいのまま、ボードの先端せんたんに重心じゅうしんをかけきり、湾わんの奥おくに向むかって波なみを一いち直線ちょくせんに滑すべり降おりた。そのまま、いけるところまでいった。ボードのスピードが落おちてからパドリングを始はじめた。

パドリングで岸きしに向むかいながら、僕ぼくは振ふり返かえった。チューブが出来でき始はじめる瞬間しゅんかんだった。落下らっかして来くるアーチの部分ぶぶんだけ、月光げっこうを受うけとめてまっ白しろだ。胸むねの高鳴たかなりを覚おぼえずにはいられない、みごとなチューブの誕生たんじょうの瞬間しゅんかんだ。

だがこのチューブが、このときほど恐おそろしく不ふ気味きみに感かんじられたことはない。脱出だっしゅつせずにチューブに入はいろうとしていたら、僕ぼくはかならずワイプアウトし、あのアーチの下もとで岩いわのあいだに押おさえこまれ、波なみに叩たたきまくられていたに違ちがいない。

まっ白しろな砕くだけ波なみが背後はいごから来きた。海底かいていから僕ぼくをつかまえに来くる、白しろい使者ししゃのようだった。白しろい段丘だんきゅうのようなその波なみになかばつかまったまま、僕ぼくは力ちからまかせのパドリングを続つづけた。浅瀬あさせのこのあたりになると、波なみの表面ひょうめんの水みずじたいも動うごいていく。それに乗のって僕ぼくは岸きしに向むかった。

スケッグが砂すなをこすった。僕ぼくはボードに立たちあがり、飛とび降おりた。体からだのまわりを白しろい波なみはとおり越こしていった。サーフボードは黒くろい砂浜すなはまに乗のりあげた。

ボードをかかえあげ、波なみを蹴けり散ちらして走はしり、砂浜すなはまに駆かけあがった。黒くろい砂すなに自分じぶんの両足りょうあしが白しろく見みえた。砂浜すなはまを椰子やしの樹きまで這はいのぼった波なみは、力ちからつきて引ひき返かえして来きた。走はしる僕ぼくの両足りょうあしを洗あらった。一いち度どだけ海うみを振ふり返かえり、椰子やしの林はやしのなかの道みちへ飛とびこんだ。林はやしの向むこうへ抜ぬけるせまい道みちだ。葉はのあいだをもれてくる月光げっこうに、深ふかい影かげが交錯こうさくしていた。

ビーチハウスでシャワーを浴あびた。冷つめたい水みずに全身ぜんしんを叩たたかせながら、沖おきの波なみの上うえで聞きいた音おとを僕ぼくは体からだの内部ないぶで反芻はんすうした。ひとまわり小ちいさくなってはいるものの、波なみの上うえにいたときに感かんじたのと同質どうしつの恐怖きょうふが、僕ぼくの内部ないぶによみがえった。あの音おとは、いったいなにの音おとだったのか。素朴そぼくな疑問ぎもんは、そのまま底そこなしの恐怖きょうふだった。なにの音おとにせよ、不ふ気味きみな音おとだった。海底かいていの雷鳴らいめいのような音おとだ。錯覚さっかくではなく、たしかに聞きいた。

ビーチハウスの外そとでサーフボードをジープに積つんだ。アメリカ陸軍りくぐん払はらい下さげのジープだ。見みかけはおんぼろだが、エンジンやトランスミッションは、まだ壮年そうねん期きに達たっしたばかりのタフさだった。ジープに乗のりエンジンを始動しどうした。湾わんに面めんした町まちの裏側うらがわを抜ぬけていく道路どうろに向むかって、僕ぼくはジープで走はしり始はじめた。

月つきが正面しょうめんにまわった。位置いちは少すこし高たかさを増ましていた。湾わんの沖おきで僕ぼくに語かたりかけたときよりも、ふたまわりは小ちいさくなっていた。

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