夏休みがはじまった次の日の午後六時に、佐々木祐一はひとりで自宅に帰って来た。玄関から板の間に上がった。まっすぐ奥へ、そして左右に、三つの方向へ廊下はのびていた。客間のほうから声が聞こえた。姉の声だった。
玄関から廊下を左へいくと、客間が三つならんでいた。そのいちばん奥、家の側面にある庭に面した部屋の障子が、おだやかに開いた。姉の友人、風祭百合絵が、廊下に出て来た。祐一を見て、
「あら」
と、彼女はきれいな声で言った。単純なひと言のなかにも、もの静かな優しさが完璧に宿るのを、祐一は快感として受けとめた。百合絵は彼にむけて歩いて来た。ごく普通の夏のスカートに、半袖のシャツを着ていた。百合絵は素足だった。
「学校へいってたの?」
立ちどまって、百合絵は彼にきいた。祐一はうなずいた。
「練習?」
「そうです」
「たいへんね」
佐々木祐一は県立高校の水泳部に所属するリレーの選手だった。まだ濡れている髪を、彼は頭の頂上からうなじへかけて、両手の長い指で押さえていった。彼のやや長めの髪は、すべてうしろにむけてときつけてあった。精悍でいて同時に優しい印象のある彼の顔に、うしろへときつけた長めの髪は、よく似合っていた。
「たいへんね」
百合絵がくりかえした。
「今日でひとまず終りです」
「秋の大会には出場するの?」
百合絵の質問に彼はうなずいた。
「おそらく」
風祭百合絵は祐一がかよっている県立高校の英語の先生だ。百合絵を見るたびに、祐一は、なぜ、と心の深い部分で真剣に思う。彼女が英語の先生であるのはいいとして、なぜこんな田舎の県立高校にいるのか。なぜ、風祭という不思議な名前なのか。なぜ、これほどまでに美しい人なのか。なぜ、彼女はいまここにいるのか。
十七歳の少年として、祐一はごく普通の背丈だ。百合絵は、その彼とほぼおなじ背の高さだった。細身に見える彼女の体は、端麗すぎるほどの出来ばえだった。顔立ちはあきらかに整いすぎだ。おだやかで優しく、なにをするにしても、彼女は静かで滑らかだ。整いすぎの美人の常として、百合絵は沈んで見えたり冷たく見えたりもしたが、一定した温かさを持続させた華やぎが、なんの無理もなく常に彼女の雰囲気のなかにあることに裕一は気づいていた。
この素晴らしい女性を、学校のほとんどの男の生徒たちが嫌っていることも、祐一にとっては大きな謎だった。もっとも嫌われる科目である英語を教えているから、ということだけがその理由ではないようだった。女性たちの多くも、百合絵を好いていなかった。私たちとは距離がありすぎるのよと、おなじ水泳部の選手、山形多恵子がかつて祐一に言った。
「祐一なの?」
客間から姉の祐子が言った。
「ただいま」
「ここへ来て英語を教えてもらいなさい」
百合絵は廊下を歩いて客間へ戻った。肩ごしに彼女は祐一をふりかえった。祐一も姉のいる客間にむけて廊下を歩いた。
「入ってらっしゃい」
六歳年上の姉の言葉に、祐一は障子を開いた。テーブルのむこうで、祐子は畳にすわって床の間の柱に背をもたせかけていた。百合絵も部屋に入り、うしろ手に静かに障子をしめた。テーブルのわきへ歩きながら、祐一は百合絵をふりかえって見た。
クーラーで冷やされた客間の空気のなかに、美しくすっきりと、百合絵は立っていた。天井にある見るからにつまらない形の蛍光灯が放つ、なんの趣もない光のなかでも、風祭百合絵は、見る人の呼吸のテンポを乱すほどの美しさだった。
「すわりなさい」
祐子が言った。どんなことでも命令口調で言う姉に完全になれている祐一は、テーブルのからわらにすわった。そして百合絵を見上げた。見上げる百合絵はまたちがった美しさを獲得していた。
微笑しながら、百合絵は夏の座蒲団の上に正座した。彼女の身のこなしすべてをつかさどる、女性としての反射神経の総体の見事さに、祐一は何度目とも知れない感銘を覚えた。
祐一の姉である祐子は、風祭百合絵とおなじ大学を卒業していた。ふたりは大学生のときからの親友どうしだ。だから百合絵が、いまここで自分の目のまえにいることは、簡単に説明がつく。現実の因果関係はたやすく説明できるが、百合絵のような女性がなぜ存在するのか、そしてなぜここにいるのかという、もっと大きくて基本的な疑問には説明のつけようがないはずだ、と祐一は思った。
「英語を教えてもらいなさい」
祐子が言った。祐一は姉を見た。顔も姿もけっして悪くはない祐子なのだが、百合絵のまえではきわめて平凡な女性にしか見えなかった。
「わからないところがたくさんあると言ってたでしょう」
祐子が祐一に言った。
「教えてもらいなさい」
「いまはいいよ」
苦笑して祐一は首を振った。そして百合絵を見た。端正に正座した百合絵は、両手を膝の上で重ね、きれいに背をのばし、優しい笑顔でいた。このような女性をなぜみんなは嫌うのか、祐一にはわからなかった。
「せっかくだから」
姉が言った。
「あとでいいよ。九月になったら。学校で」
「どこがどうわからないのか、それがわからないのでしょう」
祐子は自分の言葉に自分で笑った。そして、
「私たちはもうじき出かけるわ」
と言った。
「僕は夕食のしたくを手伝う」
「でもお母さんは、今夜は踊りの会よ。もう出かけたわ」
「そうか。親父は?」
「会社の旅行」
「僕ひとりか」
「そうよ」
「自分でなにか作って食べる」
祐一が言った。
「なにを作るの?」
信じられないほどに優しく、百合絵がきいた。胸腔の内部で宙吊りになっている自分の心臓を、百合絵の掌でそっと支えてもらったような戦慄を、祐一は覚えた。
なにか料理の名を言わなくてはいけない、と彼は思った。なにか言おうとしてあせると、あせりに比例してなにも思い浮かばなかった。アイウエオ順に考えていくことを思いついた彼は、ア、イ、ウ、エ、と心のなかでたどっていき、
「オムライス!」
と叫ぶように言った。
姉が声を上げて笑った。百合絵は静かな笑顔のままだった。彼女のかたちの良い唇に塗った口紅の赤い色を、祐一は見た。
風祭百合絵はいま自分のすぐ目のまえにいるけれど、自分からは遥かに遠い存在であり、距離はありすぎるほどにあるのだと、祐一は自覚した。私たちとは距離がありすぎるのよ、という山形多恵子の言葉が、部分的にはよくわかる気がした。