午前中の指定時間どおりに、佐々木祐一は学校のプールへいった。プールはいまは水泳部だけが利用していた。三年生のトレーニングのかたわら、OBたちの監督のもとに、二年生の自主トレーニングがおこなわれる期間だった。お盆の週はプールは休みになる。その前後の週は、それぞれ午前中は水泳部のトレーニングに使用され、午後から夕方までは一般に公開されることになっていた。
灰色に曇った、空気の重い日、午前十時に、祐一は部室にひとりであらわれた。タオルや水泳着の入ったバッグを下げていた。先日買ったTシャツも、そのなかにあった。店の紙袋におさめてあった。
祐一はこのTシャツを風祭百合絵に進呈することを思いついた。自分よりも百合絵に似合いそうだ、と彼は思った。容姿の端麗すぎる、そして顔立ちの美しすぎる百合絵が、このTシャツを着たらどうなるだろうかと、彼は興味を持った。
部室で裸になり、薄いナイロンのスイミング・ショーツを身につけた祐一は、半地下のようなコンクリートの通路を歩いて、プールへ出た。五十メートル八コースの、本格的な競泳プールだった。そのむこうには、高飛びこみのためのプールがあった。
祐一は泳ぐのが好きだった。だから高校に入学したとき、水泳部に入った。好きなときだけのんびり泳ぐつもりでいたのだが、何人かのコーチに見こまれた。水への乗りが良く、無駄な動きのない祐一の泳ぎかたは、トレーニング次第では高校生の選手として立派に通用する、とコーチたちは言った。
祐一は選手にされてしまった。短い距離の自由形の泳者としてトレーニングを受けはじめたが、途中でリレーの泳者に希望して転向した。ひとりで全責任を負って競泳するのは、祐一の性格に合っていなかった。泳いでいる途中から、緊張感と心理的な負担とで、心臓が張り裂けそうになった。リレーに転向して彼のタイムは向上した。すくなくとも彼にとっては、リレーは心理的に楽だった。ぜんたいのなかの一部分だけを、あとさき考えずに全力で飛ばす、というふうに祐一はリレーをとらえ、そのとおりに全力で泳いだ。
お昼まえに祐一は練習を終った。シャワー・ルームで冷たい地下水のシャワーを浴び、石鹸を使って体をくまなく洗った。水で石鹸を流し去り、持ってきた大きなタオルで体をふいた。髪からも水をタオルに吸い取らせた。
バッグにすべてのものを入れた祐一は、白いショート・パンツにスニーカーをはき、部室へ戻った。上半身は裸だった。体育系の部室は、コンクリート製の横に長い二階建ての建物だった。プールのすぐ背後にせまる丘の斜面に、なかば埋めこんだようになっていた。真夏のもっとも暑い頃でも、この建物のなかに入るとひんやりとしていた。
おなじ部員の中沢という二年生が部室にいた。
「風祭先生を見かけなかったか」
祐一は中沢にきいてみた。
「見ないよ」
中沢が答えた。そして次のようにつけ加えた。
「学校なんかとっくに忘れて、どこかで遊んでるよ。外国だな、きっと」
中沢の言いかたに、百合絵に対する否定的な感情を、祐一ははっきりと感じた。
「あの先生は嫌いか」
と祐一はきいてみた。
「嫌いだよ」
「なぜ」
「なんと言ったって、冷たいよ。それに、俺たちのことを馬鹿だと思ってるし」
中沢が答えた。
「馬鹿だと言われたのか」
「言われてはいないけど、態度でわかるよ。それに、視線にも出てる」
「すごい美人じゃないか」
「受けは悪いんだよ。外見は良くても、気持ちは冷たいから」
「勝手にそう思うだけだろう」
「みんなに聞いてみろよ」
口をとがらせてそう言い、中沢はスイミング・ショーツ一枚で部室を出ていった。紙袋に入ったTシャツを、祐一はバッグから出してみた。今日、風祭百合絵にもし会えたら、進呈するつもりで持ってきた。紙袋のなかから祐一はTシャツを出した。
広げて顔のまえにかかげてみた。店の香りがした。着心地を試してみよう、と祐一は思った。いまはプールから上がったばかりだ。それにシャワーで石鹸を使って洗ったから、肌はすべすべだった。汗は出ていなかった。髪もほぼ乾いていた。
祐一はそのTシャツを着てみた。頭からかぶって裾を引き下げ、両袖を引っぱって腕になじませた。ほどよく薄い木綿の生地が肌に触れる感触は、柔らかくて気持ち良かった。サイズはぴったりで、裾の長さや体とのあいだに出来るゆとりが絶妙だった。
祐一は胸を見下ろした。セントルイス・カーディナルズのチーム名のロゴを、彼は観察した。そして彼はTシャツを脱いだ。丁寧にたたみ、紙袋におさめなおした。シャツをはおった彼は、バッグを下げて部室を出た。校庭を横切り、校舎の中央にある職員室のすぐ外まで歩いた。ガラス窓ごしになかを見た。職員室のなかには誰もいなかった。