夏休みは終った。学校が始まった。学校は退屈だった。水泳の練習はいつものパターンのとおりだった。姉も先生の仕事が始まった。おなじ県のなかの中学校なのだが、自宅からの通勤は無理だった。だから彼女は学校の近くに下宿していた。
九月第四週、火曜日の午後一時限目は、風祭百合絵の英語のクラスだった。始業のベルが鳴り終るのといれちがいに、彼女は祐一たちのクラスにあらわれた。
色の落ちたスリムなブルージーンズ。白いテニス・シューズ。胴をしぼりぎみにした、薄い生地の黒いジャケット。そしてそのジャケットの下に、風祭百合絵は、祐一が真夏の海岸で進呈したTシャツを着ていた。
彼女は出欠を取った。デスクの上に出欠簿を開き、最初から順に名前を呼んでいった。自分の名前に接近していくにしたがって、祐一の心臓の鼓動が早くなった。椅子にじっとすわっているのが苦痛に感じられるほどに鼓動が早くなったとき、百合絵は祐一の名を呼んだ。
「はい」
と祐一は答えた。
それまで出欠簿に目を伏せたままでいた百合絵は、顔を上げた。そして祐一を見た。表情はいっさいなしに、ただ見ただけだった。そしてふたたび視線を伏せ、次の人から名前を呼んでいった。
その百合絵を祐一は見守った。近よりがたいと言うなら、この女性には確かにそんな雰囲気がなくもない、と祐一は思った。授業が始まり、彼の心臓の鼓動はやがておさまった。そのかわりに、頭がぼうっとしてきた。顔が妙にほてったようでもあり、喉も乾いた。彼女が黒板に書くことを放心したように見ながら、祐一は百合絵の声を聞いていた。
百合絵の授業は大学の受験対策を中心にしていた。大学入試でもっとも点をとりやすいのは英語だと百合絵は断言し、なぜ点がとりやすいかを、実際にいろんな大学で出題された問題をパターン別にとりあげながら、点のとりかたを説明した。多くの場合、その説明は、受験参考書に書いてあることの、具体的でわかりやすい解明だった。
たまにノートを取りながら、祐一は百合絵を見つめ、彼女の声を体のなかへ受けとめていた。Tシャツは風祭百合絵によく似合っていた。サイズはちょうどよかった。黒いジャケットの下で、彼女の体とシャツのあいだに、きわめて魅力的な空間が生まれていた。
彼女を見つめ続けていた祐一は、あるとき突然に気づいた。心臓の中心を、いきなり鋭く突きさされたように、彼は感じた。Tシャツの下には百合絵の素肌だけがある、ということに祐一は気づいた。百合絵はTシャツの下に下着を身につけていなかった。確実な事実として、彼はそのことに気づいた。
百合絵の胸のふくらみは、明らかに小ぶりだった。しかし、女性にしか出すことのできないそのふくらみのカーヴは、確実にそこにあった。黒板になかば背をむけた姿勢で、生徒たちを見ながら黒板に字を書くとき、そのカーヴおよび小さな丸い乳首が、ほんの一瞬、Tシャツの下から浮き彫りになるのを、祐一は見た。
祐一は百合絵の声を聞いた。「カンマのある which は『そしてそれは』と訳する」という参考書の記述について、百合絵は説明していた。「カンマのない which の場合は、which 以下のすべてを下から訳す」という記述についても、彼女は丁寧な解説を加えた。ノートのなにも書いてないページのいちばん上の行に、which 以下のすべて、と祐一は鉛筆で書いた。
プールから上がったあとの、汗の完全に引いた体に一度だけ着てみたあのTシャツの感触を、祐一は自分の肌の上に思い出していた。裸の上に着てみたTシャツは、たいへんに心地良かった。そしていま、風祭百合絵も、裸の上におなじTシャツを着ていた。Tシャツの生地が彼女の胸のふくらみに触れるときの心地良さ、乳首にかすかに触れるときの感触を、きわめて短い一瞬、祐一は自分の胸でも感じた。
放課後、祐一たちを含めてリレーの泳者全員が、いつものようにプールで練習をした。自由練習の日だった。男性と女性が四コースずつ、プールを分け合って使用した。練習の途中で、プールの縦の縁にすわっている祐一にむけて、山形多恵子が泳いで来た。縦に泳いでいる何人もの泳者のあいだを、むこうの縁から彼女は泳いで来た。そして祐一のすぐかたわらで、プールの縁に上がった。
彼女の大柄な体のぜんたいから、盛大に水が落ちた。祐一の肩に脚が触れるほどに接近して多恵子は立っていたから、したたる水は彼女の体から直接に、祐一にかかった。プールの縁に落ちた水は、跳ねかえって祐一のわき腹や腕を濡らした。彼は彼女をふりあおいだ。多恵子はプールのむこうを見ていた。
体から水が落ちなくなってから、多恵子は祐一のすぐそばにしゃがんだ。彼女の量感のある濡れた太腿や、分厚い肩、太い腕などから、自分にむけてエネルギーが発散されて来るのを、祐一は感じた。はじめのうちそれをただ受けとめていた彼は、彼女のエネルギーに対抗しなくてはいけないと、なんの理由もなしに思った。だから彼はすわっていた腰を上げ、多恵子とおなじようにしゃがんだ姿勢を取った。肩や目の位置がおなじになった。祐一は多恵子を見た。彼女はまだプールのむこうに視線をむけていた。祐一もおなじ方向を見た。
多恵子は立ち上がった。その動きにしたがうようなかたちで、祐一は多恵子をふり仰いだ。彼の目をまっすぐに見下ろして、
「あのTシャツを英語の先生にあげたでしょう」
と多恵子は言った。