墓地のできごとがあってから二日の後、やっぱり夜の八時ごろ、篠崎始君のおうちの、りっぱなご門から、三十歳ぐらいの上品な婦人と、五つぐらいのかわいらしい洋装の女の子とが、出てきました。婦人は始君のおばさん、女の子は小さいいとこですが、ふたりは夕方から篠崎君のおうちへ遊びに来ていて、今、帰るところなのです。
おばさんは、大通りへ出て自動車をひろうつもりで、女の子の手を引いて、うす暗いやしき町を、急ぎ足に歩いていきました。
すると、またしても、ふたりのうしろから、例の黒い影があらわれたのです。
怪物は塀から塀へと伝わって、足音もなく、少しずつ、少しずつ、ふたりに近づいていき、一メートルばかりの近さになったかと思うと、いきなり、かわいらしい女の子にとびかかって、小わきにかかえてしまいました。
「アレ、なにをなさるんです。」
婦人はびっくりして、相手にすがりつこうとしましたが、黒い影は、すばやく片足をあげて、婦人をけたおし、その上にのしかかるようにして、あの白い歯をむきだし、ケラケラケラ……と笑いました。
婦人はたおれながら、はじめて相手の姿を見ました。そして、うわさに聞く黒い魔物だということがわかると、あまりのおそろしさに、アッとさけんだまま、地面にうつぶしてしまいました。
そのあいだに、怪物は女の子をつれて、どこかへ走りさってしまったのですが、では、黒い魔物は、おそろしい人さらいだったのかといいますと、べつにそうでもなかったことが、その夜ふけになってわかりました。
もう十一時ごろでしたが、篠崎君のおうちから一キロほどもはなれた、やっぱり玉川電車ぞいの、あるさびしいやしき町を、一人のおまわりさんが、コツコツと巡回していますと、人通りもない道のまんなかに、五つぐらいの女の子が、シクシク泣きながらたたずんでいるのに出あいました。それがさいぜん黒い怪物にさらわれた、篠崎君の小さいいとこだったのです。
まだ幼い子どもですから、おまわりさんがいろいろたずねても、何一つはっきり答えることはできませんでしたが、片言まじりのことばを、つなぎあわせて判断してみますと、黒い怪物は、子どもをさらって、どこかさびしい広っぱへつれていき、お菓子などをあたえて、ごきげんをとりながら、名まえをたずねたらしいのですが、「木村サチ子」と、おかあさんに教えられているとおり答えますと、怪物は、きゅうにあらあらしくなって、サチ子さんをそこへすておいたまま、どこかへ行ってしまったというのでした。
どうも、前後のようすから、怪物は、人ちがいをしたとしか考えられません。だれでもいいから、子どもをさらおうというのではなくて、あるきまった人をねらって、つい人ちがいをしたらしく思われるのです。では、いったい、だれと人ちがいをしたのでしょう。
その翌日には、矢つぎばやに、またしても、こんなさわぎがおこりました。
場所はやっぱり篠崎君のおうちの前でした。こんどは夜ではなくて、まっ昼間のことですが、ちょうど門の前で、近所の四つか五つぐらいの女の子が、たったひとりで遊んでいるところへ、チンドン屋の行列が通りかかりました。
丹下左膳の扮装をして、大きな太鼓を胸にぶらさげた男を先頭に、若い洋装の女のしゃみせんひき、シルク・ハットにえんび服のビラくばり、はっぴ姿の旗持ちなどが、一列にならんで、音楽にあわせ、おしりをふりながら歩いてきます。
その行列のいちばんうしろから、白と赤とのだんだら染めのダブダブの道化服を着て、先に鈴のついたとんがり帽子をかぶり、顔には西洋人みたいな道化のお面をつけた男が、フラフラとついてきましたが、篠崎家の門前の女の子を見ますと、おどけたちょうしで、手まねきをしてみせました。
女の子は快活な性質とみえて、まねかれるままに、にこにこしながら、道化服の男のそばへかけよりました。
すると、道化服は、
「これあげましょう。」
といいながら、手に持っていた美しいあめん棒を、女の子の手ににぎらせました。
「もっと、どっさりあげますから、こちらへいらっしゃい。」
道化服はそんなことをいいながら、女の子の手を引いて、グングン歩いていきます。子どもは、美しいお菓子のほしさにつられて、手を引かれるままに、ついていくのです。
ところが、そして百メートルほども歩いたとき、道化服の男は、とつぜん、チンドン屋の列をはなれて、女の子をつれたまま、さびしい横町へまがってしまいました。チンドン屋の人たちは、べつにそれをあやしむようすもなく、まっすぐに歩いていくのです。
道化服は、横町へまがると、グングン足をはやめて、女の子を、ちかくの神社の森の中へつれこみました。
「おじちゃん、どこ行くの?」
女の子は、人影もない森の中を見まわしながら、まだ、それとも気づかず、むじゃきにたずねるのです。
「いいところです。お菓子や、お人形のどっさりある、いいところです。」
道化服の男は、東京の人ではないらしく、みょうにくせのあるなまりで、一こと一こと、くぎりながら、いいにくそうにいいました。
「お嬢さん、名まえいってごらんなさい。なんという名まえですか。」
「あたち、タアちゃんよ。」
女の子は、あどけなく答えます。
「もっとほんとうの名まえは? おとうさまの名は?」
「ミヤモトっていうの。」
「宮本? ほんとうですか、篠崎ではないのですか。」
「ちがうわ。ミヤモトよ。」
「では、さっき遊んでいたうち、お嬢さんのうちではないのですか。」
「ええ、ちがうわ。あたちのうち、もっと小さいの。」
それだけ聞くと、道化服の男は、いきなりタアちゃんの手をはなして、お面の中で、「チェッ。」と舌打ちをしました。そして、もう一こともものをいわないで、女の子を森の中へおいてけぼりにして、サッサとどこかへたちさってしまいました。
やがて、その奇妙なできごとは、タアちゃんという女の子が、泣きながら帰ってきて、母親に告げましたので、町中のうわさとなり、警察の耳にもはいりました。幼い女の子の報告ですから、森の中での問答がくわしくわかったわけではありませんが、道化服のチンドン屋が、タアちゃんをつれさろうとして、中途でよしてしまったらしいことだけは、おぼろげながらわかりました。前夜の黒い魔物と同じやり方です。いよいよ、だれかしら、五つぐらいの女の子がねらわれていることが、はっきりしてきました。
五つぐらいの女の子といえば、篠崎始君にも、ちょうどその年ごろの、かわいらしい妹があるのです。もしや怪物がねらっているのは、その篠崎家の女の子ではありますまいか、前後の事情を考えあわせると、どうもそうらしく思われるではありませんか。
隅田川だとか、上野の森だとか、東京中のどこにでも、あのぶきみな姿をあらわして、いたずらをしていた黒い影は、だんだんそのあらわれる場所をせばめてきました。
桂正一君が出あった場所といい、篠崎君の小さいいとこがさらわれた場所といい、こんどはまた、タアちゃんがつれさられようとした場所といい、みんな篠崎君のおうちを中心としているのです。
怪物の目的がなんであるかが、少しずつわかってきました。しかし、ただ子どもをさらったり、その子を人質にしてお金をゆすったりするのでしたら、何も黒い影なんかに化けて、人をおどかすことはありません。これには何か、もっともっと深いたくらみがあるのにちがいないのです。