← Library‹ 虎の牙 深夜の怪事件

一いちメートルほどの近ちかさで、おそろしい虎とらと花田はなだ少年しょうねんとは、まるで、にらめっこでもしているように、ながいあいだ、ジッと目めを見みあわせていました。

すると、じつにへんなことがおこったのです。

花田はなだ君くんは、あとになって思おもいだしてみても、どうしてあんな気持きもちになったのか、すこしもわかりません。まるで、漫画まんが映画えいがのスクリーンの中なかへ、自分じぶんのからだがスーッと、はいって行いって、自分じぶんも漫画まんがの中なかの人ひとになったような気持きもちでした。

窓まどの外そとの虎とらが、口くちをきいたわけではないのですが、口くちをきいているのとおなじように、虎とらの考かんがえていることが、花田はなだ君くんの心こころに、はいって来きたのです。

「わしは、きみを、これからおもしろいところへ、つれて行いってやる。さあ、この窓まどをあけて、出でて来きたまえ。」

虎とらがそう言いっているように、ハッキリ感かんじられたのです。花田はなだ君くんは、それでも、窓まどのガラス戸とをひらこうなどとは思おもわなかったのに、何なんか、どうすることもできない力ちからが、花田はなだ君くんの手てを、ひとりでに動うごかして、いつのまにか、ガラス戸とをひらいていました。

「外出がいしゅつするんだから、服ふくを着きかえるがいい。」

虎とらがまたそう言いったように、感かんじられました。あのおそろしかった虎とらの顔かおが、にわかにやさしくなったようで、もうすこしもこわくはありません。花田はなだ君くんは、大おおいそぎで、洋服ようふくを着きて、帽子ぼうしをかむりました。そして、フラフラと窓まどのところへ行いくと、外そとから虎とらが二に本ほんの前足まえあしで、花田はなだ君くんを、抱だきかかえるように、むかえてくれました。

「クツはいいんだよ。わしの背中せなかへ、のせてやるからね。」

虎とらがそう言いったように思おもうと、いつのまにか、花田はなだ君くんは、大おおきな虎とらの背中せなかに、馬うまのりになっていました。虎とらは、かわいい少年しょうねんを背中せなかにのせたまま、ひらいた裏うら木戸きどから外そとに出でて、月光げっこうにてらされた、深夜しんやの町まちを、近ちかくの大通おおどおりのほうへと、ノッシノッシと歩あるいて行いきました。

これは、いったい、どうしたことでしょう。東京とうきょうの町中まちなかへ、虎とらがあらわれるというのも、まるでうそのような話はなしですが、そのうえ、ひとりの少年しょうねんがその虎とらにまたがって、真ま夜中よなかとはいえ、町まちの中なかをノコノコ歩あるいているなんて、まったく信しんじられないことです。

しかし、花田はなだ君くんは、夢ゆめを見みていたのではありません。これはじっさいにおこったことなのです。いくら信しんじがたくても、それは事実じじつだったのです。そのわけは、ずっとあとになって、わかります。

虎とらにまたがった花田はなだ少年しょうねんは、まるで、猛獣もうじゅう国こくを征服せいふくした王者おうじゃのように見みえました。しかし、花田はなだ君くんは、そのとき、いばっていたわけではありません。いばるどころか、まるでむがむちゅうでした。猛獣もうじゅうが人間にんげんに催眠さいみん術じゅつをかけることができるとすれば、花田はなだ君くんは、この催眠さいみん術じゅつにかかっていたのです。花田はなだ君くんの目めは、まるで夢遊むゆう病者びょうしゃのように、うつろだったのです。

虎とらは、やがて、大通おおどおりへ出でました。もう二に時じごろでしょうか、昼間ひるまはにぎやかな大通おおどおりも、いまは人影ひとかげもなく、さばくのように、さびしいのです。向むこうの電柱でんちゅうのそばに、一いち台だいの自動じどう車しゃが、ヘッド・ライトを消けして、黒くろい怪物かいぶつのように、とまっています。虎とらはその自動じどう車しゃのほうへ歩あるいて行いくのです。

とつぜん、ごく近ちかくから、「キャーッ。」という悲鳴ひめいが、しずまりかえった深夜しんやの町まちに、ひびきわたりました。そして、自動じどう車しゃとはんたいがわの、月光げっこうのささない、のき下したを、黒くろい人影ひとかげが、死しにものぐるいに、かけだしているのが見みえました。

この真ま夜中よなかに、急きゅうな用事ようじでもあったのか、そこをひとりの女おんなの人ひとが通かよっていたのです。そして、少年しょうねんを乗のせた虎とらの姿すがたを見みると、いきなり悲鳴ひめいをあげて、かけだしたのです。

すぐ向むこうに交番こうばんがあります。女おんなの人ひとはそのほうへ走はしっています。いまにも、おまわりさんが、ピストルを持もって、かけつけるかもしれません。また、悲鳴ひめいを聞きいた商家しょうかなどでは、表戸おもてどをゴトゴトさせています。いまにも、町まちの家々いえいえから、大おおぜいの人ひとが飛とびだしてくるかもしれません。

しかし、虎とらは、そんなことを、どこふく風かぜと、おちつきはらって、自動じどう車しゃに近ちかづき、前足まえあしで、その車体しゃたいをコツコツとたたきました。

すると、自動じどう車しゃの戸とがひらいて、運転うんてん手しゅが出でてきましたが、猛虎もうこの姿すがたを見みて、アッと腰こしをぬかすかと思おもいのほか、すこしもおどろくようすはなく、しずかに座席ざせきの戸とをひらいて、さあ、どうぞ、お乗のりくださいという、かっこうをして見みせました。

夢遊むゆう病者びょうしゃのようになった、花田はなだ君くんは、運転うんてん手しゅにおされて、車くるまの中なかへはいりました。ところが、おどろいたことに、花田はなだ君くんのあとから大おおきなずうたいの虎とらが、ノコノコはいって来きて、花田はなだ君くんとならんで、まるで人間にんげんのように、クッションに腰こしをおろしたではありませんか。

猛獣もうじゅうが自動じどう車しゃに乗のるなんて、話はなしに聞きいたこともありません。しかし、ほんとうに乗のったのです。すると、車くるまはガクンとひとゆれして、おそろしい速度そくどで走はしりだしました。おまわりさんも、町まちの人ひとも、もうとても、追おっかけることはできません。

虎とらはゆったりクッションにもたれ、花田はなだ少年しょうねんの肩かたに前足まえあしをかけて、その顔かおをのぞきこむようにしていました。なにか話はなしかけているようなかたちです。花田はなだ君くんは、それにさからう元気げんきもなく、夢ゆめでも見みているような顔かおで、ジッとしています。すると、虎とらのもう一ひとつの前足まえあしが、花田はなだ君くんの目めの前まえに、グーッとせまって来きました。そして、つめたい綿わたのようなものが、花田はなだ君くんの鼻はなと口くちをおさえました。

息いきぐるしいので、それをはねのけようと、もがいているうちに、だんだん気きが遠とおくなっていき、やがて、花田はなだ君くんは、ふしぎなねむりにおちてしまいました。

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