それから、大さわぎになって、恩田さんは、このことを警察に知らせ、家の回りを、見張ってもらうようにしましたが、その晩の夜ふけに、章太郎君の寝室に、またしても、恐ろしいことが起こりました。
その部屋は、章太郎君の勉強部屋と寝室をかねていて、一方の窓ぎわには勉強机や本箱があり、別のすみに、ベッドが置いてあるのです。
章太郎君は九時ごろに、ベッドにはいりましたが、さっきのことが、恐ろしくて、なかなか眠れません。ながい間、もじもじしていましたが、やがて、うとうとしたかとおもうと、こわい夢を見て、はっと目がさめるのです。
そうして、何度めかに目をさましたときです。ベッドから正面に見えている、勉強机の向こうの窓の花模様のカーテンが、フワッと動いたような気がしました。
オヤッと思って、目をまんまるにして、その方を、見つめました。
机の上には、置時計と、きれいな花を生けたむらさき色のガラスの花びん、筆立てなどが置いてあります。その置時計の針は、もう十時半をさしていました。
見ていると、ガラスの花びんが、じりっと、動きました。だれかが、手で動かしたような感じです。ギョッとして、目がそこへくぎづけになってしまいました。
すると、ああ、やっぱりそうです。花びんがスーッと、こちらへ、動いてくるではありませんか。
そして、机の端まできましたが、まだ止まりません。そのまま、こちらへ進んで、机を離れても、下へ落ちもしないで、空中に浮いているのです。
章太郎君はベッドの中で、からだがしびれたようになって、動くことができなくなりました。目をほかに向けようとしても、向けられないのです。
花びんは、机を離れて宙に浮いたまま、しばらくユラユラとゆれていましたが、やがて、だれかに持ち上げられるように、ツーッと上の方へ、のぼってきました。そして、その空中で、フワフワと左右に動いているのです。
ちょうど、そこに、おとなの人がいて、花びんを胸のへんまで、持ち上げたぐらいの高さです。
章太郎君は、その人間の姿が、うっすらと見えるような気がしました。透き通っているけれども、なにかモヤモヤした、水でできた人間のような姿です。
花びんは、またスーッと下におり、机の上の、もとの場所にもどって、動かなくなりました。しかし、目に見えない人間は、まだそのへんにいるらしいのです。
すると、どこからか、一本の巻きタバコが、現われて、空中で横になったまま、じっとしています。目に見えないやつが、口にくわえているかっこうです。
そのタバコには、いつのまにか、火がついていました。そして、その赤い火が、ほたるのように、パッパッと、光ったり、うすくなったりして、そのたびに、空中から、スーッと、白い煙が、吐き出されるのです。
しばらくすると、人間の顔の高さのへんが、白い煙で、いっぱいになりました。
じつに、なんとも言えない、無気味なありさまです。だれもいないのに、タバコだけが、吸われて、煙が吐き出されているのです。
二分間ほど、タバコは吸いつづけられていましたが、やがて、スーッと、どこかへ消えてしまいました。
しかし、目に見えないやつは、まだ部屋の中にいます。じっと、そこに立って、章太郎君の方を、にらみつけているような気がします。水のようにモヤモヤした姿が、じりじりと、こちらへ、近づいてくるように思われるのです。
章太郎君は、助けをもとめようとしましたが、口が動かなくなってしまって、声を出すことができません。
もがきにもがいて、やっと、かすれた叫び声をたてました。
「た、助けてくれえ……。」
すると、その声に驚いたのか、目に見えないやつは、ドアをあけて、部屋の外へ出ていってしまいました。ドアが、ひとりでにスーッと開いて、また、もとの通りにしまったのです。
まもなく、だれかが、廊下をバタバタと、走ってきて、いきなりドアを開き、部屋の中にとびこんで来ました。
家庭教師の山口さんです。
「章ちゃん、どうしたの、いま叫んだのは、きみでしょう。」
章太郎君は、まっさおな顔で、口をモグモグやるばかりで、なかなかものが言えません。しかしやっと、とぎれとぎれに、いまのふしぎなできごとを、話し出しました。
「ふうん、やっぱり、あいつ、しのびこんで来やがったな。ぼくはあいつと廊下ですれちがったかもしれないんだね。」
山口さんは、恩田さんに知らせると言って、そのまま、部屋をとび出して行きました。
またもや、うちじゅうが大さわぎです。女中さんたちもみんな起きてきて、ふるえています。
恩田さんは、すぐに警察へ電話をかけました。警察からは、ふたりの刑事さんが、やって来て、うちの中を調べてくれましたが、なにしろ、あいては目に見えないやつですから、どうすることもできません。戸締まりを厳重にするようにと言って、帰って行きました。