島村冬彦が伊東夏子を初めて写真に撮ったのは、彼が高校生になってひと月後、五月の最初の日曜日の午後だった。買ってもらったばかりの、そして高校の三年間ずっと愛用することとなった写真機を持って、彼は外出した。一軒おいて右隣りに、夏子が両親と住んでいる家があった。渡り廊下でつながった離れが庭にある、二階建ての家だ。その家の前を冬彦がとおりかかると、門とは別にある通用ドアを開けて、夏子が外へ出てくるところだった。冬彦は彼女に挨拶し、夏子は笑顔で応えた。
「私は下北沢の駅まで歩くの」
夏子が言った。
「僕もです」
冬彦が答えた。彼にとっての目的地は、かならずしも下北沢の駅ではなくてもよかった。ふたりは肩をならべて住宅地のなかを歩いていった。冬彦は幼い頃から夏子を知っていた。冬彦という自分の名に対して彼女が夏子であることが、小学校に入った頃の彼にとって、彼女の印象とひとつに重なった。ふたりが歩いていく道は、ごくゆるやかな登り坂だった。
「高校生になったのですって?」
夏子が聞いた。
「そうです」
「早いわねえ」
心からの感慨を込めて、夏子はそう言った。
「私はあなたを小さい頃から知ってるのよ。私が夏子であなたが冬彦ちゃんだから、面白いなと思ったのがいつだったかしら。もうずいぶん前のこと」
「僕は今の家で生まれたのです」
「小さな三輪車で遊んでたわ」
「この道です」
「そうよ、この道。向こうからあなたが三輪車で下ってくるの。下り坂だから、ペダルをこがなくてもいいのよ」
ふたりの家の前を通過して、坂道を下りきると、もっと急な坂道と直角に交差する。左に向けて降りていく急な坂だ。
「あなたが向こうの坂道へ出ていかないように、私があそこに立っててあげたの」
振り返ってその場所を示す夏子を、冬彦は至近距離から見た。きれいな人だ、と彼は思った。美しさの内部には、ありとあらゆる聡明さや怜悧さがそなわっている印象があった。もっとも基本になる彼女の印象は、静かな人だった。その静かさを土台にして、端正さや明るい華やぎ、優しい丁寧さなどが、なんの無理もなしに常に一定の振幅で維持されていた。
「三輪車の止め方も、教えてあげたわ」
「覚えてます」
「靴で路面をこすって止まろうとすると、靴が脱げるのよ」
「あの三輪車は、いまでも物置のなかにあります」
「もう高校生になったのね」
「そうです」
「早いわ。早いと言えば、私は二十一歳になったの」
「そうですか」
「今日が誕生日なのよ」
夏子の言葉を受けとめ、しばらく考えてから、冬彦は言った。
「写真を撮らせてください」
「私の?」
「記念写真です。二十一歳の誕生日の」
「撮ってくれるの?」
「撮らせてください」
「うれしいわ。あなたがいつも写真機を持っていることも、私は知ってるのよ」
住宅地のなかの道をふたりは歩いていた。道の片側は邸宅の庭を縁取る生け垣だ。冬彦は何メートルか前へ歩いた。そしてそこに立ちどまり、ファインダー越しに夏子を見た。晴れた五月の日の陽ざしは、夏子にとって順光だった。
「歩いて来てください」
歩いて来る夏子を三ショット、冬彦は撮った。三ショットめはしゃがんで低い位置から撮った。
歩み寄ってかたわらに立ちどまった夏子に、道に面して庭のある家を冬彦は示した。
「高校でおなじクラスの、ヨシオという友だちの家です。庭で撮らせてもらおうかな。時間はありますか」
「だいじょうぶよ」
黒く塗った鉄パイプで作ったごく簡単な門は、左右に大きく開いてあった。なにもないおおざっぱな庭に、デソートのセダンが一台、斜めに停まっていた。その向こうに、平たい屋根の平屋建ての家があった。ふたりは庭に入った。
「いるかな。聞いて来ます」
そう言って冬彦は玄関へ歩いた。彼はブザーのボタンを押した。すぐに内側からドアが開いた。なかにいる人と短く言葉を交わしてから、冬彦は夏子のところへ戻って来た。玄関のドアは閉じた。
「ヨシオはいなくて、お母さんがいました。庭で写真を撮ってもいいそうです」
デソートを背景にして、冬彦は構図を作ってみた。ごく自然に、夏子はポーズを取った。何枚か撮ったあと、冬彦は運転席のドアを開いた。
「なかに入ってみてください」
冬彦にそう言われて、夏子は運転席に入った。夏子と運転席のよく調和する様子に触発され、彼はさらに何枚か撮った。彼女が運転席から出て来るところを、低い位置から彼は写真におさめた。開いたままのドアのかたわらに立ち、ふたりはデソートの運転席を見た。
「私は運転免許を取ったのよ」
夏子が言った。
「運転してみたいわ」
「させてくれますよ。今度、頼んでみます」
冬彦は運転席のドアを閉じた。デソートの前でさらに一枚だけ撮り、ふたりはヨシオの家の庭を出た。下北沢の駅に向けて、ふたりは歩いた。
「私は代々木上原までいくの」
夏子が言った。
「ピアノを教えに。四歳の女の子。日曜日だからお父さんもいっしょに習うの。だから今日は、ふたりに教えるのよ」
駅の南口までいき、
「写真が出来たらちょうだいね」
と夏子は言い、階段を上がっていった。そのうしろ姿の良さを、一枚だけ冬彦は写真に撮った。そして彼はそこから代沢を経由して三軒茶屋まで歩いた。三軒茶屋では写真を撮って一時間ほど過ごし、若林まで歩き、そこから玉電に乗った。豪徳寺までいって玉電を降り、ひとしきり歩きまわって写真を撮ったあと、ふたたび彼は玉電に乗った。終点の下高井戸までいき、そこでも写真を撮り、明大前を経由して井の頭線で下北沢まで戻った。夕方になる前に自宅に帰り、冬彦は撮影したばかりの何本かのフィルムを自分で現像した。彼の部屋の北側に物置があり、そこは暗室に改造してあった。そして夕食のあと、彼は印画紙にプリントする作業をおこなった。