十月に入ってから夏子は冬彦に頼みごとをひとつした。友人が見合いをすることになり、先方に渡す写真が必要になった。気楽なスナップ写真を自分のアルバムから探したけれど、いいのがない。五、六枚取ってほしいと言っているけれど、引き受けてもらえないか、という頼みだった。冬彦は引き受けた。十月初旬の土曜日の午後を使って、冬彦は夏子が連れて来たその女性を、何枚ものスナップ写真に撮った。出来上がった写真は夏子を経由してその女性に渡った。彼女はとても喜んでいた、と夏子は冬彦に伝えた。
なかばにはピアノの発表会があった。夏子が教えている女の子たち五人の発表会だ。彼女たちの親のひとりが、成城学園の教会を会場として借りる話を取り付けた。その発表会に冬彦も出席した。参加者たち全員の写真を、場面ごとにまんべんなく撮る写真家の役を、彼は引き受けることとなった。五人の小さな女の子たち、それに彼女たちの両親や兄弟そして姉妹たちなどが集まり、会場はかなりにぎやかになった。祭壇の前にグランド・ピアノが出してあり、そのピアノを大きく半円形に囲んで、出席者たちのための席が作ってあった。
子どもたちの世話をしているドレス姿の夏子は、冬彦にとって新しく発見する魅力だった。独奏を披露する前の女の子たちを、夏子はひとりずつ巧みに落ちつかせていた。女の子たちの誰もが、夏子を信頼していた。発表にはさまざまな形式があった。ぜんたいは学芸会の劇を音楽を中心にして組み立てたような雰囲気で、参加者たちは楽しそうに興じた。夏子の両親も見に来ていた。冬彦は忙しく写真を撮った。
発表がひととおり終わると、先生も弾いてください、と女の子たちが希望した。親たちの拍手がごく自然に重なり、夏子はピアノまで出ていった。ストゥールにすわって参加者たちをひとわたり笑顔で見渡し、いきなり弾き始めた。冬彦は題名など知らないし、幼い娘たちといっしょに来たどの親も知らないはずだが、『ストンピング・アット・ザ・サヴォイ』に『プア・バタフライ』そして『アフタ・ユーヴ・ゴーン』の三曲を、夏子は続けて弾いた。女の子たちが弾いた練習曲とはまるで異なった世界が、夏子の両手の指から始まってピアノを経由して、会場に解き放たれた。夏子が体の底で感じている音楽がそのままに表現されたものだ、と冬彦は判断した。誘ったのだが来ることの出来なかったヨシオに、これはぜひ聴かせたかった、と冬彦は思った。夏子が弾き終わり、盛大な拍手があった。
夏子は簡単に挨拶し、発表会はそこで終わりとなった。あとはお茶とお菓子で歓談だ。それも終わると、親たちは会場の整理を手伝い、帰っていった。最後には夏子と冬彦のふたりが残った。いっしょに教会を出て駅まで歩いた。駅に入ってプラットフォームへ降りていき、ベンチにならんですわった。
「疲れたでしょう」
楽しそうな笑顔で、夏子は冬彦に言った。
「ピアノがうまいのですね」
「たいしたことないのよ」
「ジャズですか」
「そうね。私ふうのジャズかしら。トレーニングを受けたのはクラシカル・ピアノだけど、自分で弾くならジャズかな、と思ってるところよ」
「女の子たちが、あとで真似して遊んでいましたね。足でリズムを取るところなど」
「写真はうまく撮れた?」
「撮れました」
「プリントするのが大変ね」
「ピアノを弾いているところを、撮らせてください」
「撮って。あの防音の離れへ、私のジャズを聴きに来て」
「いつですか」
「いつでもいいわ。たとえば、今度の土曜日。午後から。三時に最初の女の子が来るから、それまでなら。そして、よかったら夜でも」
夏子が言ったとおり、次の土曜日の午後一時過ぎに、冬彦はヨシオとともに夏子の家へいった。玄関に出て来た夏子は、ふたりを庭から離れへ招き入れた。ふたりがその離れにいたあいだずっと、夏子はピアノでジャズを弾きとおした。続けて何曲でも弾いた。ヨシオは壁にもたれて聴いていた。冬彦はピアノを弾く夏子を写真に撮った。夏子のピアノに圧倒されたまま、ふたりは三時前に夏子の家を出た。
ヨシオの家の方向に向けて、ふたりは歩いた。家の建物が取り壊され、玄関への石段だけが残っている敷地の前を、ふたりはとおりかかった。ヨシオはその石段にすわった。
「まいったなあ」
と、ヨシオは言った。夏子のピアノに対する、ヨシオなりの感嘆の表現だった。
「どうしたんだ」
立っている冬彦が聞いた。しばらく黙っていたヨシオは、やがてゆっくりと首を左右に振った。そして、
「ふたたび水着だ。それしかない」
と言った。
「どういう意味だい」
冬彦が聞いた。
「水着でピアノを弾いているところを撮れ」
顎に片手を当て、地面に視線を伏せて、冬彦は考えた。
「夏の写真を早くくれよ」
思案している冬彦を見上げて、ヨシオが言った。
「ぜんぶ出来てる。家にあるから、いま渡すよ。いこう」
促されて、ヨシオは立ち上がった。
夏子の家の前を歩き、ふたりは冬彦の家まで戻った。冬彦は家のなかへ入っていき、ヨシオは外で待った。冬彦はすぐに出て来た。ふくらんだ大きな封筒を冬彦はヨシオに渡した。夏にハリー中村の自宅のプールで撮った写真のすべてだ。
自宅に帰って、ヨシオはその写真を見た。自分が指定したポーズやアングルの写真が、狙いどおりに撮れているかどうかを彼は確認した。冬彦の理解度は鋭く高いことを、ヨシオは認識した。だから彼は、写真の出来ばえに満足した。自分がセルフ・タイマーをかけてプールに飛び込んだ写真では、ほかの四人の誰もがプールに顔を向け、しかも全員が笑っていた。
冬が来て、春になった。夏子は大学の四年生、そして冬彦とヨシオは、おなじクラスのまま、ともに高校の二年生に進級した。夏子の二十二歳の誕生日に、冬彦は彼女の写真を撮った。昨年の誕生日から始まったこの一年間の夏子の写真が、早くもたいへんな量になっていることを冬彦は自覚した。