その年の暮れに近い寒い日の夜、島村冬彦はヨシオがひとりで住んでいるアパートメントの部屋を訪ねて来た。ダッフル・コートを着た彼は、手さげ式のふくらんだポートフォリオに、いつものとおりカメラを肩から掛けていた。居間には大きな電気ストーヴが二台あり、外から入って来た島村にとっては、ことのほか暖かだった。ヨシオは島村の好きな熱いココアをマグ一杯に作って、キチンから持って来た。
ふたりはソファにならんですわった。ポートフォリオとカメラを、島村はテーブルに置いた。島村は日比谷優子についての話をした。
「今日の午後、撮影所で優子さんに会って来た。複写したアルバムと、いつも彼女が持ち歩いている、あのお母さんの写真のネガを、返却して来た。なくしたら大変だからね。アルバムの複写は、ふた組プリントした。ここに入ってる」
と、島村はふくらんでいるポートフォリオに片手を置いた。
「ひと組はヨシオにあげるよ」
ヨシオはうなずいた。ヨシオと島村、そして日比谷優子の三人は、高校三年生のときおなじクラスだった。
「じつにさばさばした、あけっぴろげの女性だね。僕はそういう印象を受けた。クラスでいっしょとは言っても、あまり口をきいた記憶はないなあ。彼女もそう言っていた。でも、当時のスナップ写真は、撮ってあるよ」
「どのくらい?」
「クラスの誰をも、平均して二十枚は撮っている。優子さんのスナップは二十六枚あった。それもあらたに焼いて来た。いっしょにここに入ってる。そちらのほうも、ひと組、ヨシオにあげる」
両手のなかにマグを持ち、島村はココアを飲んだ。楽しそうにひとしきり飲んでから、彼はヨシオに顔を向けた。
「優子さんを二十六歳まで写真に撮り続けて、一冊の本を作る話を伝えておいた。面白がってたよ。ぜひ実現させましょう、と言っていた」
「彼女のデビュー映画をめぐる写真集も、作れるね」
ヨシオに言葉に、島村はマグに唇をつけたままうなずいた。
「シナリオはもう出来るんだって。いまはいろいろと準備中で、年が明けたらすぐに撮影に入る予定だと言ってた。公開は五月。ひとまわり年上のスター女優と、対等にからむ役だそうだ。主役だと言っていい。会社は期待している。次の時代のスターになれるのではないか、という気がして来た」
「なれるよ」
「高校の頃にくらべると、たいへんな大人の女性になっていて、磨きがかかったね。僕なんか、思わず敬語を使ってしまった。デビュー作の監督に会ったよ。たまたま彼女の会社を訪ねて、彼女を見初めた人。デビュー作の撮影プロセスのすべてを撮影させてくださいとお願いして、承諾を得た。どの現場にも、自由に出入り出来ることになった。スティルはその監督の班に専任の人がいるし、宣伝用の写真を撮る人は、また別にいる。僕は日比谷優子が個人的に雇った、個人用の写真屋だね」
「デビュー作を製作していくプロセスの写真だけで、まず一冊の本が出来るかもしれない」
「出来るよ。そのつもりで撮る。優子さんのお母さんのことも、伝えておいた。熱心に賛成してたよ。協力は惜しまないって」
女優になる決意を優子から聞かされたあの日曜日の夜、考えごとをしていたヨシオは、ひとつの思いつきを得た。日比谷優子の母親の足跡をたどりなおすと興味深いのではないか、という思いつきだ。その思いつきを、優子に会うという島村から、伝えてもらった。
「探偵みたいな気持ちになって面白いだろうけれど、なにしろ一九一一年の生まれだから、遠いよね」
「確かに、遠い。歴史年表を見たけれど、なにも知らないし、わからないよ。一九〇四年に日露戦争が始まっている。日本の外に向かって、主として武力によって、日本が自らを拡張させようとしていた時代だ。優子のお母さんが生まれた次の年、一九一二年の七月三十日から、時代は大正となった。大正生まれという言葉があるけれど、それよりも前なんだ」
ヨシオの意見に、島村はうなずいて賛同した。ヨシオは続けた。
「優子さんの母親が二十歳だったとき、時代は一九三一年だ。この年に満州事変が始まっている。そして次の年には、満州国建国の宣言というものを、日本国家はおこなった。満州国というものを勝手に想定して、自らの利権の下に置こうとした」
「時代を勉強するだけでも、たいへんだね」
「しかも、スタートは九州の唐津だ」
「お母さんの両親は、唐津で健在なんだよ。お母さんのお母さん、つまり優子さんから見るとお祖母さんになるその人は、一八九〇年生まれだ」
「いまちょうど七十歳か。来年すぐにも、僕は唐津へいってみる」
ヨシオはそう言い、島村はポートフォリオを開いた。優子が持ち歩いている母親の写真の、おなじプリントを何枚か、島村はポートフォリオから取り出した。それをテーブルの上で横に並べ、島村は観察した。
「オリジナルのプリントの裏には、二十六歳、と書いてあるんだそうだ。確かに二十六歳だったのだろう、と僕は思う。そしてそれは、一九三七年のことだからね。いまから二十三年も前でこの姿なのだから、当時としてはおそろしく洒落た女性だったと言っていい。当時の最先端だよ」
「いまでも最先端の人として通用する」
「結婚する前は、日本橋の百貨店の店員をしていたのだって」
「評判の美人店員」
というヨシオの言葉に、島村はうなずいた。そしてポートフォリオのなかから、茶色の封筒を取り出した。
「これが、優子さんが持っている母親の写真の、すべてのコピー。アルバムのページごとに複写してプリントした。ひと組はヨシオにあげる。太陽光の直射のなかで複写した。写真は黒い台紙に貼ってあり、コーナーやプリント自体の影が出来て、いい雰囲気になった。裏に番号が書いてあって、その番号順に、別の紙に優子さんが説明を書いてくれた。その紙も、いっしょに入れてある」
ふくらんでいるその封筒を、ヨシオは島村から受け取った。
「優子さんのお父さんにヨシオが会うための手はずは、整えておくと優子さんは言っていた。父親の再婚相手と、優子さんは仲が良くないんだよ。父親はそれが気にいらなくて、私に対してことさらに冷たい態度を取っている、と優子さんは言っていた。でも、充分に協力はしてくれるはずだって」
「話を聞いて、文章にまとめる」
「たいへんだね」
「楽しいよ。会って話を聞かせてもらったすべての人について、その話を文章にまとめていく」
そう言って、ヨシオは優子の母親の写真を示した。
「二十六歳でその写真に撮られるまでに、二十六年という時間が、過去に向けてのびてつながっている。その時間を、いまから逆に、たどりなおす。彼女をかつて知っていた人たちは、その時間のなかでのひとつひとつの点だ」
「大学の勉強は?」
島村の質問に、
「そんなもの、ほっておけばいい」
と、ヨシオは答えた。
「落第するよ」
「たまたま試験を受けたら合格しただけの大学だから。卒業したって会社の新入社員になる資格が手に入るだけなのだし」
「優子さんは、いまひとりで住んでいるところを引き払って、どこかへ移りたいと言っていた。このアパートメントのことを、提案しておいた」
「うまく部屋が空くといいな。ここを空けてもいい」
「きっと喜ぶよ。高木節子さん。伊東夏子さん。そして、日比谷優子さん。ひとまずは、美人たちをめぐる青春なのかな」
笑顔で島村はそう言い、ヨシオはなにも返事をせずにいた。