雨の日の木曜日、三時間めの授業を欠席にしたヨシオは、校内のパン店にいた。昼食のサンドイッチといつものカレーパン、そしてコーヒー牛乳を前にして、彼は店の奥の食べるためのスペースでストゥールにすわっていた。
高木節子が入って来た。彼女も昼食のパンと飲み物を持っていた。ヨシオのところまで来て、持っていたものをテーブルに置いた。そしてスカートを広げ、ヨシオと差し向かいにストゥールにすわった。
「お昼の時間になると、あなたが来るのを待っている自分に気がつくのよ」
美しい笑顔でヨシオを見て、節子は言った。
「さあ、今日もいっしょに、食べましょう」
「その前に」
と、ヨシオは言った。
「その前にどうしたの?」
節子は聞き返した。
ジャケットのポケットから、イアリングの入った箱の包みをヨシオは取り出した。節子に向けて差し出し、
「これを、あげます」
と、彼はいった。
「私に?」
「そうです」
「なになの?」
「節子さんはたいへんにきれいな人です。これがよく似合うはずですから、差し上げます」
「いったい、なにがどうしたの?」
囁くような声で、節子は聞いた。年下の高校三年生を相手に、目の前の出来事に対して彼女は純粋に夢中になっていた。
「私に?」
「開いて、見てください」
節子は包みを手に取った。
「きれいな紙。開くのはもったいないわ」
掌に載せていくつかの方向から観察したのち、節子は包みを開いていった。ヴェルヴェットを張った小さな横長の箱があらわれた。箱を彼女は開いた。なかにあるものをしばらく眺めてから、彼女は顔を上げた。
「イアリング?」
と、彼女は聞いた。イアリングという言葉の、最後のグという音がそのまま疑問形になっている様子を、ヨシオは面白いと思った。彼は微笑した。
「きれいだわ。これは、ほんとにきれいよ」
節子はイアリングに視線を落とした。ひとつをはずして指先に持ち、箱をテーブルに置いた。節子のきれいな指が、イアリングを丁寧に扱う様子をヨシオは見た。
「私は装身具をつけたことがないのよ」
節子が言った。
「スカーフすら持ってないの。指輪はしたことないし、ネックレスも持ってないし」
「あげます」
「私に?」
ヨシオはうなずいた。
「なぜ?」
「似合うはずだからです」
節子はイアリングのねじをまわし、間隔を広げた。左の耳へ持っていき、目を伏せ、両手の指先で見当をつけながら、それを彼女は耳たぶに取りつけた。節子は、ほんの一瞬、見てはいけない秘めごとのなかの女性だった。右の耳にも、彼女はイアリングをつけた。耳を出す作りの髪を両手の指先でうしろへまわし、手をテーブルに降ろし、彼女は首を振った。両手の指先をごく軽く左右のイアリングに触れさせ、もう一度、彼女は首を振った。
「揺れてるわ」
節子は囁いた。
「よく似合います」
ヨシオが言った。まさにそのとおりだった。赤く華やかな、しかし端正に身を引き締めた造形のそのイアリングによって、節子の美しさは何倍にも増幅されていた。
「イアリングをつけるのは初めてなのよ。いまの私は、どんなふうに見えてるの?」
途方に暮れたように甘くそう言った節子は、
「わかったわ。あそこにいけばいいのよ」
と言い、ストゥールから立ち上がった。
「いっしょに来て」
彼女はヨシオに手を指しのべた。ヨシオもストゥールを立ち、ふたりは店を出た。校舎の正面玄関へ、ふたりはまわっていった。玄関を入るとロビーがあり、いっぽうの壁に大きな横長の鏡が取りつけてあった。卒業生たちが寄付したものだ。創立何周年記念の金文字が鏡の縁に読めた。ヨシオの手をとってその鏡の前へいき、節子は鏡に向かって立った。
鏡のなかの自分を節子は観察した。二歩、彼女は鏡に接近した。そして一歩下がり、顔を右に向け、左に向け、真剣に自分の観察を続けた。鏡のなかの節子の全身をヨシオは見た。これだけの美人が、なぜ私立高校で生徒たちを相手にパンを売っていなければならないのか。そのことの不思議さのすぐかたわらに、自分がいることの奇妙さをヨシオは受けとめた。
「イアリングをつけるのは、初めてよ」
節子は言った。
「似合う?」
「よく似合います」
「揺れる感触が素敵。慣れたら癖になりそう」
「慣れてください」
ふたりは店に戻った。さきほどの場所にふたたび差し向かいにすわり、節子は片方だけイアリングをはずした。指先に持ち、彼女はそれを観察した。
「よく出来てるわ。とってもきれい。高かったでしょう」
「半値にしてくれました。両親がよく知っている人の店です」
「それでも高かったでしょう。そのお店はどこにあるの?」
「日比谷です」
「教えて」
「いっしょにいきましょう」
節子はイアリングを耳につけた。
「もう癖になったわ」
両手を頬に当て、節子は顔をゆっくり左右に振った。
「うれしい。お昼を食べましょう。授業はもうじき終わるわ」
ふたりで昼食を食べた。食べ終わると同時に、授業の終わりのベルが鳴った。そしてすぐに、生徒たちがパンを買いに来た。
午後からの最初の授業は国語だった。先生が語ることを、ヨシオは自分の席で聞くともなく聞いていた。授業が半分ほど経過してから、教室の教壇側のドアにノックがあった。
「はいよ」
とひとり言のように言った先生はドアへ歩いた。先生はドアを開いた。ヨシオの位置から節子の姿が少しだけ見えた。節子は低い声で先生になにか丁寧に言っていた。
「はい、わかりました」
と先生は言い、振り返ってクラスを見渡し、ヨシオを視線でとらえた。
「美人が急ぎの用だそうだ」
と先生は言った。
ヨシオは立ち上がり、教室のうしろのドアに向けて歩いた。先生はドアを閉じ、教壇へ戻った。ヨシオは教室の外へ出た。いまにも泣きそうな顔で、節子が歩み寄って来た。ヨシオの手を取り、
「お店まで来て」
と、彼女は言った。廊下の端にあるドアへ節子は彼を導いた。そのドアからふたりは校舎の外の遊歩道に出た。そこを売店のある一角へ向けて歩いた。
店の裏にある食べるためのスペースに入って、節子はドアを閉じた。ロックをかけて外からは開かないようにし、ヨシオに向きなおって彼の両手を取った。節子は泣いていた。
「ひとりでここにいたら、涙が出て来たの。ひとりで泣くのは嫌だから、いまはこうしてふたりなのよ」
節子はヨシオを抱いた。両腕いっぱいに彼を深く抱き込み、体を親密に重ね、涙に濡れた頬を彼女はヨシオの頬につけた。そして節子は彼の唇をとらえ、口づけをした。ヨシオは応えるほかなく、しばらくそれは続いた。ごく素直な反射として節子の舌はヨシオの口のなかに入り、彼は節子の涙とともに彼女の舌も口のなかに受けとめた。張りのある若さに包まれた、優しい許容力の奥行きが節子の魅力だ。その魅力は、彼女の体にも、そのまま存在していた。いま自分を抱き、自分も抱き返している節子の体の量感のなかに、自分を引き込んでやまない迷路をヨシオは感じた。
唇が離れて、節子は囁いた。
「こういうことは、初めて?」
ヨシオはうなずいた。
「ほんと?」
いっさいの作為を抜きにして底なしに甘く、節子は聞き返した。
「ほんとです」
「女の人とキッスするの、ほんとに初めて?」
「初めてです」
「よかったわ」
そう言って節子は彼を抱きなおした。ふたりの唇がふたたび重なった。節子の引き締まった胴から背中へ、そして肩へ、ヨシオの手は移動した。彼の手はさらに肩から節子のうなじへいき、髪をくぐって彼女の後頭部をとらえた。彼の両手の親指のつけ根あたりに、節子の左右の耳に下がるイアリングが、同時に、ごく軽く、触れた。