梅雨に入る前に、校内のパン店から高木節子はいなくなった。ある日、彼女の代わりに、四十代の女性が店にいた。そしてそのまま節子は戻っては来なかった。いなくなって一週間後に、ヨシオは学校の帰りに下北沢で節子と偶然に会った。彼女に誘われて喫茶店に入った。地下一階から三階にかけて、中間的なフロアのたくさんある店だった。何階とも言いがたいフロアの、窓辺の席でふたりは向かい合った。ふたりともソーダ水を注文した。
「パンのお店は辞めたのよ」
節子が言った。
「美容院で仕事をすることになったの。このすぐ近く。あなたは下北沢に住んでるから、会えるかなと思ってたらそのとおりになったわ。手紙を書こうかな、とも思ってたの。さほど遠くもないけれど近くもない親戚の人が経営している美容院なの。女は手に職を持たなくてはいけない、と店主が言うのよ。女性の店主。その人が経営してるの。これからは女がひとりで生きていく時代なのですって。ひとりで生きていけて、その途中のどこかで好きな人にめぐり逢ったなら、結婚してもいいのですって。あなたはどう思う?」
「僕もそう思います」
「高校ではそんなことも教えてくれるの?」
ソーダ水がテーブルに届いた。ふたりは世間話をした。ソーダ水を半分まで飲むあいだに、店のスピーカーから聞こえていたレコードによる英語の歌は、キティ・カレン、ゲイル・ストーム、ジョニー・レイ、そしてパイド・パイパーズをへてダイナ・ショアへと、五曲が経過した。ガイ・ロンバードの演奏で『ストーミー・ウエザー』がそのあとに続いた。
「私は昨日からもう店に出てるのよ。下北沢は、いい町だわ。私もここに住むことにしたの。どこかに部屋を探さなくては」
「どのへんがいいのですか」
「歩いて帰ることが出来れば、どこでもいいのよ。静かなとこがいいわ」
「父親の友人に、不動産の仕事をしている人がいます。このへんでよく取引をしています。アパートメントも経営しているはずです。聞いてみましょうか」
「助かるわ」
「すぐに聞いておきます」
「これからお家に帰るの?」
「そうです」
「美容院までいっしょに歩いて。場所を覚えて」
喫茶店を出たふたりは井の頭線のガードをくぐり、南口の商店街を歩いていった。商店街を出て、ふたつに分かれる道の左をいき、その道が別の道と合流してすぐ、右側に美容院があった。隣りの建物は一階がビリヤードで二階はダンス教室だった。
「このお店」
店を示して節子は言った。
「僕の髪も切ってもらえますか」
「いいわよ」
「切りたいのです」
「ばっさりと切るの?」
「二センチほど」
ヨシオにそう言われて、節子は彼の髪を見た。
「そうね。少し長くなりすぎてるわね。切りましょうか」
「いま」
「いいわよ」
「これから」
「どうぞ」
節子が店のドアを開き、彼女のあとについてヨシオは店に入った。鏡に面して並んでいる椅子のうち、ふたつだけが空いていた。
「いらっしゃいませ」
ヨシオに向きなおってそう言い、節子はいちばん端の椅子を彼に示した。椅子にすわった彼の周囲を、節子はひとまわりした。
「まず、洗いましょう」
彼女は言った。
「これだけポマードがついてると、鋏も使えないわ」
椅子を降りるよう、彼女はヨシオに言った。シャンプーのためのシンクが店の奥にあった。そこへヨシオを導き、椅子にすわらせ、節子は店の奥に姿を消した。すぐに出て来た彼女は、店で仕事をするときのための白衣のような服を身につけていた。
シンクに向けて上体を乗り出させ、節子はヨシオの髪のシャンプーを始めた。湯の温度を調節し、ポマードでなでつけた彼の長い髪に、まんべんなく湯をかけた。
「ポマードは、柳屋?」
自分たちふたりだけしかいない場所での会話と同じ口調で、節子が聞いた。
「そうです」
「あの、緑色の?」
「はい」
「こんなにつけてると、毎日洗わないといけないわね」
「そうなのです」
「たいへんだわ、これは」
シャンプーの液を掌に受け、節子はそれをヨシオの髪にまぶした。まぶすはじから、白く細かい泡が盛大に盛り上がった。その泡のなかで、節子の両手はヨシオの髪からポマードを洗い落としていった。シャンプーを終え、タオルで水を拭き取り、さらにドライアーを使って、節子はヨシオの髪を乾かせた。そして鏡の前の椅子に戻らせた。
櫛ですきながら、片手を軽く添え、節子はヨシオの髪のかたちを作ってみた。鏡に映るのを節子は冷静に検討した。
「やはりポマードを使ってまとめたいの?」
と、節子は聞いた。
「はい」
「あの人みたいにしたいのね。なんと言ったかしら。歌うアメリカの青年」
「エルヴィス・プレスリーです」
「彼のようにしたいのね」
「そうです」
節子は椅子のうしろにまわった。背後からヨシオの頭に両手を当て、鏡のなかの彼を節子は見た。
「気持はよくわかるわ。でも、頭のかたちが、まるで違うのよ」
前段としてそう言った節子は、後段つまり結論として、次のように言った。
「あなたの頭は、猿蟹合戦に出て来る栗がはじけたようなかたちをしてるのよ」
隣りの椅子にすわっていた三十代の女性が、思わず笑った。
「髪の質だって、まったく違うし。あの青年のは、細くて柔らかくて、無理しなくてもぴたっと寝る髪なのよ。ところがあなたのは、固くてまっすぐで、しかもいろんな方向に向けて生えてるわ」
「そうなのです」
「こてを当てましょうか。分けるところにこてを当てて倒して、その流れのなかで前髪をカールぎみに額に垂らして。でも、トッポすぎるといけないわね」
ヨシオを相手に語りながら方針をさぐった節子は、
「とにかく、少し切りましょう」
と、言った。
二センチほど切ったあと、左側の分けめを中心に、節子はこてを使った。こてで分けめを両側に倒し、その倒れた流れに沿わせて、前髪を作った。
「朝起きたら、めちゃくちゃになってるでしょう」
「そうです」
「ポマードで抑えつけるほかないのかしら」
「いまはそうしています」
「洗ったままでなにも使わずにまとめようとすると、まとまらないわね。ねぎ坊主がはじけたみたいになるだけで」
「そのとおりです」
「では、ポマードでまとめましょう」
気持ちを集中させて作業する節子を、ヨシオは鏡のなかに見続けた。鏡を経由することによって、思いがけないいくつもの角度から、ヨシオは節子を見ることが出来た。節子のじつに良く出来た美しさを、鏡はさまざまに分解して見せてくれている、とヨシオは思った。彼女の身のこなしの、きちんとした芯のある柔らかな優しさも、鏡は映し出した。ヨシオの頭と髪に対する彼女の指の感触は、鏡のなかに彼が見る彼女の身のこなしと、完全に同調していた。
「両側をぴたっと撫でつけて、頭のうしろで鳥の羽のように合わさらなくてはいけないのね」
「そうです」
「ポマードをたくさん使わないと、かたちが出来ないわ。もう少しだけ短いと、ポマードで止めやすいのだけど」
ほどなくヨシオの髪は出来上がった。
「どうお?」
椅子のかたわらに立ち、鏡のなかのヨシオを節子は見た。
「出来上がりすぎてるから、少し変ね。でも、これでちょっと乱れて来ると、ちょうどいいわ」
ヨシオの体を覆っていた白い布を節子は取った。巧みにはたいてたたみ、鏡の前の台に置いた。ヨシオは椅子を降りた。ドアを入ったすぐのところに、レジスターを置いたカウンターがあった。四十歳になったかならないかという年齢の、この店の女主人がそこにいた。ヨシオは支払いをした。
女主人は彼の頭を点検した。そして微笑を浮かべ、
「よかったわね」
と言った。
「きれいなお姉さんに、してもらえて。下北沢でときどき見かけるわよ。レコード店に、よくいるでしょう」
節子が店の名刺をヨシオに渡した。店の名と所在地、電話番号が印刷してあり、裏には略地図があった。担当美容師、と肩書のように小さく印刷した下に、高木節子、とボールペンで名前が書いてあった。