← Library‹ 東京青年 名前は仮にスーザン 4

梅雨つゆに入はいる前まえに、校内こうないのパン店てんから高木たかぎ節子せつこはいなくなった。ある日ひ、彼女かのじょの代かわりに、四十よんじゅう代だいの女性じょせいが店みせにいた。そしてそのまま節子せつこは戻もどっては来こなかった。いなくなって一いち週間しゅうかん後ごに、ヨシオは学校がっこうの帰かえりに下北沢しもきたざわで節子せつこと偶然ぐうぜんに会あった。彼女かのじょに誘さそわれて喫茶きっさ店てんに入はいった。地下ちか一いち階かいから三さん階かいにかけて、中間ちゅうかん的てきなフロアのたくさんある店みせだった。何なん階かいとも言いいがたいフロアの、窓辺まどべの席せきでふたりは向むかい合あった。ふたりともソーダ水すいを注文ちゅうもんした。

「パンのお店みせは辞やめたのよ」

節子せつこが言いった。

「美容びよう院いんで仕事しごとをすることになったの。このすぐ近ちかく。あなたは下北沢しもきたざわに住すんでるから、会あえるかなと思おもってたらそのとおりになったわ。手紙てがみを書かこうかな、とも思おもってたの。さほど遠とおくもないけれど近ちかくもない親戚しんせきの人ひとが経営けいえいしている美容びよう院いんなの。女おんなは手てに職しょくを持もたなくてはいけない、と店主てんしゅが言いうのよ。女性じょせいの店主てんしゅ。その人ひとが経営けいえいしてるの。これからは女おんながひとりで生いきていく時代じだいなのですって。ひとりで生いきていけて、その途中とちゅうのどこかで好すきな人ひとにめぐり逢あったなら、結婚けっこんしてもいいのですって。あなたはどう思おもう?」

「僕ぼくもそう思おもいます」

「高校こうこうではそんなことも教おしえてくれるの?」

ソーダ水すいがテーブルに届とどいた。ふたりは世間せけん話はなしをした。ソーダ水すいを半分はんぶんまで飲のむあいだに、店みせのスピーカーから聞きこえていたレコードによる英語えいごの歌うたは、キティ・カレン、ゲイル・ストーム、ジョニー・レイ、そしてパイド・パイパーズをへてダイナ・ショアへと、五ご曲きょくが経過けいかした。ガイ・ロンバードの演奏えんそうで『ストーミー・ウエザー』がそのあとに続つづいた。

「私わたくしは昨日きのうからもう店みせに出でてるのよ。下北沢しもきたざわは、いい町まちだわ。私わたくしもここに住すむことにしたの。どこかに部屋へやを探さがさなくては」

「どのへんがいいのですか」

「歩あるいて帰かえることが出来できれば、どこでもいいのよ。静しずかなとこがいいわ」

「父親ちちおやの友人ゆうじんに、不ふ動産どうさんの仕事しごとをしている人ひとがいます。このへんでよく取引とりひきをしています。アパートメントも経営けいえいしているはずです。聞きいてみましょうか」

「助たすかるわ」

「すぐに聞きいておきます」

「これからお家いえに帰かえるの?」

「そうです」

「美容びよう院いんまでいっしょに歩あるいて。場所ばしょを覚おぼえて」

喫茶きっさ店てんを出でたふたりは井いの頭かしら線せんのガードをくぐり、南口みなみぐちの商店しょうてん街がいを歩あるいていった。商店しょうてん街がいを出でて、ふたつに分わかれる道みちの左ひだりをいき、その道みちが別べつの道みちと合流ごうりゅうしてすぐ、右側みぎがわに美容びよう院いんがあった。隣となりの建物たてものは一いち階かいがビリヤードで二に階かいはダンス教室きょうしつだった。

「このお店みせ」

店みせを示しめして節子せつこは言いった。

「僕ぼくの髪かみも切きってもらえますか」

「いいわよ」

「切きりたいのです」

「ばっさりと切きるの?」

「二にセンチほど」

ヨシオにそう言いわれて、節子せつこは彼かれの髪かみを見みた。

「そうね。少すこし長ながくなりすぎてるわね。切きりましょうか」

「いま」

「いいわよ」

「これから」

「どうぞ」

節子せつこが店みせのドアを開ひらき、彼女かのじょのあとについてヨシオは店みせに入はいった。鏡かがみに面めんして並ならんでいる椅子いすのうち、ふたつだけが空あいていた。

「いらっしゃいませ」

ヨシオに向むきなおってそう言いい、節子せつこはいちばん端はしの椅子いすを彼かれに示しめした。椅子いすにすわった彼かれの周囲しゅういを、節子せつこはひとまわりした。

「まず、洗あらいましょう」

彼女かのじょは言いった。

「これだけポマードがついてると、鋏はさみも使つかえないわ」

椅子いすを降おりるよう、彼女かのじょはヨシオに言いった。シャンプーのためのシンクが店みせの奥おくにあった。そこへヨシオを導みちびき、椅子いすにすわらせ、節子せつこは店みせの奥おくに姿すがたを消けした。すぐに出でて来きた彼女かのじょは、店みせで仕事しごとをするときのための白衣はくいのような服ふくを身みにつけていた。

シンクに向むけて上体じょうたいを乗のり出ださせ、節子せつこはヨシオの髪かみのシャンプーを始はじめた。湯ゆの温度おんどを調節ちょうせつし、ポマードでなでつけた彼かれの長ながい髪かみに、まんべんなく湯ゆをかけた。

「ポマードは、柳やなぎ屋や?」

自分じぶんたちふたりだけしかいない場所ばしょでの会話かいわと同おなじ口調くちょうで、節子せつこが聞きいた。

「そうです」

「あの、緑色みどりいろの?」

「はい」

「こんなにつけてると、毎日まいにち洗あらわないといけないわね」

「そうなのです」

「たいへんだわ、これは」

シャンプーの液えきを掌てのひらに受うけ、節子せつこはそれをヨシオの髪かみにまぶした。まぶすはじから、白しろく細こまかい泡あわが盛大せいだいに盛もり上あがった。その泡あわのなかで、節子せつこの両手りょうてはヨシオの髪かみからポマードを洗あらい落おとしていった。シャンプーを終おえ、タオルで水みずを拭ふき取とり、さらにドライアーを使つかって、節子せつこはヨシオの髪かみを乾かわかせた。そして鏡かがみの前まえの椅子いすに戻もどらせた。

櫛くしですきながら、片手かたてを軽かるく添そえ、節子せつこはヨシオの髪かみのかたちを作つくってみた。鏡かがみに映うつるのを節子せつこは冷静れいせいに検討けんとうした。

「やはりポマードを使つかってまとめたいの?」

と、節子せつこは聞きいた。

「はい」

「あの人ひとみたいにしたいのね。なんと言いったかしら。歌うたうアメリカの青年せいねん」

「エルヴィス・プレスリーです」

「彼かれのようにしたいのね」

「そうです」

節子せつこは椅子いすのうしろにまわった。背後はいごからヨシオの頭あたまに両手りょうてを当あて、鏡かがみのなかの彼かれを節子せつこは見みた。

「気持きもちはよくわかるわ。でも、頭あたまのかたちが、まるで違ちがうのよ」

前段ぜんだんとしてそう言いった節子せつこは、後段こうだんつまり結論けつろんとして、次つぎのように言いった。

「あなたの頭あたまは、猿蟹さるかに合戦かっせんに出でて来くる栗くりがはじけたようなかたちをしてるのよ」

隣となりの椅子いすにすわっていた三十さんじゅう代だいの女性じょせいが、思おもわず笑わらった。

「髪かみの質しつだって、まったく違ちがうし。あの青年せいねんのは、細ほそくて柔やわらかくて、無理むりしなくてもぴたっと寝ねる髪かみなのよ。ところがあなたのは、固かたくてまっすぐで、しかもいろんな方向ほうこうに向むけて生はえてるわ」

「そうなのです」

「こてを当あてましょうか。分わけるところにこてを当あてて倒たおして、その流ながれのなかで前髪まえがみをカールぎみに額がくに垂たらして。でも、トッポすぎるといけないわね」

ヨシオを相手あいてに語かたりながら方針ほうしんをさぐった節子せつこは、

「とにかく、少すこし切きりましょう」

と、言いった。

二にセンチほど切きったあと、左側ひだりがわの分わけめを中心ちゅうしんに、節子せつこはこてを使つかった。こてで分わけめを両側りょうがわに倒たおし、その倒たおれた流ながれに沿そわせて、前髪まえがみを作つくった。

「朝あさ起おきたら、めちゃくちゃになってるでしょう」

「そうです」

「ポマードで抑おさえつけるほかないのかしら」

「いまはそうしています」

「洗あらったままでなにも使つかわずにまとめようとすると、まとまらないわね。ねぎ坊主ぼうずがはじけたみたいになるだけで」

「そのとおりです」

「では、ポマードでまとめましょう」

気持きもちを集中しゅうちゅうさせて作業さぎょうする節子せつこを、ヨシオは鏡かがみのなかに見み続つづけた。鏡かがみを経由けいゆすることによって、思おもいがけないいくつもの角度かくどから、ヨシオは節子せつこを見みることが出来できた。節子せつこのじつに良よく出来できた美うつくしさを、鏡かがみはさまざまに分解ぶんかいして見みせてくれている、とヨシオは思おもった。彼女かのじょの身みのこなしの、きちんとした芯しんのある柔やわらかな優やさしさも、鏡かがみは映うつし出だした。ヨシオの頭あたまと髪かみに対たいする彼女かのじょの指ゆびの感触かんしょくは、鏡かがみのなかに彼かれが見みる彼女かのじょの身みのこなしと、完全かんぜんに同調どうちょうしていた。

「両側りょうがわをぴたっと撫なでつけて、頭あたまのうしろで鳥とりの羽はねのように合あわさらなくてはいけないのね」

「そうです」

「ポマードをたくさん使つかわないと、かたちが出来できないわ。もう少すこしだけ短みじかいと、ポマードで止とめやすいのだけど」

ほどなくヨシオの髪かみは出来上できあがった。

「どうお?」

椅子いすのかたわらに立たち、鏡かがみのなかのヨシオを節子せつこは見みた。

「出来上できあがりすぎてるから、少すこし変へんね。でも、これでちょっと乱みだれて来くると、ちょうどいいわ」

ヨシオの体からだを覆おおっていた白しろい布ぬのを節子せつこは取とった。巧たくみにはたいてたたみ、鏡かがみの前まえの台だいに置おいた。ヨシオは椅子いすを降おりた。ドアを入はいったすぐのところに、レジスターを置おいたカウンターがあった。四十よんじゅう歳さいになったかならないかという年齢ねんれいの、この店みせの女おんな主人しゅじんがそこにいた。ヨシオは支払しはらいをした。

女じょ主人しゅじんは彼かれの頭あたまを点検てんけんした。そして微笑びしょうを浮うかべ、

「よかったわね」

と言いった。

「きれいなお姉あねさんに、してもらえて。下北沢しもきたざわでときどき見みかけるわよ。レコード店てんに、よくいるでしょう」

節子せつこが店みせの名刺めいしをヨシオに渡わたした。店みせの名なと所在しょざい地ち、電話でんわ番号ばんごうが印刷いんさつしてあり、裏うらには略りゃく地図ちずがあった。担当たんとう美容びよう師し、と肩書かたがきのように小ちいさく印刷いんさつした下したに、高木たかぎ節子せつこ、とボールペンで名前なまえが書かいてあった。

Next chapter →
Click a word · hold for the whole sentence 0%