梅雨の明けたその日から、真夏の暑い日が、まったくおなじ感触で二週間続いた。そして雨が降った。雨は一週間、続いた。その雨の日の夜、夕食を自宅ですませたヨシオは、節子の部屋へいった。分厚い英語の童話の本を六冊、腕の下にかかえてレインコートをはおり、傘はささずにフードをかぶった。雨のなかを三分も歩かずに、彼は節子のアパートメントに着いた。いつ遊びに来てもいい、と彼は節子に言われていた。
ノックをすると返事があった。ドアが開いた。節子はヨシオを招き入れた。ドアの外で彼はレインコートを脱いだ。ドアの外側のノブに、そのレインコートを掛けた。中に入ってドアを閉じ、
「本を持って来ました」
と、ヨシオは言った。かかえていた六冊の本を、彼は節子に見せた。
「私のために?」
英語を勉強したい、と節子はヨシオに言っていた。教材を見つけてあげます、と彼は約束した。自宅にあった自分の本のなかから、六冊を選んで彼は持って来た。子供のための童話の本だ。幼かった頃のヨシオの遊び道具だ。本を受け取り、
「お上がりなさいよ」
と、節子は言った。今夜の彼女は、薄い生地に細いプリーツのたくさんある、くるぶしまで届く丈のスカートをはいていた。それに白い長袖のシャツだ。彼女がかつて言っていたとおり、居間のいっぽうの壁に寄せて、ソファが置いてあった。その前には低いテーブル、そしてソファのかたわらにはフロア・ランプが立っていた。ふたりはソファに並んですわった。
それぞれに硬い表紙のついた六冊の厚い本を、節子はテーブルに重ねて置いた。そしてその上に片手を載せ、
「あなたが読んだ本なの?」
と、聞いた。
「そうです」
「これで勉強したのね」
「読むといいですよ」
いちばん上の一冊を手に取り、組んだ脚の上で節子はそれを広げた。
「この話、知ってるわ」
色彩の着いた挿絵を指さして、彼女は言った。
「ヘンゼルとグレーテルよ」
「読んでみてください。声を出して」
「それが勉強なのね」
「そうです」
「私、勉強するわ」
数ページにわたるヘンゼルとグレーテルの話を、最初から最後まで、節子は英語で声に出して読みとおした。そしてヨシオを見た。
「ほんとに勉強したいのなら、ほんとに勉強しなくてはいけません」
と、ヨシオは言った。
彼のその言葉を受けとめた節子は、指を揃えた両手で伏せた顔を覆った。
「いまのままではまったく無駄なのだ、という意味なのね」
ヨシオは黙っていた。
「ね」
顔を覆ったまま、節子は言った。
「駄目だったのね」
「そうです」
顔から両手を離した節子は、ヨシオに顔を向けた。
「どうしましょう」
「僕が読みます」
彼は節子から本を受け取り、節子は彼に体を寄せた。そして彼はヘンゼルとグレーテルの話を読んだ。強弱や音がひとつにまとまる部分、それに息つぎの休止など、やや誇張して彼は読んだ。
「私の読みかたとはずいぶん違うということくらいなら、いまの私にもよくわかるのよ」
「真似すればいいのです」
「教えて」
強拍やひとつにつながる部分、そしてブレスなどを鉛筆で印しながら、彼はおなじ話をもう一度読んだ。彼を真似して、そして彼に訂正してもらいながら、節子はさらに二度、おなじストーリーを声に出して読んだ。
「言葉は声に出せば音なのです。音であるからには、音の出しかたがあります。強弱のリズムや、言葉のつながりかたのなかにあるテンポです。それが正しく出来ないと英語になりませんし、それが正しく出来ると、構文の成り立ちが無理なく覚えられます」
ヨシオの言ったことを、節子はしばらく考えた。そして、
「音の出発点は、どこなの?」
と、聞いた。
「主語です。主語を動詞が引っ張ります。動詞が文章を前へ進めていくのです」
もうひとつ、別な話をヨシオは読んだ。節子が何度か繰り返して読み、注意すべき部分にヨシオが鉛筆で印をつけていった。
お盆になるまで、ほとんど毎日、夜のほぼおなじ時間に、ヨシオは節子の部屋を訪ねた。六冊の本のすべてを節子は何度も音読し、ヨシオがそれを訂正して、その理由を説明した。分厚い六冊をそのようにしてこなし、身につけていくと、節子の英語は格段に良くなった。この女性は勘のいい人だ、とヨシオは思った。
お盆休みで高木節子は静岡の実家へ帰ることになった。休みは一週間だ。急行の指定席の切符を買ったと節子は言い、ヨシオは彼女を東京駅で見送ることにした。当日、時間が今日だけは止まっているように思える晴れた日、午後一時に、ふたりは東京駅に到着した。
ヒールの充分にある白いパンプスに、スカートの広がったシャツ・ドレスを節子は着ていた。小旅行用のスーツケースひとつが荷物だった。それをアパートメントを出たときからヨシオが持った。節子が乗る急行の発車時間までに一時間三十分あった。節子があのイヤリングをつけているのを見て、ジョイスリン・カネシゲの装身具店へ彼女を連れて行くことを、ヨシオは思いついた。ぜひいきたい、と節子は言った。国電で有楽町までいき、そこで降りた。日比谷にある店まで、駅から歩いてすぐだった。
外の歩道から、ふたりはショー・ウインドーをしばらく観察した。ドアが開き、ジョイスリンが斜めに体を出し、ふたりを笑顔で見た。きわめて優しく、
「カミンサイ」
と、彼女は言った。
ふたりは陽ざしのなかを店の入口へ歩いた。
「わかったわ」
と、節子は言った。
「カム・インサイド、とおっしゃったのよ」
ふたりは店に入り、ヨシオは節子をジョイスリンに紹介した。節子にイアリングがこの上なく似合う様子に、ジョイスリンは喜び感銘を受けていた。
店の奥に応接のためのスペースがあった。気のきいた造りの部屋のなかに、ソファや低いテーブルなどが居心地良く配置してあった。ジョイスリンは節子をそこへ招き入れた。いつもいる若い女性の店員が、節子とヨシオにコカコーラを出してくれた。
ジョイスリンに聞かれるままに、節子はいまの自分の生活について語った。ジョイスリンはハワイやアメリカの話をし、一度はいってみたいとか英語を勉強をしているといったことを、節子は話題にした。ヨシオはやがてその部屋を出た。店のなかを歩き、陳列していある装身具を見物した。ジョイスリンは言葉を日本語から英語に変え、それに対して節子が英語で応答しているのを、ヨシオは部分的に聞いた。節子の英語が基本的には充分に合格であることを知って、彼は少なからず驚いた。
三十分足らずでふたりは店を出た。ジョイスリンが外まで送ってくれた。ふたりは銀座までいった。そこで節子は実家へのみやげ物を、大きな紙袋にふたつ、買った。ふたりは有楽町の駅まで引き返し、そこから東京駅に戻った。
時間のゆとりを、ふたりは待合室で話をして過ごした。やがて改札のアナウンスがあった。改札口までヨシオが荷物を持っていった。片手にスーツケース、そしてもういっぽうの手には紙袋をふたつ下げて、節子は改札を抜けた。歩いていく途中、節子は一度だけ振り返って微笑した。