← Library‹ 東京青年 名前は仮にスーザン 6

梅雨つゆの明あけたその日ひから、真夏まなつの暑あつい日ひが、まったくおなじ感触かんしょくで二に週間しゅうかん続つづいた。そして雨あめが降ふった。雨あめは一いち週間しゅうかん、続つづいた。その雨あめの日ひの夜よる、夕食ゆうしょくを自宅じたくですませたヨシオは、節子せつこの部屋へやへいった。分厚ぶあつい英語えいごの童話どうわの本ほんを六ろく冊さつ、腕うでの下したにかかえてレインコートをはおり、傘かさはささずにフードをかぶった。雨あめのなかを三さん分ふんも歩あるかずに、彼かれは節子せつこのアパートメントに着ついた。いつ遊あそびに来きてもいい、と彼かれは節子せつこに言いわれていた。

ノックをすると返事へんじがあった。ドアが開ひらいた。節子せつこはヨシオを招まねき入いれた。ドアの外そとで彼かれはレインコートを脱ぬいだ。ドアの外側そとがわのノブに、そのレインコートを掛かけた。中なかに入はいってドアを閉とじ、

「本ほんを持もって来きました」

と、ヨシオは言いった。かかえていた六ろく冊さつの本ほんを、彼かれは節子せつこに見みせた。

「私わたくしのために?」

英語えいごを勉強べんきょうしたい、と節子せつこはヨシオに言いっていた。教材きょうざいを見みつけてあげます、と彼かれは約束やくそくした。自宅じたくにあった自分じぶんの本ほんのなかから、六ろく冊さつを選えらんで彼かれは持もって来きた。子供こどものための童話どうわの本ほんだ。幼おさなかった頃ころのヨシオの遊あそび道具どうぐだ。本ほんを受うけ取とり、

「お上あがりなさいよ」

と、節子せつこは言いった。今夜こんやの彼女かのじょは、薄うすい生地きじに細ほそいプリーツのたくさんある、くるぶしまで届とどく丈たけのスカートをはいていた。それに白しろい長袖ながそでのシャツだ。彼女かのじょがかつて言いっていたとおり、居間いまのいっぽうの壁かべに寄よせて、ソファが置おいてあった。その前まえには低ひくいテーブル、そしてソファのかたわらにはフロア・ランプが立たっていた。ふたりはソファに並ならんですわった。

それぞれに硬かたい表紙ひょうしのついた六ろく冊さつの厚あつい本ほんを、節子せつこはテーブルに重かさねて置おいた。そしてその上うえに片手かたてを載のせ、

「あなたが読よんだ本ほんなの?」

と、聞きいた。

「そうです」

「これで勉強べんきょうしたのね」

「読よむといいですよ」

いちばん上うえの一いち冊さつを手てに取とり、組くんだ脚あしの上うえで節子せつこはそれを広ひろげた。

「この話はなし、知しってるわ」

色彩しきさいの着ついた挿絵さしえを指ゆびさして、彼女かのじょは言いった。

「ヘンゼルとグレーテルよ」

「読よんでみてください。声こえを出だして」

「それが勉強べんきょうなのね」

「そうです」

「私わたくし、勉強べんきょうするわ」

数すうページにわたるヘンゼルとグレーテルの話はなしを、最初さいしょから最後さいごまで、節子せつこは英語えいごで声こえに出だして読よみとおした。そしてヨシオを見みた。

「ほんとに勉強べんきょうしたいのなら、ほんとに勉強べんきょうしなくてはいけません」

と、ヨシオは言いった。

彼かれのその言葉ことばを受うけとめた節子せつこは、指ゆびを揃そろえた両手りょうてで伏ふせた顔かおを覆おおった。

「いまのままではまったく無駄むだなのだ、という意味いみなのね」

ヨシオは黙だまっていた。

「ね」

顔かおを覆おおったまま、節子せつこは言いった。

「駄目だめだったのね」

「そうです」

顔かおから両手りょうてを離はなした節子せつこは、ヨシオに顔かおを向むけた。

「どうしましょう」

「僕ぼくが読よみます」

彼かれは節子せつこから本ほんを受うけ取とり、節子せつこは彼かれに体からだを寄よせた。そして彼かれはヘンゼルとグレーテルの話はなしを読よんだ。強弱きょうじゃくや音おとがひとつにまとまる部分ぶぶん、それに息いきつぎの休止きゅうしなど、やや誇張こちょうして彼かれは読よんだ。

「私わたくしの読よみかたとはずいぶん違ちがうということくらいなら、いまの私わたくしにもよくわかるのよ」

「真似まねすればいいのです」

「教おしえて」

強拍きょうはくやひとつにつながる部分ぶぶん、そしてブレスなどを鉛筆えんぴつで印しるしながら、彼かれはおなじ話はなしをもう一いち度ど読よんだ。彼かれを真似まねして、そして彼かれに訂正ていせいしてもらいながら、節子せつこはさらに二に度ど、おなじストーリーを声こえに出だして読よんだ。

「言葉ことばは声こえに出だせば音おとなのです。音おとであるからには、音おとの出だしかたがあります。強弱きょうじゃくのリズムや、言葉ことばのつながりかたのなかにあるテンポです。それが正ただしく出来できないと英語えいごになりませんし、それが正ただしく出来できると、構文こうぶんの成なり立たちが無理むりなく覚おぼえられます」

ヨシオの言いったことを、節子せつこはしばらく考かんがえた。そして、

「音おとの出発しゅっぱつ点てんは、どこなの?」

と、聞きいた。

「主語しゅごです。主語しゅごを動詞どうしが引ひっ張ぱります。動詞どうしが文章ぶんしょうを前まえへ進すすめていくのです」

もうひとつ、別べつな話はなしをヨシオは読よんだ。節子せつこが何なん度どか繰くり返かえして読よみ、注意ちゅういすべき部分ぶぶんにヨシオが鉛筆えんぴつで印しるしをつけていった。

お盆ぼんになるまで、ほとんど毎日まいにち、夜よるのほぼおなじ時間じかんに、ヨシオは節子せつこの部屋へやを訪たずねた。六ろく冊さつの本ほんのすべてを節子せつこは何なん度ども音読おんどくし、ヨシオがそれを訂正ていせいして、その理由りゆうを説明せつめいした。分厚ぶあつい六ろく冊さつをそのようにしてこなし、身みにつけていくと、節子せつこの英語えいごは格段かくだんに良よくなった。この女性じょせいは勘かんのいい人ひとだ、とヨシオは思おもった。

お盆休ぼんやすみで高木たかぎ節子せつこは静岡しずおかの実家じっかへ帰かえることになった。休やすみは一いち週間しゅうかんだ。急行きゅうこうの指定してい席せきの切符きっぷを買かったと節子せつこは言いい、ヨシオは彼女かのじょを東京とうきょう駅えきで見送みおくることにした。当日とうじつ、時間じかんが今日きょうだけは止とまっているように思おもえる晴はれた日ひ、午後ごご一いち時じに、ふたりは東京とうきょう駅えきに到着とうちゃくした。

ヒールの充分じゅうぶんにある白しろいパンプスに、スカートの広ひろがったシャツ・ドレスを節子せつこは着きていた。小しょう旅行りょこう用ようのスーツケースひとつが荷物にもつだった。それをアパートメントを出でたときからヨシオが持もった。節子せつこが乗のる急行きゅうこうの発車はっしゃ時間じかんまでに一いち時間じかん三十さんじゅう分ふんあった。節子せつこがあのイヤリングをつけているのを見みて、ジョイスリン・カネシゲの装身そうしん具ぐ店てんへ彼女かのじょを連つれて行いくことを、ヨシオは思おもいついた。ぜひいきたい、と節子せつこは言いった。国電こくでんで有楽町ゆうらくちょうまでいき、そこで降おりた。日比谷ひびやにある店みせまで、駅えきから歩あるいてすぐだった。

外そとの歩道ほどうから、ふたりはショー・ウインドーをしばらく観察かんさつした。ドアが開ひらき、ジョイスリンが斜ななめに体からだを出だし、ふたりを笑顔えがおで見みた。きわめて優やさしく、

「カミンサイ」

と、彼女かのじょは言いった。

ふたりは陽ひざしのなかを店みせの入口いりぐちへ歩あるいた。

「わかったわ」

と、節子せつこは言いった。

「カム・インサイド、とおっしゃったのよ」

ふたりは店みせに入はいり、ヨシオは節子せつこをジョイスリンに紹介しょうかいした。節子せつこにイアリングがこの上うえなく似合にあう様子ようすに、ジョイスリンは喜よろこび感銘かんめいを受うけていた。

店みせの奥おくに応接おうせつのためのスペースがあった。気きのきいた造つくりの部屋へやのなかに、ソファや低ひくいテーブルなどが居い心地良ここちよく配置はいちしてあった。ジョイスリンは節子せつこをそこへ招まねき入いれた。いつもいる若わかい女性じょせいの店員てんいんが、節子せつことヨシオにコカコーラを出だしてくれた。

ジョイスリンに聞きかれるままに、節子せつこはいまの自分じぶんの生活せいかつについて語かたった。ジョイスリンはハワイやアメリカの話はなしをし、一いち度どはいってみたいとか英語えいごを勉強べんきょうをしているといったことを、節子せつこは話題わだいにした。ヨシオはやがてその部屋へやを出でた。店みせのなかを歩あるき、陳列ちんれつしていある装身そうしん具ぐを見物けんぶつした。ジョイスリンは言葉ことばを日本にっぽん語ごから英語えいごに変かえ、それに対たいして節子せつこが英語えいごで応答おうとうしているのを、ヨシオは部分ぶぶん的てきに聞きいた。節子せつこの英語えいごが基本きほん的てきには充分じゅうぶんに合格ごうかくであることを知しって、彼かれは少すくなからず驚おどろいた。

三十さんじゅう分ふん足たらずでふたりは店みせを出でた。ジョイスリンが外そとまで送おくってくれた。ふたりは銀座ぎんざまでいった。そこで節子せつこは実家じっかへのみやげ物ものを、大おおきな紙袋かみぶくろにふたつ、買かった。ふたりは有楽町ゆうらくちょうの駅えきまで引ひき返かえし、そこから東京とうきょう駅えきに戻もどった。

時間じかんのゆとりを、ふたりは待合まちあい室しつで話はなしをして過すごした。やがて改札かいさつのアナウンスがあった。改札かいさつ口くちまでヨシオが荷物にもつを持もっていった。片手かたてにスーツケース、そしてもういっぽうの手てには紙袋かみぶくろをふたつ下さげて、節子せつこは改札かいさつを抜ぬけた。歩あるいていく途中とちゅう、節子せつこは一いち度どだけ振ふり返かえって微笑びしょうした。

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