雨の日、大学へいくつもりで、ヨシオは自宅を出た。途中でやめにし、節子の部屋があったアパートメントへ向かった。いつも持っている鍵で、かつての節子の部屋のドアを開き、彼はなかに入った。ここを彼が使うことになっていたが、まだ引っ越しはしていなかった。節子の静岡の実家へ送る荷物は、すでに彼が送り出した。それ以外は、節子が住んでいたときのままになっていた。
彼女の痕跡が、二階式の部屋のいたるところにあった。本棚には本が入ったままだし、レコード、そしてその再生装置も、かつてのとおりだ。ヨシオはひとりでソファにすわってみた。そして居間から奥に入り、キチンを見た。冷蔵庫、調理道具、食卓として使っていた丸いテーブル、そして椅子。キチンには節子の跡がもっとも顕著だった。洗面室には化粧品が残っていたし、風呂には石鹸や桶がきちんと置いてあった。
二階の寝室へも、彼はいってみた。ベッドの上にはブランケットやシーツ、そして枕などがあり、クロゼットのなかには水着が一着、針金のハンガーに掛かっていた。この水着は、ヨシオにとって、ちょっとした謎だった。持っていこうと思いつつ節子は荷物に入れ忘れたのか。それとも、意図してここへ置いていったのか。井の頭公園のプールへいっしょにいったとき、節子が身につけていた水着だ。自分の一部分はまだこの部屋にある、という意味を込めて節子はこの水着を置いていったのだろう、とヨシオは解釈した。
正午まで、彼はその部屋にいた。そしていったん自宅に戻り、昼食を済ませた。そして再び家を出た。傘をさして節子のいた美容院へ向かった。美容院には客が三人いた。店主の杉山美代子が、ヨシオに応対した。
「あら、いらっしゃい。でも、節子はもういないのよ」
そう言う彼女に、ヨシオは自分の頭を指さした。
「頭がどうにかしたかしら」
「切ってください」
「頭を?」
「髪です」
「切れと言われれば、切りますよ。でも、ねえ。そんなにポマードのたくさん塗ってある髪には、誰も触りたくないものなのよ。だから私が切るわ」
「坊主刈りです」
「なんですって?」
美代子は聞き返した。
「今日は坊主刈りにしてください」
彼の頭を、美代子は見た。
「ほんとに?」
と、彼女は聞いた。
「ほんとです」
「そのほうが手間がかからなくていいわよ。伸びて来たら、別のスタイルにしなさい」
「とにかく、坊主刈りにしてください」
「バリカンで切るのだわ」
そう言った彼女は、バリカンの使える人はいるかと、店の女性たちに聞いた。使える人はひとりもいなかった。
「では、私が。いいでしょ、私で」
「お願いします」
「バリカンを使うのは久しぶりだから、きっと虎刈りになるわ。虎と言うよりも、西瓜ね。まず洗いましょう。洗って乾かしてから、ばっさりいきましょう」
シャンプー台へ、彼女はヨシオを連れていった。椅子にすわらせ、シンクに向けて上体を傾けて突き出させ、湯の温度を調節した。湯で濡らしたヨシオの髪に、掌に取った大量のシャンプーを、彼女は何度も彼の髪にまぶした。そして洗い始めた。
美代子の指の感触と手の力を頭に感じながら、ヨシオは思った。坊主刈りにしたなら島村冬彦に写真を撮ってもらおう。あのアパートメントの敷地で、アパートメントの建物を背景にして撮ればいい。坊主刈りにした僕を節子さんは初めて見る。ホノルルにいる彼女宛てに書く最初の手紙に同封する写真として、その写真はこの上ない正解であるはずだ、と彼は結論した。