アパートの駐車場にカワサキを入れ、きれいにシートをかけた。
ヘルメットを持ち、アパートの鉄板の階段をあがった。細い鉄製の手すりとビニール・トタンの天井にかこまれた通路を歩き、突き当たりまできた。204号室。ぼくの部屋だ。第二ゆたか荘という。ビニール・トタンの天井に、切れかかった蛍光灯がちかちかしていた。
ドアを開け、なかに入った。よどんだ空気が、むうっときた。
新聞もなにも、来てはいない。来るわけないんだ。ドアには、ぼくの名刺が押しピンでとめてある。めくれあがっている。橋本巧。ぼくの名前だ。巧は、コオと読む。
柱のフックにヘルメットをかけ、
「ただいま」
返事はない。
あるわけない。ぼくは、独り暮らしだ。
ブーツを脱ぎ、部屋にあがった。暑い。野戦ジャケットを脱いだ。自動車のホイール・キャップが灰皿がわりになっていて、吸いがらがいっぱいだ。
ベッドに腰かけ、ぼくは両手で頭をかかえた。気持はとてもダウンしている。四輪と喧嘩したあとは、いつもきまって、こうだ。
ぼくの気分を沈ませているのは、しかし、あの白いスカイラインとの喧嘩だけではない。
ほかに、ほんとにのんきな悩みがひとつある。信州まで、ひとりでかかえていった悩み。
顔をあげ、ぼくは、部屋を見渡した。
こっちの壁に、ベッド。むこうの壁には、本棚と勉強机。手づくりした低い台のうえに、簡単なオーディオ。アンプのうえに、LPが数枚。LPをぼくはこれだけしか持っていない。どれもみな、人にもらったLPだ。
黒いケースに入ったギター。ギブスンのハミングバード。カワサキとならんで、ぼくの所持品のなかで、もっとも値の張るものだ。
ぼくは、立ちあがった。
部屋のなかで頭をかかえていても、しかたない。買いおきの両切り煙草をひとつ、ジーンズの尻ポケットに入れ、ブーツをはいて部屋を出た。
どこにいくにも、このブーツだ。四万円もした。だが、それだけの値打ちはある。ひざのすぐ下までの深さがあり、ぜんたいにしっかりしていて、オートバイに乗るとき足もとが固まっていい気分だ。
日曜の夜の住宅街を、ぼくは歩いた。バス通りを越えて十五分もいくと、私鉄駅前の商店街に出る。
その商店街はずれに、『道草』というスナックがある。『弾きがたりの店、お客さまもごいっしょに』と、看板に書いてある。
半年ほど前にできた。このところ、おカネをつかわないようにしているので、一度も入ったことがない。
日曜でもやっている。午前二時まで。「本日の出演。1・野沢圭子 2・道草バンド」と、色とりどりのチョークで書いた小さな黒い板が、ドアにさがっている。
入るとすぐ右にボックス席があり、左側はエレクトーンやアンプ、マイクなどの置いてある小さなステージ。そのさき、右側が、奥の壁までいっぱいにカウンターだ。反対側は、壁にそって、低いテーブルをはさんでビニール張りのシートがつらなっている。
カウンターのなかに中年の女性がひとりいる。そして、外に、若い女性がひとり。長い髪を背に垂らし、紫色のタンクトップに小花模様の長いスカートだ。
奥の席に、高校生のような男たちが四、五人、かたまっている。
ぼくは、カウンターにすわった。ビールを注文した。
それが合図だったかのように、カウンターの席にいた若い女性が、ステージまで歩いた。アンプのスイッチをオンにし、マイクを椅子の前にととのえ、調子を見た。椅子にすわって、マイクにむかい、かたわらのギターをとりあげて抱き、カポタストの位置をかえた。
みじかい前奏のあと、すぐに彼女は、うたいはじめた。やっぱりエー・マイクだ。
カウンターに、ボールペンが一本、ころがっていた。それを持ったぼくは、ビールのグラスの下に敷いてくれた白いコースターの裏に、彼女がうたっている歌のコード進行を、書きとめた。
ダウンしている気持は、たいていの場合、歌が救ってくれる。
すんなりしたコード進行の、かわいらしい曲だった。彼女が自分でつくって詞をつけた歌にちがいない。いいメロディなのだけどうまくメリハリがつけてないので、けだるくしまりなく聞えてしまう。つまり、ちょっとワイセツだ。
コード進行を書きとりながら、どこをどうなおせばいいのか、ぼくは頭のなかでヘッド・アレンジをやっていた。
うたいおえた彼女に、奥の席の男たちが、さかんに拍手した。連中は顔なじみらしい。
彼女は、こんどはスカートの下で脚を組み、もう一曲、うたった。ヒットしている柔弱フォークだった。
二曲だけのステージをおえ、彼女は、カウンターに帰ってきた。カウンターのなかの中年女性に舌を出してみせ、ぼくからひとつ置いた席に腰をおろした。
ぼくは、彼女に微笑をむけた。
「きみが、野沢圭子なの?」
彼女は首を振った。
「ううん、私は、松岡ナミっていうの」
「ナミ?」
「そう、カタカナでナミ」
陽焼けしたまっ黒い丸顔だ。
初対面の他人にでも、自分のありったけをぽんと投げ出してしまうような、元気のいい、いさぎよさが感じられた。長いスカートの下で両脚を大きく開き、上半身をぼくのほうにねじり、カウンターに片腕で頬づえをついている。
「いまの歌、おもしろい」
「あら、ありがと。圭子がいないあいだに、ちょっとうたってみたの。お客さんもすくないから」
「じょうずだ」
「まあ、びっくり」
「歌詞を教えてくれ」
レジへ立っていき、メモ用紙を一枚、ナミはひきちぎってきた。
もとの席にすわり、頬づえをつきなおしたナミが言う歌詞を、ぼくは書きとった。
「題名は?」
ナミは、また舌を出した。
「まだ、ないの」
「うたっていい?」
ぼくは、ステージのほうを示した。
「どうぞ」
ほがらかにそう言って、ナミは拍手した。
「おねがいします、大歓迎」
カウンターのなかで、中年の女性が言った。
ステージにいき、ぼくは椅子にすわった。
マイクの位置をなおす。
奥の席の若い男たちが、拍手してよこした。
「拍手は歌を聞いてからでいいよ」
と、ぼくは言った。あきらかに、いまのぼくは、気持が沈んでいる。
ギターをかかえ、うたった。ナミが最初にうたった歌だ。メロディの要所をいくつかしめなおし、美しさがきわ立つようにし、コードをすこし変化させ、ギターのストロークにも特徴をもたせた。うたいおわると、高校生たちがまた拍手した。
ギターを置き、ぼくはカウンターにひき返した。コースターとメモ用紙をカウンターに置き、腰をおろした。
「たいへん、たいへん!」
とナミが言い、ぼくのとなりの席に、スカートを広げてすわった。
「あなた、音楽をやる人なの?」
と、ぼくの腕をつかんだ。
「プロ?」
ぼくは、首を振った。
「ナミちゃんの歌だったわねえ。ナミちゃんが自分でうたうよりも、すっきりしてた。おじょうずなのね」
カウンターのなかで、おばさんはにこにこ笑っていた。
「ねえ、ねえ、ねえ」
ナミがぼくの肩をゆする。
「いまはじめて私の歌を聞いて、編曲しちゃったの?」
「そう」
「うわあ、たいへん」
彼女は、ぼくの肩を抱いた。
「私とあなた、ぜひともお友だちにならなくちゃいけないんだわ」
と、ぼくの顔をのぞきこんだ。
「いやだ」
ぼくが言った。
「女には、もう、こりてるから」
その言葉と入れちがいに、ナミはぼくのわき腹を、す早くこぶしで突いた。痛かった。力まかせなのだ。
「コードも変えたのね」
と、コースターをのぞきこんでいる。
「ねえ。五線紙、持ってくるから、どこをなおしたのか、教えて」
ぼくは、笑った。すこしもいい気分ではない。
「教えて」
「OK」
「あなた、なにをしてるヒトなの?」
「学生。学校には、ほとんどいってないけど」
「音楽の学校?」
「作曲」
「ほんとうなの?」
「将来はベートーベン」
ぼくは、ナミに、きつく抱きつかれてしまった。