私は大きな写生帳と鉛筆箱を抱え、経木の海岸帽子をかぶって、土堤の上を家のほうへと歩いていた。沖の百万坪へスケッチにいった帰りで、洗い晒しの単衣は汗のため肌へねばりつき、尻端折りをしなければやすらかには歩けなかった。あまり優雅な譬えではないが、女性の臀部と猫の鼻も土用の三日だけはあたたかい(失礼)、という通言があるそうで、その日はおそらくその「三日」のうちの一日だったろうと思う。私はうだりきって疲れて空腹で、そうして傾いた西陽に灼かれながら歩いていた。
土堤の右側の下には、例の「ごったくや」といわれる小料理屋が並んでいて、そこを出外れると空地になり、いぶせき独立家屋であるわが家が見える。そこまで来たとき、私に呼びかける女の声が聞えた。
「蒸気河岸の先生よう」とその声は云った、「なにょうそんなにすましてるだえ」
私は声のほうへ振り向いた。
声は土堤の左側の下、つまり根戸川のほうから聞えて来たもので、そちらを見ると、川の中に三人の女がいて私に笑いかけた。それはごったくやの女たちで、三人とも全然まるはだかであった。私の眼の焦点は自動的に拡大し、対象物とのあいだに一種の保護膜を張ったのであるが、それでもなお彼女たちの逞しい肉躰、特に第二次性徴と呼ばれる部分のよく発達した、魅惑的な、というよりもむしろ涜神的なまるみやふくらみが、私の視覚をとらえて放さなかった。
――ここで眼はそらしてはいけない。
私はそのことをよく知っていた。眼をそらすことは、みつめること以上にすけべえなのだ。かつてよそから来た客が通りかかって同じようなけしきを見、仰天して脇へ向いたとき、彼女たちが歓声をあげて嘲弄するのを、見たことがあった。
彼女たちは不景気が続くと、「湯銭もなくなる」そうで、厳冬でない限りは川へはいって躯を洗い、また髪までも洗う。土堤の上は人が往来し、川にも通船やべか舟がのぼり下りしている。しかし彼女たちは少しもたじろがないばかりか、逆に躯の屈伸や捻転動作を誇張し、まばゆいばかりに野性の誘いを放散してみせる。人たちも土地の者である限りは、決して驚いたり顔を赤くしたりするようなことはない。若い漁師や通船の水夫たちは、ごくあたりまえに立停って、彼女たちと率直に会話をとり交わすのであった。
――おうれ、てんで縹緻あげたじゃねえか、お花。
――いいくらかげんのことを云って、むりすんなえ**なあこ。
――嘘じゃあねえまったくに縹緻あげただぞ。
――顔ばっか見るふりいして、ほんとはここが見てえだべ、ここがよ。
そして彼女たちは、腰部前面の或る部分をひたひたと手で叩く、という場面は極めて尋常に見ることができた。これについていつか、三十六号船の船長のブルさんは、殆んど失明しかかっている眼を仔細ありげにまたたきながら、次のように穿った注を加えたことがあった。
――あれは湯銭がねえだけじゃあねえ、半分は客を呼ぶためもあるだよ。
そのときブルさんの殆んど見えない眼が、遠くにあるなにかをさぐるように細められ、肥えて肉のたるんだ皺だらけの顔に、あるいはその顔の一と皮下に、あるかなきかの微笑がゆらぐようにみえた。
川の中から私に呼びかけたのは「若松」という小料理屋の女たちであった。いちばん若いおたつは満州帰りだといい、私が堀でスケッチをしているときに話しかけてから、顔を見れば挨拶をするようになっていた。
「また画え描きか」とおたつが云った、「そんなものどこがいいだえ、そんなことばっかししてえて頭が病めんべえがね」
「どこが病めっかさ」と脇の女が腹部へ水を掛けながら云った、「そんなすました顔うして、ねえ、先生だってやっぱり男は男でしょ、たまには遊ばねえとからだがうんじまうだよ」
私には意味がわからなかったが、もううんじまっていると答えた。すると三人はすさまじい嬌声をあげ、おたつは側にいた女に抱きついたし、残った一人は私のほうへ水をはねとばしながら、先生の****とどなった。
「晩にいってやっからな」私が歩きだすと、うしろでおたつの叫ぶのが聞えた、「戸に鍵をかけねえで待ってなえ」
もちろん誰も来はしなかったが、数日のあいだ私は、自身の躯がうんでいるように感じられて、ときどき快活な気分をさまたげられるのであった。