「砂なんて、おっかしなもんだなあ」と富なあこが云った。
「うう」と倉なあこが云った。
五月十七日の晩で、二人は沖へ魚を「踏み」に来たのであった。汐が大きく退く満月の前後には、浦粕の海は磯から一里近い遠くまで干潟になる。水のあるところでも、足のくるぶしの上三寸か五寸くらいしかない。そこで、馴れた漁師や船頭たちは魚を踏みにゆくのであるが、その方法は、――月の明るい光をあびながら、水の中を歩いていて、「これは」と思うところで立停り、やおら踵をあげて爪先立ちになる。すると足の下に影ができるので、魚がはいって来る。筆者もこころみたことがあるが、魚のはいってくることは慥かで、――はいって来たあと、呼吸を計って、それまで爪先立ちになっていた踵をおろしざまその魚を「踏み」つけ、かねて用意の女串で突き刺す、というぐあいにやるのであった。捕れるのは鰈が多く、あいなめとか、夏になるとわたり蟹なども捕れるが、蟹の場合はべつに心得があった。
「この砂だよ」と、富なあこは、踏んだ魚を女串で刺し、魚といっしょに砂を掴みあげて、魚を魚網へ入れ、砂を掌でもてあそびながら云った、「――こうやってみると、なんでもねえ、ただの砂だ、ただ砂だってだけだ、ほれ、これだけのもんだ、なあ」
「うう」と云って倉なあこはあたりを眺めまわした。
空はきれいに晴れ、十七夜の月が、殆んど頭上にあった。海面には極めて薄く靄がかかっているようで、それが月光を吸い、どちらを見ても青白い、夢幻的な光が遍満していた。こんな晩は同じように、魚を踏みに来ている者が幾組かあるのだろう。どこか遠くで、ときたまかすかに人の声がするが、姿は見えないし、どっちから聞えて来るかも、はっきりはわからなかった。
「ところがおめえ」富なあこは水の中を静かに歩きながら、まだ掌にのせている砂を見て云った、「これはこんなふうに砂っ粒だけみてえに見えるけれど、これでそうじゃあねえ、これでちゃんと生きてるんだぜ」
倉なあこは訝しそうに友達の顔を見た。男ぶりがよくて、口の重い、いつも頬の赤い彼は、決して人にさからうようなことはないが、富なあこの言葉には少なからず不審をいだいたようであった。
「まさか」と倉なあこが呟いた。
「そう思うだろう、誰でもそう思うんだ」と富なあこが云って立停り、水の中で踵をあげた、「――砂はただ砂っ粒、これだけのもんだと思ってる、だがそうじゃねえ、これはこれで生きてるし、生きてる証拠にはおめえ、絶えまなしに育ってるんだぜ」
倉なあこはなにか反問しかけたが、ちょうど魚を踏んだので、巧みに女串を刺し、六寸ばかりの鰈をあげた。
「砂が」と倉なあこは鰈を魚網へ入れながら訊いた、「育つってかい」
「おうよ」と富なあこが云った、「それもただ育つだけじゃねえ、育って大きくなりながら、だんだん川をのぼるんだ、だんだんにな、おらもこれにはびっくりした」
倉なあこは右手の中指で、頭のうしろを掻いた。
「こんな根戸川なんかじゃよくわからねえが、ほかの川へいってみればはっきりすらあ」と富なあこは続けた、「――海に近えところはこまっけえ砂さ、それが上へのぼるにつれて、砂利になり石ころになり、その石ころがもっと大きくなってるもんだ」
「うう」と倉なあこは考えこみ、やや暫くして呟くように云った、「その勘定だな」
「誰もそこに気がつかねえのさ」
「その勘定らしいが」と倉なあこが訊いた、「しかしまた、どうやって川をのぼるだろう」
「おら、この眼で見た、この眼でよ」と富なあこは科学者の冷静さと情熱とをこめて云った、「――川のずっと上へゆくとな、このっくれえの岩が川の中にころがってるんだ、それがおめえ、或るときここいらへんにあるとするだろう」
「うう」と倉なあこは友達の指先を見た。
「するとあるとき、そうさな、――」富なあこは水面を指さした手を、ちょっと考えてから、向うのほうへずらした、「あのへんまでのぼっちゃってるんだ、ここんところから、あのへんまでよ、幾日もたたねえうちに、ときには三間も五間も上へいっちゃうんだ」
「どうやってだ」
「わかんめえ」富なあこはすばらしい手札を持った賭博者のようにほくそ笑んだ、「おらもわかんなかった、どうやって上へのぼるんだか、手も足もねえし、魚のように鰭や尾っぽがあるわけでもねえによ、――それでおら、よーくしらべてみたっけだ」
倉なあこは踵をあげることも忘れ、期待のこもった眼で友達を見まもった。
「するとようやくわかった、こうだ」と富なあこが云った、「つまりこうだ、――ここに大きな岩があるとすべえ、いいか」
倉なあこは黙って頷いた。
「川だから水が流れてる、これにふしぎはねえさ、なあ」と富なあこは手まねをした、「こう、ここに岩があらあ、そこへ水が流れて来るだろう、そうするとおめえ、岩の前のところの砂や泥は、流れに洗われて低くならあ、そいつは海ん中でやっても同じこった、波の来るときに立ってると、退くときに踵の下の砂がへずられるだろう」
「うう」と倉なあこが頷いた、「うしろにひっくりけえりそうにならあ」
「そいつがそのまんま当て嵌まるわけよ、な」と富なあこが云った、「な、水がこう流れる、岩の前の砂がへずられる、へずられるのが大きくなると、その岩はごろっと転がる、上のほうへよ、――水は絶えず流れてるから、岩の下はいつも流れでへずられてら、それが順繰りにずっと繰返されるから、岩はしぜんしぜんと上のほうへ、転がり転がりのぼってくわけだ」
倉なあこは唸った。うーんと、声に出して唸り、それから友達の顔を見て云った。
「知恵のあるもんだな」
「なみたいていじゃあねえさ」
「こんな砂がな」倉なあこは跼んで、水の中から砂を掬いあげ、掌の上へひろげてみながら云った、「おどろいたもんだな」
「だろうって」と富なあこが考えぶかそうに云った、「おらも初めはびっくりしたもんだ、こんな砂っ粒が生きているなんてよ、な」
「そうは思えねえもんな」
「知らねえ者は極楽よ」と富なあこは溜息をついた、「おらもそうとわかるまではなんとも思わなかったっけだ、けれどもわかってみると粗略にゃできねえと思った、ほんとだぜ、そんなに見えていて」と彼は倉なあこの掌上にある砂へと顎をしゃくった、「それでおめえ、ちゃんと生きてるんだからな」
「うう」と倉なあこが云った。
「生きているばかりじゃねえ」と富なあこが云った、「だんだんと大きくなりながら、川上のほうへのぼってゆくんだから、だんだんとな、どこからそんな知恵を絞り出したもんか、考げえてみるとびっくりするばかりだぜ」
「うう」と云って、倉なあこは、掌の上の砂を指で撫でた。
さざ波もたたない静かな海面のどこかで、魚のはねる水の音がし、二人は話しながら、磯のほうへ戻っていった。