← Library‹ 青べか物語 狐火

梅雨つゆのあけかかった或ある夜よる、――高品たかしなさんの家いえの炉端ろばたに、常連じょうれんの蒸気じょうき乗のりや船頭せんどうたちが集あつまって、茶ちゃと菓子かしをつまみながら話はなしていた。雨あめはあがったが気温きおんが高たかく、障子しょうじをあけ放はなした縁側えんがわのほうから、ときどきひんやりした微風びふうが吹ふきこんで来きた。

私わたくしは末吉すえよしエンジナーと五目ごもく並ならべをしていた。末吉すえよしエンジは四十よんじゅうがらみで、蒸気じょうき乗のりだから色いろは黒くろいが、細ほそおもてのなかなかな美男びなんであり、さぞ女おんなにももてるだろうし、道楽どうらくもするだろうと思おもわれるが、実際じっさいには酒さけもタバコも口くちにしないし、子供こどものない夫婦ふうふっきりの生活せいかつは、極度きょくどに倹約けんやくだといわれていた。――一いち例れいをあげると、月給げっきゅうはそのまま郵便ゆうびん貯金ちょきんにしてしまい、生活せいかつ費ひは高品たかしなさんの奥おくさんから借かりるのである。むろん計画けいかく性せいに立たつ倹約けんやく生活せいかつだから、借かりる金額きんがくもさして多おおくはないし、次つぎの月給げっきゅう日ひにはきちんと返済へんさいする。そして残のこりはまたそっくり郵便ゆうびん局きょくへ持もってゆき、金きんが必要ひつようになると高品たかしなさんの奥おくさんから借かりるのであった。

――たいしたお金かねじゃないから貸かし惜おしみをするわけじゃないわよ、と高品たかしな夫人ふじんはいつか私わたくしに語かたった。だけれど郵便ゆうびん局きょくへ預あずけた分ぶんには利子りしが付つくでしょ、自分じぶんのお金かねには利子りしが付つくようにしておいて、生活せいかつ費ひのほうは人ひとから借かりるなんてこすいじゃないの。

貧まずしさから生うまれる知恵ちえはつつましく、そしてたいていはかなしいものだ。末吉すえよし夫妻ふさいの知恵ちえは貧まずしさから生うまれたものではない。夫妻ふさいの生活せいかつは貧まずしいものだろうが、その知恵ちえは貪欲どんよくに通つうじるように思おもえる。

――いまに高利こうり貸かしでもやるつもりだろうさ。

蒸気じょうき乗のりたちは蔭かげでそう云いっていた。

私わたくしは末吉すえよしエンジと五目ごもく並ならべをしながら、相手あいての置おく石いしの一ひとつ一ひとつが、みな三さん四よん、または四よん四よんになるような、極きわめてゆだんのならない気分きぶんを味あじわっていた。そのうちに高品たかしな夫人ふじんが、あら狐火きつねびだわと云いい、縁側えんがわの外そとのほうを指ゆびさした。――十じゅう坪つぼばかりの庭にわのはずれに、垣根かきねのようになった樹立こだちがあり、そこから先さきはずっと田圃たんぼつづきで、あいだにバスの通とおる道みちがあるほかは、殆ほとんど家いえもなかった。そのときは夜よるであったし、梅雨空つゆぞらのことでまっ暗くらだから、田植たうえの済すんだ田たの面もさえ弁別べんべつできなかったが、かなり遠とおいところに、赤あかい小ちいさな火ひが七ななつか八ようつ、横よこに並ならんでいるのが見みえた。

「どじょう捕とってるだよ」と三十さんじゅう六ろく号ごう船せんの留とめさんが云いった、「田植たうえのあとでは鉾田ほこたのほうでもよくやるだ、ありゃあどじょうを寄よせるカンテラだよ」

だが留とめさんは急きゅうに黙だまった。

その赤あかい火ひの群むれが、左ひだりと右みぎへひろがり、同時どうじに数かずも三さん倍ばいくらいになった。少すくなくとも二十にじゅうくらいになり、その位置いちも一いち段だんほど上うえへあがったのである。これは人ひとの話はなしではなく、私わたくしが現実げんじつに自分じぶんの眼めで見みたことだ。その赤あかい火ひは初はじめ七ななつか八ようつであり、それが突然とつぜん、左右さゆうへ数かずを増ましてひろがり、一いち段だんほど高たかくあがったのだ。

「狐火きつねびだ」と留とめさんが云いった、「おっかねえ」

「留とめさん初はじめてじゃないでしょ」と高品たかしな夫人ふじんが云いった。

「おら見みねえことにしてるだ」と留とめさんは答こたえた、「あれを見みると化ばかされるっていうだからな」

「どう化ばかされるだ」と漁師りょうしの吉きちさんが訊きいた、「おめえもう見みちまったじゃねえか」

「おらを見みてくれ」と留とめさんは振ふり向むき、自分じぶんが固かたく眼めをつむっていることを示しめした、「狐火きつねびだなと思おもったからおらすぐに眼めをつむっただ、みんなも見みねえほうがいいだよ」

「どう化ばかされるだってば」

「よくは知しらねえが」と留とめさんはあたりを憚はばかるように云いった、「あの火ひはまやかしだってえだ、向むこうに火ひを見みせておいて、狐きつねはすぐ側そばにいるだ、そして人間にんげんが火ひに見みとれているうちに、たましいを抜ぬいちまうって云いうだよ」

「たましいを抜ぬいてどうするだ」

「化ばかすのよ」と留とめさんが云いった、「人間にんげんにたましいがあるうちは化ばかせやしねえ、だからまず先さきにたましいを抜ぬくだってえだ」

「へえ」と吉きちさんが云いった、「へええ、おら初はじめて聞きいた」

吉きちさんはなお留とめさんに構かまい続つづけた。

私わたくしは狐火きつねびのほうを見みていた。その火ひはまた変化へんかして、元もとの位置いちにさがり、数すうも七ななつか八ようつになった。そうかと思おもうと等とう間隔かんかくのまま左ひだりへ大おおきく移動いどうし、安あんガラスをとおして見みるように歪ゆがみ、こちらの瞳孔どうこうが震顫しんせんするように、不ふ安定あんていに揺ゆれながら、また左右さゆうへひろがって、二十にじゅう以上いじょうにも数すうが殖ふえた。

――気流きりゅうのいたずらだな。

私わたくしはそう思おもった。密度みつどの異ことなる気流きりゅうの層そうが交まじわると、一種いっしゅの蜃気楼しんきろうに似にた現象げんしょうを起おこす、といったようなことを読よんだ覚おぼえがある。その夜よるは気温きおんが高たかく、梅雨つゆどきらしく蒸むしていたが、ときどきひんやりした微風びふうが吹ふいて来きた。おそらくそんな気象きしょう状況じょうきょうがそういう現象げんしょうを見みせるのであろう。事実じじつは留とめさんの云いったとおり、どじょうを捕とるカンテラ火ひで、数すうも七ななつか八ようつにちがいない。眼めに変化へんかして見みえるのは虚像きょぞうなのだ、私わたくしはそう思おもったが、誰だれにも話はなすつもりはなかった。

「いいかげんにしろよ、吉きち」と末吉すえよしエンジが云いった、「留とめさんをからかったって一いち文ぶんにもなるわけじゃなかんべえに」

彼かれは狐火きつねびにさえ関心かんしんがないらしい。ずっと碁盤ごばんの上うえをみつめていたらしい眼めを、ゆっくりとあげて私わたくしに云いった。

「先生せんせいの番ばんだよ」

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