或る日、――私は船宿「千本」の長を伴れて、浅草へ映画を見にいった。たぶん大勝館だったろう、やっていたのは猛獣狩り映画で、たしか「ザンバ」という題だったと思う。思い違いかもしれないのではっきりは云いきれないが、アメリカだかイギリスだかの夫婦の探検家が、アフリカの奥地で猛獣狩りをする、という筋だったことは覚えている。
この小学三年生の、こまっちゃくれの長は、映画が始まると同時に120%まで昂奮してしまった。彼はシートから身を乗り出し、両手を拳にして、頭を押え、口を押え、膝を叩き、また胸へぎゅっと押しつけたりした。小さな顔は赤くなって、眼は殆んど殺気を帯び、呼吸はときに深く、また喘ぐように激しく、もっともエキサイトすると拳を口に当てて息を止めた。
あらゆる画面で、彼は猛獣どもに呼びかけ、探検家夫妻に注意を与えた。
「ライオンだライオンだ」と長は喚く、「見せえま、先生、生きてるライオンだぞ」
周囲の観客はびっくりして彼を見る。ライオンは仕掛けた罠檻のほうへ歩いてゆく。
「やい危ねえぞ」と長はライオンに呼びかける、「そっちいいくと捉まっちまうぞ、いっちゃだめだ、ええ、だめだってえにな、捉まっちまうったらな、ええライオンのばかやつら、こっちい来いってば」
ライオンは檻の罠にはいり、仕掛けの戸がばたっと落ちる。彼は拳を口へ入れ、ふるえながら眼を裂けるほど大きくみひらく。そして拳を口から出して、「ばかやつら」と、泣きそうな声で呟く、「ライオンのばかやつら」
画面の前景ににしき蛇が写る。ジャングルのなにかの樹に絡みついていて、おとなの腕ほどもある鎌首をあげ、葉の茂み越しに、向うから近づいて来る探検家夫妻を狙っている。長は息を詰め、身を乗り出して、前のシートの背を両手でつかむ。
「こっちへ来るな、危ねえぞ」と長は探検家夫妻に向って警告の叫びをあげる、「ここにでえじゃ(大蛇)がいるぞ、あっちいいけ」
だが探検家夫妻はおろかにも、長の警告には耳も貸さず、のそのそこっちへやって来る。
「ええばかやつら」長は両の拳で力いっぱい自分の頭を挟み、がたがたふるえながら絶叫する、「でえじゃがいるのも知らねえだ、ええばかやつら、呑まれちゃうだ、二人とも呑まれちゃうだ、ええばかやつら、いいきびだ、二人とも呑まれちゃうだ」
にしき蛇はさっとアタックをかけ、先頭にいた探検家の良人の腕に噛みついた。長は片方の拳を口へ突込み、肺いっぱいに吸いこんだ息を止めた。私はそのとき、彼の小さな心臓がドラム缶のようにふくれあがり、大太鼓の乱打のような搏動をするのが感じられた。――周囲の観客はこの小さな正義の騎士にすっかり興を唆られ、彼が画面に向ってなにか叫ぶたびに、指さしたり笑ったり、互いに小突きあったりしたが、長はぜんぜん気づかず、肉躰的にも精神的にも、余すところなく映画の中へ溶け込んでいた。
「みんなばかやつらだ」長は猛烈に憤慨して云った、「虎も犀もばかやつらだし、あの毛唐もばかやつらだ、こんなに肝煎ったこたありゃしねえ、ええつまんねえ、出べえや、なあ、出ちまうべえよ先生」
映画館を出てから、私は彼を洋食屋へ伴れていった。彼の憤慨は少しもしずまらず、そこのトンカツにもカレーライスにもけちをつけ、「浦粕の四丁目(洋食屋)のほうがずっとうめえや」と云った。私は一本のビールを啜りながら、「ザンバ」がいかに演出されたものであるか、ということを概説した。
「あのにしき蛇のところを考えてみろよ」と私は云った、「あの蛇が樹の枝にからまっていたろう、いいか、その向うから探検家が来るだろう、このフォークが探検家とする、な、蛇がこのナイフだ、とするとカメラはこっちにあるこのマッチさ」
「カメラってなんだ」
「活動写真を撮影する機械さ、うう」と私は考えて云った、ここでムービー・カメラの説明をすると話がこんがらかるからである。「機械があって、そのまわりには撮影技師だの助手だの、たぶん猛獣使いだのもいるんだ、あ、あ」と私は長の質問を止めた、「だから、蛇が樹にからまってるところは、こっちの連中、つまりカメラのまわりにいる連中にはちゃんとわかっているんだ」
「どうしてわかってるだ」
「だってこのフォークとナイフのこっちにマッチがあるだろ、そしてマッチのところから撮影した画面に、手前のナイフ、いや、にしき蛇とその向うのフォーク、つまり探検家が写ってた、そうだろう、とすればマッチのところから蛇は眼の前にいることになるじゃないか、つまり撮影技師や助手やたぶん猛獣使いなんかには、ちゃんとそこに蛇のいることがわかっているんだ」
「うん」長は少し考えてから訊き返した、「じゃあ、どうしてそいつらはあの毛唐に教えてやらねえんかい」
「教える必要はないさ、探検家のほうでもそこに蛇のいることは知ってるんだ」
「知っててどうして除けねえだ、毛唐はでえじゃに食いつかれちまったべがえ」
「それはだな」と私はうまく説明しようと思った、「つまり、面白く見せるために、初めからそうするようにちゃんと相談ができているんだ」
「誰が面白がるんだえ」
「見物さ」と私は云った、「長だって面白かったろう」
「誰が、おんだらがかい、ちぇっ」と長は鼻柱へ皺をよせ、軽侮に耐えないというふうに口をへし曲げた、「おもしれえもんか、あんな肝煎ったこたありゃしねえ、それによ」と彼は唇を舐めた、「あのきけえの側に誰かいて、でえじゃのこと知ってるのに知らねえふりしてるなんて気が知れねえや、ライオンも虎もばかやつらだし、毛唐もきけえの側にいたやつもみんなばかやつらだ、あんなよ、ばかやつらばかり出て来るかつどうがどこがおもしれえのかい、へっ、つまんねえ」
私は浦粕へ帰るあいだ、なんの理由もないのだが、小説の表現技術について、あれこれと考えめぐらしたことを覚えている。――町へ帰ってから、長はみんなに「ザンバ」の話をして聞かせたが、それはその映画の製作者や提供会社の人たちが、厭世観にとらわれるだろうと思われるほど、辛辣であり無遠慮なものであった。――私は二度と長を映画見物には伴れていかなかった。