私は青べかを三つ𣱿へ漕ぎ入れ、川やなぎの茂っている、土堤の蔭のところで停めて、鮒を釣りにかかった。――そこは沖の百万坪の端に近く、土堤の上を通る人も殆んどない。晩秋の午後の陽があたたかく、そよ風も吹かず、水路の水は眠ったように静かで、澄みあがった空と雲とをはっきり映していた。――例によって釣りの腕前は知れているから、小さなきんこと称する鮒を三尾に、やなぎっ鮠を五尾ほどあげると、それでくいが止ってしまった。場所を移して釣るほどの気持もなかったし、陽のあたたかさと、周囲の静かさが気にいったので、私は青べかの中で横になり、躯を楽にして、持って来た本を読み始めた。
本を読み始めはしたが、いくらも読み進まないうちに眠くなり、陽の光を除けるために、ちょっと顔へ本を伏せたと思ったが、そのまま眠ってしまったらしい。どのくらい経ってからだろう、眼をさますと、すぐ近くで人の話す声が聞えた。私は起き直って本を閉じ、釣竿をあげて帰り支度にかかったが、ふと、その話し声にひきつけられて手を止めた。
「よう、いいじゃねえかよ、なあ」と若わかしい男の声がなにかをせがんでいた、「なあってば、なんでもありゃしねえだからよう」
「よしな、まあ」と女の拒む声がした、「おらそんなこと知らねえもの、ええ、よせってばあ、悪いことすんならおらけえるだ」
「とくあねが病気になっただって」と男の声が云った、「きんのけえって来たってほんとかよ」
「おら知んね、ああ知ってる」女の声は少しやわらいだ、「流産してっからあんべえが悪いだって、暫く家で養生するような話だっけだ、いやんなっちゃう」
「なにがよ」
「女がよ、お産だの流産だのって、苦しいめにあうのはいつも女だ、ひん」慥かにそのとき女は「ひん」という声をだした、「あああ、いやだ」と女の声は続けた、「世の中に男ってものがいっから女が苦しむだ、男なんかみんないなくなればいいだ」
「女だって苦しむだけじゃねえだよ」と男が云った、「そうじゃねえだよ」どうやら彼には反論がみつからないとみえ、また話を変えた、「中堀のみよっこが足を挫いたってことを知ってっか」
「知ってなくってさ、みよっこは、――よしな、まあ、いけ好かねえ」
「痛えな、そんなことしなくってもいいじゃねえか」
「よわ虫、なにさこんくれえなこと」
「痛えってば」
そこでちょっと声がとだえ、口笛のような妙な声が聞えた。なんの音かはすぐにわかった。芒の葉を横にして唇に当て、中ぐらいの息で吹くのである。草笛とは違うが、単純な田舎めいた顫震音が出るのだ。恋をさそいかけている若者にしては、子供っぽいことをするな、と私は思った。女がそんなことをよろこぶ筈はない、まもなく「あああ」と女が退屈の声をあげ、男は芒笛をやめた。
「おめえさっき女ばっかり苦しいめにあうって云ったっけが」と男が云った、「それがわかっていてどうして嫁にゆく女が絶えねえだえ、嫁にゆくめえにだって、男をこしらえる女は数えきれねえくれえいんじゃねえか」
「そりゃあみんな男が悪いからさ、男がうめえこと云って騙すから、つい本気んなって苦しいめにあっちまうだ、昔っからいつも男が悪いために」
「りょうは新しいべか舟を買っただな」と男が云った、「元のべか舟はじいさまの代からのもんで、浦粕一のぶっくれ舟だっけだが」
男は次に散髪屋で湯沸し器を買ったことや、消防組の組員の変ったことや、どこそこの誰かがどこそこへいったとか、その場の空気とはまったく無縁な話を、続けさまにきりもなく並べた。そうして、女が聞きくたびれたと思われるころ、また急に恋のくどきに戻った。
「女が騙されるって云うけれど、そりゃあ男が騙すんじゃねえ、女が騙されるようにできてんからだべえ」
「女がどうできてるって」
「女の躯にゃあ男と違ったきけえがあんだ」と男が云った、「どんなきけえだっていつも使ってるか、油あさして掃除をしなけりゃあ錆びっちまう、女のきけえだって放っとけば錆びついて使いものにならなくなるだ、だから」
「だから錆びねえように騙されるっていうのけえ、ひん」と女が云い返した、こんども間違いなく「ひん」と聞え、女はさらに続けた、「錆びねえようにまちょうに掃除のできるきけえを持ってる男がいたらおめにかかりてえよ」
恋の囁きにしてはあまりに率直すぎると読者の中には疑惑をいだく向きもあろうかと思うが、彼女が率直すぎることよりも、むしろ浦粕ではこんなに根気よく、恋のさそいかけをすることのほうが稀なのである。そのとき私は、男の正攻法に対して敬意を感じた。
「ためしてみっか」と男が云った、「まちょうに掃除ができねえかできっか、ためしてみねえじゃわかりゃしねえや」
「よせってばな、まあ」
「痛え、おお痛え、ひどえことすんな、ま」
「いやなことすっからよ」
「いしゃ爪が生えてんな」と男が云った、「よしこは小指の爪をいつも伸ばしてんだな、こんなにも長くよ、どういうつもりだかさ」
それから伝なあこが蛇を食ったとか、東の養魚場で池の上いちめんに網を掛け、それは鴉や鳶をふせぐためだが、養魚池は三千坪もあるから、網だと云っても安い金ではあるまい、などという話をした。
「ああ聞きたくもねえ」と女がやがて欠伸をして遮った、「そんな話するために、わざわざこんなとけへおらを呼んだだかい」
「そんだっていしがおらの云うこときいてくんねえじゃねえかい」
「それでそうやって饒舌ってるだか」と女が云った、「そうやって饒舌るだけ饒舌ってれば、いまにおらのほうから手でも出すと思ってるだかえ、ひん、つまんねえ」
「おら、この気持を知ってもらいたかっただよ、おらの本当の気持をよ」
「散髪屋の湯沸しだの養魚池の網だのでけえ、あああ」と女が云った、「おらけえるべえ」
男が慌てて女を呼び止めたが、女は返辞もしずに土堤へあがって来、そのままさっさと根戸川のほうへ歩み去った。――私が川やなぎの蔭から見ると、それはまだへこ帯をしめている、十五か十六くらいの少女であった。男はもそもそと、少女のあとを不決断に追っていったが、その男は二十五か六で、缶詰工場の工員のように感じられた。――彼はおそらくよその生れであって、この土地での恋のやりかたを知らなかったのであろう。それとも気が弱いだけだったのか。いずれにせよ、少女が怒って帰ったのは、男があいびきの目的に対して勇敢でなかったからに相違ない。私はそんなことを考えながら、帰り支度にかかった。