← Library‹ 青べか物語 土堤の春

初午はつうまの宵よいの七なな時じころ、「蒸気じょうき河岸がしの先生せんせい」は窓際まどぎわの机つくえに向むかって原稿げんこうを書かいていた。田圃たんぼを隔へだてた町まちのほうから、太鼓たいこや笛ふえの音おとが、高たかくなり低ひくくなり、跡切とぎれたかと思おもうと急きゅうに拍子ひょうしを早はやめたりして、聞きこえて来きた。先生せんせいはにやにやしながら独ひとり言ごとを呟つぶやく、書かいている史劇しげきの中なかのせりふが気きにいったらしい。

安倍あべ晴明せいめい(胸むねを反そらせて)「私わたくしは博士はかせ安倍あべ晴明せいめいだ」

弘高ひろたか(片手かたてをあげて)「神慮しんりょ汝なんじの上うえに安やすかれ」(大股おおまたに去さる)

声こえに出だして読よんでみてから、火鉢ひばちにかけてある鍋なべのほうを見みた。鍋なべの中なかでは鮒ふなの味噌煮みそにがことこと音おとを立たててい、味噌みそと川魚かわざかなとの入いり混まじったうまそうな匂においが、蓋ふたの隙間すきまから漂ただよいながれていた。

蒸気じょうき河岸かしのほうから、土堤どていの上うえをこちらへ近ちかづいて来くる、賑にぎやかな人声ひとごえが聞きこえた。先生せんせいはまたペンを取とった。人声ひとごえはもっと近ちかづいて来き、それが子供こどもたちだとわかったとき、かれらはうたいだした。

「おーかんけ(大だい勧化かんげ)おーかんけ おいなりさんのおーかんけ」

かれらは先生せんせいの家いえを見みおろすところまで来きて、土堤どていの上うえからうたい続つづける。

「おぞーに(雑煮ぞうに)とおーあげ おあげのだんからおっこって あーかい***ーすりむいた こーやくだい(膏薬こうやく代だい)にくれせーま くれせーま」

先生せんせいは机つくえの前まえで躯からだを固かたくしている。土堤どていの上うえでは子供こどもたちの相談そうだんする声こえが聞きこえる。

「いんだよいんだよ」と云いう声こえがする、「見みせえま、電気でんきがついてんべえがね」

かれらはまたなにか相談そうだんをし、声こえをそろえて、まえよりも勇いさましく誘惑ゆうわく的てきにうたいだす。もちろん文句もんくは同おなじもので、先生せんせいは殆ほとんど息いきをころしている。するとかれらの中なかから、船宿ふなやど「千本せんぼん」の長ちょうの呼よびかける声こえがする。

「先生せんせい、百ひゃくでも二百にひゃくでもいいだよ」

先生せんせいは可笑おかしくなって、というのは、そのとき先生せんせいのふところは極きわめてさみしく、そういう喜捨きしゃに応おうずることができなかったからで、つまりそれが可笑おかしかったのであるが、先生せんせいは辛抱しんぼうづよく沈黙ちんもくを守まもっていた。すると「千本せんぼん」の長ちょうが譲歩じょうほしてどなった、「先生せんせい、銭ぜにでなくってもいいだよ、蜜柑みかんでも餅もちでもいいだよ」

そしてしんとなった。電燈でんとうの光ひかりで明あかるい窓まどをみつめながら、じっと反応はんのうを待まっている子供こどもたちの、一人ひとりひとりの顔かおが、先生せんせいには眼めに見みえるように思おもえた。

「いくべいくべ」と他ほかの少年しょうねんが云いった、「先生せんせいはきっとまた根ね戸川とがわ亭ていで飲のんでるだ」

「押おすな」と長ちょうの声こえがした、「押おすなってえにえーばちばらすぞ」

かれらはがやがや騒さわぎながら、蒸気じょうき河岸かしのほうへ戻もどっていった。先生せんせいは難なんをのがれてほっとし、机つくえに両肱りょうひじで凭もたれ、手てで額がくを支ささえながら眼めをつむった。

「おーかんけ おーかんけ」川下かわしものほうへ遠とおのいていく唄声うたごえが聞きこえて来きた、「おいなりさんのおーかんけ おぞーにとおーあげ おあげのだんからおっこって……」

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