← Library‹ 雨あがる 一

もういちど悲鳴ひめいのような声こえをあげて、それから女おんなの喚わめきだすのが聞きこえた。

――またあの女おんなだ。

三沢みさわ伊兵衛いへえは寝ねころんだまま、気きづかわしそうにうす眼めをあけて妻つまを見みた。おたよは縫ぬい物ものを続つづけていた。古袷ふるあわせを解といて張はったのを、単衣ひとえに直なおしているのである。茶色ちゃいろに煤すすけた障子しょうじからの明あかりで、痩やせのめだつ頬ほおや、尖とがった肩かたつきや、針はりを持もつ手指しゅしなどが、窶やつれた老女ろうじょのようにいたいたしくみえる。だがきちんと結ゆった豊ゆたかな髪かみと、鮮あざやかに赤あかい唇くちびるだけは、まだ娘むすめのように若わかわかしい。子供こどもを生うまないためでもあろうが、結婚けっこんするまでの裕福ゆうふくな育そだちが、七なな年間ねんかんの苦くるしい生活せいかつを凌しのいで、そこにだけ辛かろうじて残のこっているようでもあった。

外そとは雨あめが降ふっていた。梅雨つゆはあけた筈はずなのに、もう十じゅう五ご日にちも降ふり続つづけで、今日きょうもあがるけしきはない。こぬか雨あめだから降ふる音おとは聞きこえないけれども、夜よるも昼ひるも絶たえ間まのない雨垂あまだれには気きがめいるばかりだった。

「泥棒どろぼうがいるんだよ此処ここには、泥棒どろぼうが」女おんなのあけすけな喚わめき声ごえは高たかくなった、「ひとの炊たきかけの飯めしを盗ぬすみやがった、ちょっと洗あらい物ものをして来くる間まにさ、あたしゃちゃんと鍋なべに印しるしを付つけといたんだ」

伊兵衛いへえはかたく眼めをつむった。

――珍めずらしいことではない。

街道かいどう筋すじの町まちはずれのこういう安宿やすやどでは、こんな騒さわぎがよく起おこる。客きゃくの多おおくはごく貧まずしい人ひとたちで、たいていが飴あめ売りとか、縁日えんにち商人しょうにんとか、旅たびを渡わたる安やす旅たび芸人げいにんなどだから、少すこし長ながく降ふりこめられでもすると、食くう物ものにさえ事欠ことかき、つい他人たにんの物ものに手てを出だす、という者ものも稀まれではなかった。

――だが泥棒どろぼうとはひどすぎる、泥棒どろぼうとは。

伊兵衛いへえは自分じぶんが云いわれているかのように、恥はずかしさと済すまないような気持きもちとで、胸むねがどきどきし始はじめた。

女おんなの叫さけびは高たかくなるばかりだが、ほかには誰だれの声こえもしなかった。こちらの三さん帖じょうの小こ部屋へやからは見みえないけれども、炉ろのあるその部屋へやには十じゅう人にんばかりも滞在たいざい客きゃくがいる筈はずである。なかに子持こもちの夫婦ふうふづれも二にた組くみいて、小ちいさいほうの子供こどもは一いち日にちじゅう泣ないたりぐずったりするのだが、今いまはその子こさえ息いきをひそめているようであった。

女おんなは日蔭ひかげのしょうばいをする三十さんじゅう年増どしまで、ふだんから同宿どうしゅく者しゃとの折合おりあいが悪わるかった。誰だれも相手あいてになる者ものがなく、みんなが彼女かのじょを避さけていた。もちろん軽蔑けいべつではない。自分じぶんじぶんが生いきることで手ていっぱいな人ひとたちには、職業しょくぎょうによって他人たにんを卑いやしめるような習慣しゅうかんも暇ひまもなかった。かれらが女おんなを避さけるのは、彼女かのじょの立たち居いがあまりに乱暴らんぼうで、棘とげとげしくって、また仮借かしゃくのない凄すごいような毒口どくぐちをきくからであった。つまりいちもくおいているわけであるが、彼女かのじょはそうは思おもわないようすで、常つねにあからさまな敵意てきいをかれらに示しめしていた。

半月はんつきも降ふりこめられて、今いまみんなが飢うえかけているのに、そんなしょうばいをしているためか、彼女かのじょだけは(乏とぼしいながら)煮炊にたきを欠かかさなかった。それは日頃ひごろの敵愾心てきがいしんと自尊じそん心しんを大おおいに満足まんぞくさせているようであった。

「あんまりだなあ、あれは」

伊兵衛いへえはこう呟つぶやいて、女おんなの叫さけびがますます高たかく、止とめ度たびもなく辛辣しんらつになるのに堪たまりかねて、起おきあがった。

「あれではひどい、もし本当ほんとうにそれがそうだったとしても、あんなふうに人ひとの心こころもちが痛いたむようなことを云いうのはよくないと思おもうな」

独ひとり言ごとのように呟つぶやきながら、そっと妻つまの顔色かおいろをうかがった。彼かれは背丈せたけも高たかいし、肩かたも胸むねも幅はばひろく厚あつく、肉にくのひき緊ったいい躯からだである。ふっくらとまるい顔かおはたいそう柔和にゅうわで、尻下しりさがりの眼めや小ちいさな唇くちつきには、育そだちの良よい少年しょうねんのような清潔せいけつさが感かんじられた。

「ええ、それはそうですけれど」

おたよは縫ぬったところを爪つめでこきながら、良人おっとのほうは見みずに云いった。

「みなさんももう少すこし親切しんせつにしてあげたらと思おもいますわ、あの方かたは除のけ者ものにされていると思おもって、淋さびしいので、ついあんなに気きをお立たてになるんですもの」

「それもあるでしょうが、それにはあの女おんなの人ひとがもう少すこしなんとか」

伊兵衛いへえはぴくっとした。女おんながついに人ひとの名なをさしたのである。

「なんとか云いわないか、え、そこにいる説教せっきょう節せつの爺じじい」

女おんなの声こえはなにかを突刺つきさすようだった。

「――しらばっくれたってだめだよ、あたしゃ盲もうじゃないんだ、おまえが盗ぬすんだぐらいのことは初はじめっからわかってるんだ、いつかだって」

伊兵衛いへえはとびあがった。

「いけません、あなた」

おたよが止とめようとしたが、彼かれは襖ふすまをあけて出でていった。

そこは農家のうかの炉ろの間あいだに似にた部屋へやで、片方かたほうが店先みせさきから裏うらへぬける土間どまになっている。畳たたみは六ろく帖じょうと八はち帖じょうが鍵形かぎがたにつながって敷しかれ、上あがり端はなの板敷いたじきとの間あいだに大おおきな炉ろが切きってある。農家のうかと違ちがうのは天床てんじょうが低ひくいのと、たいていの客きゃくがべつに部屋へやを取とらず、そこでこみあって寝ねるし、鍋釜なべかまを借かりてその炉ろで煮炊にたきもするため、それらに必要ひつような道具どうぐ類るいが並ならんでいることなどであった。

その女おんなは炉端ろばたにいた。片手かたてをふところに入いれ、立膝たてひざをして、蒼白あおじろく不ふ健康けんこうに痩やせた顔かおをひきつらせ、ぎらぎらするような眼めであたりを睨にらみまわし、そうして劈つんざくような声こえで喚わめきたてる、――他たの客きゃくたちはみな離はなれて、膝ひざを抱かかえてうなだれたり、寝ねそべったり、子供こどもをしっかり抱いだいたりして、じっと息いきをころしていた。それは嵐あらしの通過つうかするのを辛抱しんぼうづよく待まっている喪家そうかの犬いぬといった感かんじだった。

「失礼しつれいですがもうやめて下ください」

伊兵衛いへえは女おんなの前まえへいって、やさしくなだめるように云いった。

「此処ここにはそんな悪わるい人ひとはいないと思おもうんです、みんな善よい人ひとたちで、それは貴女あなたも知しっていらっしゃるでしょう」

「放ほうっといて下ください」女おんなはそっぽを向むいた、「――お武家ぶけさんには関かかわりのないことですよ、あたしゃ卑いやしい稼業かぎょうこそしていますがね、自分じぶんの物ものを盗ぬすまれて黙だまってるほど弱よわい尻しりは持もっちゃいないんですから」

「そうですとも、むろんそうですよ、しかしそれは私わたくしが償つぐないますから、どうかそれで勘弁かんべんすることにして下ください」

「なにもお武家ぶけさんにそんな心配しんぱいをして頂いただくことはありませんよ、あたしゃ物ものが惜おしくって云いってるんじゃないんですから」

「そうですとも、むろんですよ、しかし人間にんげんには間違まちがいということもあるし、お互たがいにこうして同おなじ屋根やねの下したにいることでもあるし、とにかくそこは、どうかひとつ、私わたくしがすぐになんとかして来きますから」

それだけ云いうと、伊兵衛いへえはなにやら忙いそがしそうに立たっていった。

「誓文せいもんは誓文せいもん、これはこれ」

宿やどの名なを大おおきく書かいた番傘ばんがさをさして、外そとへ出でるとすぐ彼かれはこう独ひとり言ごとを云いい、擽くすぐられでもするように微笑びしょうをうかべた。

「眼めの前まえにこういう事ことが起おこった以上いじょう、自分じぶんの良心りょうしんだけ守まもるというわけにはいきませんからね、ええ、それは却かえって良心りょうしんに反はんする行為こういですよ、いや」彼かれはふとまじめな顔かおになり、「――いや、なにもしないんだから行為こういとはいわないでしょう、無む行為こうい、ともいわないですね」

わけのわからないことを呟つぶやきながら、ひどくいそいそと、元気げんきな足あしどりで、城下じょうか町ちょうのほうへ歩あるいていった。

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