もういちど悲鳴のような声をあげて、それから女の喚きだすのが聞えた。
――またあの女だ。
三沢伊兵衛は寝ころんだまま、気づかわしそうにうす眼をあけて妻を見た。おたよは縫い物を続けていた。古袷を解いて張ったのを、単衣に直しているのである。茶色に煤けた障子からの明りで、痩せのめだつ頬や、尖った肩つきや、針を持つ手指などが、窶れた老女のようにいたいたしくみえる。だがきちんと結った豊かな髪と、鮮やかに赤い唇だけは、まだ娘のように若わかしい。子供を生まないためでもあろうが、結婚するまでの裕福な育ちが、七年間の苦しい生活を凌いで、そこにだけ辛うじて残っているようでもあった。
外は雨が降っていた。梅雨はあけた筈なのに、もう十五日も降り続けで、今日もあがるけしきはない。こぬか雨だから降る音は聞えないけれども、夜も昼も絶え間のない雨垂れには気がめいるばかりだった。
「泥棒がいるんだよ此処には、泥棒が」女のあけすけな喚き声は高くなった、「ひとの炊きかけの飯を盗みやがった、ちょっと洗い物をして来る間にさ、あたしゃちゃんと鍋に印を付けといたんだ」
伊兵衛はかたく眼をつむった。
――珍しいことではない。
街道筋の町はずれのこういう安宿では、こんな騒ぎがよく起こる。客の多くはごく貧しい人たちで、たいていが飴売りとか、縁日商人とか、旅を渡る安旅芸人などだから、少し長く降りこめられでもすると、食う物にさえ事欠き、つい他人の物に手を出す、という者も稀ではなかった。
――だが泥棒とはひどすぎる、泥棒とは。
伊兵衛は自分が云われているかのように、恥ずかしさと済まないような気持とで、胸がどきどきし始めた。
女の叫びは高くなるばかりだが、ほかには誰の声もしなかった。こちらの三帖の小部屋からは見えないけれども、炉のあるその部屋には十人ばかりも滞在客がいる筈である。なかに子持ちの夫婦づれも二た組いて、小さいほうの子供は一日じゅう泣いたりぐずったりするのだが、今はその子さえ息をひそめているようであった。
女は日蔭のしょうばいをする三十年増で、ふだんから同宿者との折合いが悪かった。誰も相手になる者がなく、みんなが彼女を避けていた。もちろん軽蔑ではない。自分じぶんが生きることで手いっぱいな人たちには、職業によって他人を卑しめるような習慣も暇もなかった。かれらが女を避けるのは、彼女の立ち居があまりに乱暴で、棘とげしくって、また仮借のない凄いような毒口をきくからであった。つまりいちもくおいているわけであるが、彼女はそうは思わないようすで、常にあからさまな敵意をかれらに示していた。
半月も降りこめられて、今みんなが飢えかけているのに、そんなしょうばいをしているためか、彼女だけは(乏しいながら)煮炊きを欠かさなかった。それは日頃の敵愾心と自尊心を大いに満足させているようであった。
「あんまりだなあ、あれは」
伊兵衛はこう呟いて、女の叫びがますます高く、止め度もなく辛辣になるのに堪りかねて、起きあがった。
「あれではひどい、もし本当にそれがそうだったとしても、あんなふうに人の心もちが痛むようなことを云うのはよくないと思うな」
独り言のように呟きながら、そっと妻の顔色をうかがった。彼は背丈も高いし、肩も胸も幅ひろく厚く、肉のひき緊ったいい躯である。ふっくらとまるい顔はたいそう柔和で、尻下りの眼や小さな唇つきには、育ちの良い少年のような清潔さが感じられた。
「ええ、それはそうですけれど」
おたよは縫ったところを爪でこきながら、良人のほうは見ずに云った。
「みなさんももう少し親切にしてあげたらと思いますわ、あの方は除け者にされていると思って、淋しいので、ついあんなに気をお立てになるんですもの」
「それもあるでしょうが、それにはあの女の人がもう少しなんとか」
伊兵衛はぴくっとした。女がついに人の名をさしたのである。
「なんとか云わないか、え、そこにいる説教節の爺い」
女の声はなにかを突刺すようだった。
「――しらばっくれたってだめだよ、あたしゃ盲じゃないんだ、おまえが盗んだぐらいのことは初めっからわかってるんだ、いつかだって」
伊兵衛はとびあがった。
「いけません、あなた」
おたよが止めようとしたが、彼は襖をあけて出ていった。
そこは農家の炉の間に似た部屋で、片方が店先から裏へぬける土間になっている。畳は六帖と八帖が鍵形につながって敷かれ、上り端の板敷との間に大きな炉が切ってある。農家と違うのは天床が低いのと、たいていの客がべつに部屋を取らず、そこでこみあって寝るし、鍋釜を借りてその炉で煮炊きもするため、それらに必要な道具類が並んでいることなどであった。
その女は炉端にいた。片手をふところに入れ、立膝をして、蒼白く不健康に痩せた顔をひきつらせ、ぎらぎらするような眼であたりを睨みまわし、そうして劈くような声で喚きたてる、――他の客たちはみな離れて、膝を抱えてうなだれたり、寝そべったり、子供をしっかり抱いたりして、じっと息をころしていた。それは嵐の通過するのを辛抱づよく待っている喪家の犬といった感じだった。
「失礼ですがもうやめて下さい」
伊兵衛は女の前へいって、やさしくなだめるように云った。
「此処にはそんな悪い人はいないと思うんです、みんな善い人たちで、それは貴女も知っていらっしゃるでしょう」
「放っといて下さい」女はそっぽを向いた、「――お武家さんには関わりのないことですよ、あたしゃ卑しい稼業こそしていますがね、自分の物を盗まれて黙ってるほど弱い尻は持っちゃいないんですから」
「そうですとも、むろんそうですよ、しかしそれは私が償いますから、どうかそれで勘弁することにして下さい」
「なにもお武家さんにそんな心配をして頂くことはありませんよ、あたしゃ物が惜しくって云ってるんじゃないんですから」
「そうですとも、むろんですよ、しかし人間には間違いということもあるし、お互いにこうして同じ屋根の下にいることでもあるし、とにかくそこは、どうかひとつ、私がすぐになんとかして来ますから」
それだけ云うと、伊兵衛はなにやら忙しそうに立っていった。
「誓文は誓文、これはこれ」
宿の名を大きく書いた番傘をさして、外へ出るとすぐ彼はこう独り言を云い、擽られでもするように微笑をうかべた。
「眼の前にこういう事が起こった以上、自分の良心だけ守るというわけにはいきませんからね、ええ、それは却って良心に反する行為ですよ、いや」彼はふとまじめな顔になり、「――いや、なにもしないんだから行為とはいわないでしょう、無行為、ともいわないですね」
わけのわからないことを呟きながら、ひどくいそいそと、元気な足どりで、城下町のほうへ歩いていった。