青山邸では酒肴のもてなしを受けた。
相客はなく、主膳と二人だけで、林という若い家士が給仕をした。老職というがどのくらいの身分であるか、ずいぶん広大な構えだし、客間から見える中庭の樹石も、尋常よりは凝ったもののようであった。
主膳は朝の出来事には触れず、礼を述べるとすぐに伊兵衛の手腕を褒めだした。
「実は道から拝見していたのだが、かれらも相当に腕自慢なのだが、まるで子供のようにあしらわれたのには一驚でした、失礼だが御流儀は」
「はあ、小野派と抜刀をやりました、しかしもちろんまだ未熟でして」
「無用な御謙遜は措いて、それだけのお腕前をもちながら浪人しておられるには、なにか仔細のあることと思うが、もし差支えなければお話し下さらぬか」
「それはもう、仔細というほどのことはなし、まるでお笑い草のようなものですが」
伊兵衛は身の上のあらましを話した。習慣として旧主家の名はそれとは云わない。ほのめかす程度で相手も納得するわけであるが、彼の話しぶりの謙譲さが、内容の不明確さを補ったとみえ、浪人した理由も、その後の任官がうまくいかなかったわけも、主膳にはおよそ理解がついたようであった。
「そういうことも有りそうですな、うむ、私などには奥ゆかしく思われる御性分が、他のばあいには却って邪魔になる、まわりあわせというか、運不運というか、宿命というか」主膳はなにやら云って頷いて、「――では剣法のほかにも弓馬槍術、やわらなども御堪能なわけですな」
「堪能などとはとんでもない、申上げたとおりまことに疎忽なものでございまして」
「いやわかりました、うちあけて云うとこんな早急にお招きしたのは、私のほうにも一つお願いがあるのです」
つまりもういちどここで腕を見せて貰いたい、実はそのために相手をする者を三人待たせてある、というのであった。そのときはもうかなり酒がはいっていた。主膳が意識的に飲ませたようでもあるが、伊兵衛はどちらかというと少し酔っているほうがいいので、むろん快活に承知した。
「よろしかったら唯今でも結構です」
「では御迷惑でもあろうが」
主膳が声をかけると牛尾大六が来た。次の間にいたらしい。あちらの用意をきいてまいれと云われ、さがっていったが、すぐに用意のできていることを復命した。
案内されたのは道場であった。この家に付いて建てられたもので、母屋の廊下を二た曲りしたところに在り、小さいながらも造りも正式だし、控え部屋もあるもようだった。……主膳のあとから伊兵衛が入ってゆくと、その控えのほうからも三人、こちらと間を合わせるように出て来た。だがどうしたことか、その三人の中の一人は、伊兵衛の姿を見るとぎょっとし、伴れの者になにごとか云うと、そのまま控え部屋へ引返してしまった。
伊兵衛はべつに気にもとめず、隅へいって袴の股立をしぼり、大六の持って来た木刀の中からよく選みもせずに一本取った。鉢巻も襷もしないのである。向うでも一人が支度をし、やや長い木刀を持って、主膳になにか囁いていた。二十七八になる小柄な青年で、色の黒い精悍そうな顔に、白い歯が際立ってみえた。
やがて主膳の紹介で二人は相対した。青年は原田十兵衛というそうで、伊兵衛の構えを見ると、にやっと微笑した。腰の伸びた間のぬけたような構えが可笑しかったらしい。伊兵衛はそうとも知らず、眼を細くして頬笑み返し、おまけにひょいとおじぎをしたので、原田青年は危うく失笑しそうになった。むろん失笑しはしない。辛くもがまんしたが、大いに気は楽になったらしく、積極的に掛け声をあげて、頻りに闘志の旺んなところを示した。
伊兵衛の構えはずんべらぼうとしたものだった。まるっきり捉まえどころがない。逞しく厚い肩を少し前跼みにして、木刀を前へつき出して、尻下りの眼でものやさしげに相手を眺めている。うっかりすると睨めっこでも始めそうな恰好だった。
原田青年が鋭く叫び、非常な勢いで躯ごと打ち込んだ。小柄な躯がつぶての飛ぶように見えた。が、伊兵衛はただ爪尖で立って、木刀をすっと頭上へ挙げただけである。原田青年はすっ飛んでいって道場の羽目板へ頭でもって突き当り、独りではね返って、ぶっ倒れて、だがすぐ半身を起こして、ちょっと考えて、「まいった」と叫んだ。
「どうも済みません」伊兵衛は恐縮そうにおじぎをした、「――失礼致しました」
次は鍋山又五郎という三十六七の男で、これはおそらく師範役であろう。静かな眼になみなみならぬ光りがあり、態度も沈着で、隙のないおちつきをみせていた。
「少し荒いかもしれません」鍋山は平静な声でそう云った、「――どうかそのおつもりで」
「は、どうかなにぶん、よろしく」
伊兵衛は気軽くおじぎをし、まえと同じ構えで、まえと同じようにものやさしく相手を見た。鍋山は左の足をぐっと引いて半身になり、木刀の尖を床につくほど下げ、(地摺り青眼とでもいうのか)凄味のある構えで、じんわりと伊兵衛の眼に見いった。
こんどは少し暇がかかった。どちらも黙っているし、びくっとも動かない。ただ伊兵衛がずんべらぼうとしているのに、鍋山の五躰はしだいに精気が満ち、その眼光は殺気をさえ帯びてくるようであった。そうしてかなりの時間が経つうちに、鍋山の木刀の尖は悠くりと、眼に見えぬくらい緩慢な動きで、少しずつ、少しずつすり上り、いつかしら、やや低めの青眼に変った。
機は熟したようだ。緊張は頂点に達し、まさに火花が発するかと思えた。
そのとき伊兵衛の木刀が動いて、相手の木刀をひょいと叩いた。ごく軽く冗談のようにひょいと叩いたのであるが、相手の木刀は尖端を下に向けて落ち、ばきっといったふうな音をたてて床板に突立った。
「あ、これはどうも」伊兵衛はうろたえて頭に手をやり、「――どうもこれは、とんだことを致しました、大事な道場へ傷をつけてしまいまして、これはなんとも、どうも」
そして突立った木刀を抜いて、穴のあいた床板を済まなそうに撫でた。
鍋山又五郎は惘然と立ったままだった。