伊兵衛は日が昏れてから宿へ帰った。
たいへん上機嫌で、酒に赤くなった顔をにこにこさせて、これは戴いた土産だと、大きな菓子の折を妻に渡した。
「夕食を待っていて呉れるだろうと思ったんだけれど、あまり熱心にすすめられるのでついおそくなってね、ええ」
彼は着替えをするあいだも、うきうきと話し続けた。
「――もっと早く、ほんのもう一刻もすれば帰れると思っていたんだが、たいへん御馳走になったりして、それに話もあったものですからねえ」
脱いだ物を片づけていたおたよは、着物の袂から紙包をみつけて、不審そうに良人を見た。その重みと手触りで、金だということがわかったからである。
「ああ忘れていた、すっかり忘れていましたよ、それは青山さんから貰いましてね、御前へあがるのに必要な支度をするようにって」
「御前と仰しゃいますと」おたよは不安そうに訊き返した、「――それにいま何誰かとも仰しゃいましたけれど、わたくしにはなにがなにやらわかりませんわ」
「そうそう、そうですとも、少し酔ってるんですよ、ええ、済まないが水を一杯下さい」
伊兵衛は水を飲みながら話しだした。
こんどは調子が渋くなり、言葉づかいもずっとおちついてきた。夫婦のあいだではもう長いこと「仕官」の話は禁物のようになっていた。あまりにたび重なる失敗で、お互いが希望をもつことを避け、できるだけその問題に触れないようにしていたのである。初めは嬉しまぎれと酔った勢いで、つい彼ははしゃいでしまったが、妻の顔色でようやく冷静にかえり、今日あった事をかい摘んで、いかにもさりげなく語った。
「ではお三方と試合をなさいましたのですか」
「いや二人ですよ、一人はなにか急に故障が出来たそうで、その道場までは来たんだが、……しかし本当はこの次の試合まで待たせたのかもしれませんね、改めて城中で正式にやることになったんですから」
おたよは用心ぶかく、諦めた顔つきで頷いただけだった、それは、「あまり期待なさらないように」と云いたいのであるらしい。伊兵衛もむろんと云ったふうに、「どっちでもいいんだけれど、向うが折角そう云って呉れるんですからねえ、それに支度金でなにか買えばそれだけ儲かるし、いやいや、とんでもない、これは冗談ですよ」
こう云ってから、ちょっと意気ごんで、「――だがともかく青山という人は人物らしい、これまでの事もすっかり話しましたがねえ、その理解のして呉れ方がまるで違うんですよ、ええ、ほかの人間とは桁違いなんです、おまけに幸運というかどうか、ちょうど殿様の教育係を捜しているんだそうで、弓とか槍とか乗馬なども一流の者が欲しい、たいそう武芸に熱心な殿様なんだそうで、もちろんそれだからといって喜びやしませんが、ええ、しかしこんどはどうやら、まあ、なんとかこんどはという気がするんですよ」
「それではもう、お夕餉は召上らぬのでございますか」
おたよはさりげなく話をそらした。良人の気持にまきこまれまい、話だけで信用してはいけない。こう自分を抑えているようすが、伊兵衛にはいかにも哀れに思えるのであった。
翌日もやはり雨が降っていたが、彼は城下町までいって、出来合の裃や鼻紙袋や、扇子、足袋、履物などを買い、かなり金が余るので、妻のために釵を買った。
――おたよに物を買うなんて久方ぶりだなあ。
多少いい心もちになったが、道へ出て歩きだすと、例のどこか刺されでもしたような表情でぎゅっと眉をしかめた。
――冗談じゃない。
久方ぶりどころか、妻のために物を買うなどということは初めてである。結婚して八年半、彼女が実家から持って来た物は、すべて売ってしまった。松平家を退身するときには、まだ小さな道具類は持っていたが、それも放浪ちゅうに残らず売ってしまった。しかもこちらから買ってやった物は一つもないのである。彼はしょげて、溜息をついた。それから急に顔をあげ喧嘩でも売るようなぐあいに、「だがこんどは正夢ですからね」こう呟いて天を睨めつけた、「――使いの来るすぐまえに前兆もあり、あらゆる条件が揃ってるんだから、それにもうそろそろ、いくらなんでもそろそろ時節が来てもいい頃だよ」
伊兵衛は元気に雨のなかを歩きだした。
それから五日めにとつぜん雨があがった。前の晩の夜半までそんなけぶりさえなく、無限のようにしとしと降っていたのが、明けてみるとからっと晴れて、それこそぬけるような青空にきらきらと日が照っていた。
「あがったぞ、雨があがったぞ、天気になったぞ」
同宿者たちの一人ひとりが、空を見あげてはそう叫んだ。生活をとり戻した者の素朴なそして正に歓喜にわきたつような声であった。そして伊兵衛のところへも主膳から使者が来た。登城の支度で来い、というのである。
「すばらしい吉兆ですね、これは」
伊兵衛はにこにこしながらそう云いかけたが、妻の諦めた顔を見ると慌てて、「私のほうはなんだけれども、みんな二十日以上も降りこめられていたんだからねえ、これでみんな救われますよ、ええ、あの喜びようをごらんなさい、私たちまで嬉しくなってしまうでしょう」
「わたくしも出立の支度をしておきますわ」
「そうですね、そう」彼はちょっと妻を見て、「――しかし今日というわけにはいかないですよ、帰りがおそくなるかもしれませんからね」
「足袋を先にお召しあそばせ」
おたよはやはりさりげなく話をそらした。