← Library‹ 雨あがる 六

伊兵衛いへえは日ひが昏くれてから宿やどへ帰かえった。

たいへん上じょう機嫌きげんで、酒さけに赤あかくなった顔かおをにこにこさせて、これは戴いただいた土産みやげだと、大おおきな菓子かしの折おりを妻つまに渡わたした。

「夕食ゆうしょくを待まっていて呉くれるだろうと思おもったんだけれど、あまり熱心ねっしんにすすめられるのでついおそくなってね、ええ」

彼かれは着替きがえをするあいだも、うきうきと話はなし続つづけた。

「――もっと早はやく、ほんのもう一刻ときもすれば帰かえれると思おもっていたんだが、たいへん御ご馳走ちそうになったりして、それに話はなしもあったものですからねえ」

脱ぬいだ物ものを片かたづけていたおたよは、着物きものの袂たもとから紙包かみづつみをみつけて、不審ふしんそうに良人おっとを見みた。その重おもみと手触てざわりで、金かねだということがわかったからである。

「ああ忘わすれていた、すっかり忘わすれていましたよ、それは青山あおやまさんから貰もらいましてね、御前ごぜんへあがるのに必要ひつような支度したくをするようにって」

「御前ごぜんと仰おっしゃいますと」おたよは不安ふあんそうに訊きき返かえした、「――それにいま何なん誰だれかとも仰おっしゃいましたけれど、わたくしにはなにがなにやらわかりませんわ」

「そうそう、そうですとも、少すこし酔よってるんですよ、ええ、済すまないが水みずを一杯いっぱい下ください」

伊兵衛いへえは水みずを飲のみながら話はなしだした。

こんどは調子ちょうしが渋しぶくなり、言葉ことばづかいもずっとおちついてきた。夫婦ふうふのあいだではもう長ながいこと「仕官しかん」の話はなしは禁物きんもつのようになっていた。あまりにたび重かさなる失敗しっぱいで、お互たがいが希望きぼうをもつことを避さけ、できるだけその問題もんだいに触ふれないようにしていたのである。初はじめは嬉うれしまぎれと酔よった勢いきおいで、つい彼かれははしゃいでしまったが、妻つまの顔色かおいろでようやく冷静れいせいにかえり、今日きょうあった事ことをかい摘つまんで、いかにもさりげなく語かたった。

「ではお三さん方ほうと試合しあいをなさいましたのですか」

「いや二人ふたりですよ、一人ひとりはなにか急きゅうに故障こしょうが出来できたそうで、その道場どうじょうまでは来きたんだが、……しかし本当ほんとうはこの次つぎの試合しあいまで待またせたのかもしれませんね、改あらためて城中じょうちゅうで正式せいしきにやることになったんですから」

おたよは用心ようじんぶかく、諦あきらめた顔かおつきで頷うなずいただけだった、それは、「あまり期待きたいなさらないように」と云いいたいのであるらしい。伊兵衛いへえもむろんと云いったふうに、「どっちでもいいんだけれど、向むこうが折角せっかくそう云いって呉くれるんですからねえ、それに支度したく金きんでなにか買かえばそれだけ儲もうかるし、いやいや、とんでもない、これは冗談じょうだんですよ」

こう云いってから、ちょっと意気いきごんで、「――だがともかく青山あおやまという人ひとは人物じんぶつらしい、これまでの事こともすっかり話はなしましたがねえ、その理解りかいのして呉くれ方かたがまるで違ちがうんですよ、ええ、ほかの人間にんげんとは桁けた違いなんです、おまけに幸運こううんというかどうか、ちょうど殿との様さまの教育きょういく係かかりを捜さがしているんだそうで、弓ゆみとか槍やりとか乗馬じょうばなども一流いちりゅうの者ものが欲ほしい、たいそう武芸ぶげいに熱心ねっしんな殿との様さまなんだそうで、もちろんそれだからといって喜よろこびやしませんが、ええ、しかしこんどはどうやら、まあ、なんとかこんどはという気きがするんですよ」

「それではもう、お夕餉ゆうげは召上めしあがらぬのでございますか」

おたよはさりげなく話はなしをそらした。良人おっとの気持きもちにまきこまれまい、話はなしだけで信用しんようしてはいけない。こう自分じぶんを抑おさえているようすが、伊兵衛いへえにはいかにも哀あわれに思おもえるのであった。

翌日よくじつもやはり雨あめが降ふっていたが、彼かれは城下じょうか町ちょうまでいって、出来合できあいの裃かみしもや鼻紙はながみ袋ふくろや、扇子せんす、足袋たび、履物はきものなどを買かい、かなり金きんが余あまるので、妻つまのために釵かんざしを買かった。

――おたよに物ものを買かうなんて久方ひさかたぶりだなあ。

多少たしょういい心こころもちになったが、道みちへ出でて歩あるきだすと、例れいのどこか刺さされでもしたような表情ひょうじょうでぎゅっと眉まゆをしかめた。

――冗談じょうだんじゃない。

久方ひさかたぶりどころか、妻つまのために物ものを買かうなどということは初はじめてである。結婚けっこんして八はち年ねん半はん、彼女かのじょが実家じっかから持もって来きた物ものは、すべて売うってしまった。松平まつだいら家かを退身たいしんするときには、まだ小ちいさな道具どうぐ類るいは持もっていたが、それも放浪ほうろうちゅうに残のこらず売うってしまった。しかもこちらから買かってやった物ものは一ひとつもないのである。彼かれはしょげて、溜息ためいきをついた。それから急きゅうに顔かおをあげ喧嘩けんかでも売うるようなぐあいに、「だがこんどは正夢まさゆめですからね」こう呟つぶやいて天てんを睨にらめつけた、「――使つかいの来くるすぐまえに前兆ぜんちょうもあり、あらゆる条件じょうけんが揃そろってるんだから、それにもうそろそろ、いくらなんでもそろそろ時節じせつが来きてもいい頃ころだよ」

伊兵衛いへえは元気げんきに雨あめのなかを歩あるきだした。

それから五いつ日かめにとつぜん雨あめがあがった。前まえの晩ばんの夜半やはんまでそんなけぶりさえなく、無限むげんのようにしとしと降ふっていたのが、明あけてみるとからっと晴はれて、それこそぬけるような青空あおぞらにきらきらと日ひが照てっていた。

「あがったぞ、雨あめがあがったぞ、天気てんきになったぞ」

同宿どうしゅく者しゃたちの一人ひとりひとりが、空そらを見みあげてはそう叫さけんだ。生活せいかつをとり戻もどした者ものの素朴そぼくなそして正まさに歓喜かんきにわきたつような声こえであった。そして伊兵衛いへえのところへも主膳しゅぜんから使者ししゃが来きた。登城とじょうの支度したくで来こい、というのである。

「すばらしい吉兆きっちょうですね、これは」

伊兵衛いへえはにこにこしながらそう云いいかけたが、妻つまの諦あきらめた顔かおを見みると慌あわてて、「私わたくしのほうはなんだけれども、みんな二十はつ日か以上いじょうも降ふりこめられていたんだからねえ、これでみんな救すくわれますよ、ええ、あの喜よろこびようをごらんなさい、私わたくしたちまで嬉うれしくなってしまうでしょう」

「わたくしも出立しゅったつの支度したくをしておきますわ」

「そうですね、そう」彼かれはちょっと妻つまを見みて、「――しかし今日きょうというわけにはいかないですよ、帰かえりがおそくなるかもしれませんからね」

「足袋たびを先さきにお召めしあそばせ」

おたよはやはりさりげなく話はなしをそらした。

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