伊兵衛は午後おそく、日の傾く頃に帰って来た。
首尾は上々だったのだろう、こみあげてくる嬉しさを懸命に抑えているが、抑えても抑えてもこみあげてくるので、われながら始末に困るといったふうな、不安定な渋い顔をしていた。
「帰りに青山さんへ寄ったものだから」
彼はこう云って、大きな包をそこへ置いた。
「――祝いにどうしても一盞ということで、もちろん今日は辞退したけれども、寄らないのも失礼ですからねえ、これは殿様からの引出物です」
家紋を打った紙に包まれた包が二つ、おたよはどきっとしたようすであるが、すぐ平静にかえって、そっと押戴いて隅へ片づけた。
「今日はひとつ、飲ませて下さい」
伊兵衛は裃を脱ぎながら云った。
「はいかしこまりました」
おたよもその返辞だけは明るかった。
大体としてこういう安宿には風呂はない。彼は十町ばかり西の宿にある銭湯へいって来て、それからつつましい酒の膳に向った。おたよは給仕をしながら、同宿者の誰それと誰それが出立したこと、誰それと誰それは明日立つこと、出立した人々の伝言や、お互いに泣き合ったことなどを、しみじみとした口ぶりで、珍しく多弁に語った。
「こういうお宿へ泊る方たちとは、ずいぶんたくさんお近づきになりましたけれど、みなさんやさしい善い方ばかりでしたわね、自分の暮しさえ満足でないのに、いつも他人のことを心配したり、他人の不幸に心から泣いたり、僅かな物を惜しみもなく分けたり、……ほかの世間の人たちとはまるで違って、哀しいほど思い遣りの深い、温かな人たちばかりでしたわ」
「貧しい者はお互いが頼りですからね、自分の欲を張っては生きにくい、というわけだろうね」
「説教節のお爺さんはこう云っておいででした、もうお眼にはかかれませんが、どこへいってもお二人の御繁昌を祈っております」おたよはそっと眼を伏せた、「――それから涙を拭いて、このあいだのことは死ぬまで忘れません、あんなに有難い、嬉しいことは生れて来て初めてだった、世の中はいいものだということを、この年になって初めて知りましたって……わたくし胸が詰ってしまいました」
「もうよしましょう、私にはそういうおたよのほうがもっと哀しい、辛いですから」
伊兵衛はしぼんだ顔になり、それから急に浮きたつように云った。
「しかしもうこれもおしまいです、と云ってもいいと思うんだが、実は今日は食禄の高までほぼ内定したんでねえ」
「――このまえにも、いちど」
「いや今日は違うんですよ、剣術もやったし、弓は五寸の的を二十八間まで延ばしたし、馬は木曽産の黒で、まだ乗った者がないという悍馬をこなしましたがね、それはそれとして話はべつなんです」
藩主は永井氏で信濃守篤明といい、まだ世継ぎをして間のない、二十そこそこの若さだったが、たいそう武芸に熱心であり、また大いに藩政改革をやろうという、新進気鋭の人であった。そして伊兵衛の技倆を見て、ぜひ当家に仕えるようにと云ったが、それは前任者を排して召抱えるのではなく、新たに人増しをするというのであった。
「それだからといって、絶対だとはむろん思いはしないけれども、とにかくこんどはね、そこまで疑うというのもねえ」
「それはそうでございますとも」おたよはそらすように頷いた。「――お代りをつけましょうか、お食事になさいますか」
「そうだね、そう、食事にしましょう」
久しぶりで充分に腕だめしをして、彼の全身は爽快な疲れと満足に溢れていた。そのうえ仕官の望みは九分どおり確実である。これまでの例があるから、妻は信じようとしないし、できるだけそのことに触れたくないようであるが、伊兵衛としてはそれが哀れであり、どうかして(断言はせずに)少しでも安心させてやりたいと願わずにはいられなかった。
明くる日は同宿者のうちから三人出立していった。タガ直しの源さんの女房は、背負った子供を揺りあげしながら、「もうお眼にかかれませんわねえ、どうかお二人ともお大事になすって下さいましよ、御出世をなさるようにお祈り申しておりますからねえ、ほんとにいろいろと御親切にして頂いて、お世話さまでございましたよう」
こう云って袖口で涙を拭いた。
「みなさんが定って、もうお眼にかかれないと仰しゃるのね」おたよがあとで云った、「――これまでも定ったようにそう仰しゃいましたわ、どうしてまたいつか会いたいと仰しゃらないのでしょうか」
伊兵衛はさあねと云って、うろたえたように眼をそらした。
――あの人たちには今日しかない、自分自身の明日のことがわからない、今いっしょにいることは信じられるが、また会えるという望みは、もつことができないのである。
それは旅を渡るかれらに限ったことではない、人間はすべて、……こんなふうなしめっぽい感想がうかんだからであった。
夕方になると新たな客が五人来た。中に猿廻しがいて、夕食のあとで猿に芸をさせてみせ、自分でも諸国の珍しい鄙唄などうたった。同宿者たちは大いに喜んだが、猿廻しが頃合をみはからって、「みんなが少しお鳥目をはずんで呉れれば、これから猿に閨ごとを踊らせてみせる」と云うと、かれらはみれんなくそこを離れて、居場所へ戻ってしまった。
その翌朝。食事を済ませると間もなく、おたよは荷物を片づけ始めた。
「今日はいいお日和でございますわ」なにかを包みながら、独り言のように彼女はそう云った、「――少し雲があるくらいな日でも、あの峠はよく雨が降るそうですから、越すなら今日のような日がいいと云いますわ」