← Library‹ 雨あがる 七

伊兵衛いへえは午後ごごおそく、日ひの傾かたむく頃ころに帰かえって来きた。

首尾しゅびは上々じょうじょうだったのだろう、こみあげてくる嬉うれしさを懸命けんめいに抑おさえているが、抑おさえても抑おさえてもこみあげてくるので、われながら始末しまつに困こまるといったふうな、不ふ安定あんていな渋しぶい顔かおをしていた。

「帰かえりに青山あおやまさんへ寄よったものだから」

彼かれはこう云いって、大おおきな包つつみをそこへ置おいた。

「――祝いわいにどうしても一盞いっさんということで、もちろん今日きょうは辞退じたいしたけれども、寄よらないのも失礼しつれいですからねえ、これは殿との様さまからの引出ひきで物ものです」

家紋かもんを打うった紙かみに包つつまれた包つつみが二ふたつ、おたよはどきっとしたようすであるが、すぐ平静へいせいにかえって、そっと押おし戴いただいて隅すみへ片かたづけた。

「今日きょうはひとつ、飲のませて下ください」

伊兵衛いへえは裃かみしもを脱ぬぎながら云いった。

「はいかしこまりました」

おたよもその返辞へんじだけは明あかるかった。

大体だいたいとしてこういう安宿やすやどには風呂ふろはない。彼かれは十じゅう町ちょうばかり西にしの宿やどにある銭湯せんとうへいって来きて、それからつつましい酒さけの膳ぜんに向むかった。おたよは給仕きゅうじをしながら、同宿どうしゅく者しゃの誰だれそれと誰だれそれが出立しゅったつしたこと、誰だれそれと誰だれそれは明日あす立たつこと、出立しゅったつした人々ひとびとの伝言でんごんや、お互たがいに泣なき合あったことなどを、しみじみとした口くちぶりで、珍めずらしく多弁たべんに語かたった。

「こういうお宿やどへ泊とまる方かたたちとは、ずいぶんたくさんお近ちかづきになりましたけれど、みなさんやさしい善よい方かたばかりでしたわね、自分じぶんの暮くらしさえ満足まんぞくでないのに、いつも他人たにんのことを心配しんぱいしたり、他人たにんの不幸ふこうに心こころから泣ないたり、僅わずかな物ものを惜おしみもなく分わけたり、……ほかの世間せけんの人ひとたちとはまるで違ちがって、哀かなしいほど思おもい遣やりの深ふかい、温あたたかな人ひとたちばかりでしたわ」

「貧まずしい者ものはお互たがいが頼たよりですからね、自分じぶんの欲よくを張はっては生いきにくい、というわけだろうね」

「説教せっきょう節せつのお爺じいさんはこう云いっておいででした、もうお眼めにはかかれませんが、どこへいってもお二人ふたりの御ご繁昌はんじょうを祈いのっております」おたよはそっと眼めを伏ふせた、「――それから涙なみだを拭ふいて、このあいだのことは死しぬまで忘わすれません、あんなに有難ありがたい、嬉うれしいことは生うまれて来きて初はじめてだった、世よの中なかはいいものだということを、この年としになって初はじめて知しりましたって……わたくし胸むねが詰なじってしまいました」

「もうよしましょう、私わたくしにはそういうおたよのほうがもっと哀かなしい、辛つらいですから」

伊兵衛いへえはしぼんだ顔かおになり、それから急きゅうに浮うきたつように云いった。

「しかしもうこれもおしまいです、と云いってもいいと思おもうんだが、実じつは今日きょうは食禄しょくろくの高たかまでほぼ内定ないていしたんでねえ」

「――このまえにも、いちど」

「いや今日きょうは違ちがうんですよ、剣術けんじゅつもやったし、弓ゆみは五ご寸すんの的まとを二十にじゅう八はち間けんまで延のばしたし、馬うまは木曽きそ産さんの黒あおで、まだ乗のった者ものがないという悍馬かんばをこなしましたがね、それはそれとして話はなしはべつなんです」

藩主はんしゅは永井ながい氏しで信濃しなの守まもる篤あつし明あきらといい、まだ世継よつぎをして間まのない、二十にじゅうそこそこの若わかさだったが、たいそう武芸ぶげいに熱心ねっしんであり、また大おおいに藩政はんせい改革かいかくをやろうという、新進しんしん気鋭きえいの人ひとであった。そして伊兵衛いへえの技倆ぎりょうを見みて、ぜひ当家とうけに仕つかえるようにと云いったが、それは前任ぜんにん者しゃを排はいして召抱めしかかえるのではなく、新あらたに人ひと増ましをするというのであった。

「それだからといって、絶対ぜったいだとはむろん思おもいはしないけれども、とにかくこんどはね、そこまで疑うたがうというのもねえ」

「それはそうでございますとも」おたよはそらすように頷うなずいた。「――お代かわりをつけましょうか、お食事しょくじになさいますか」

「そうだね、そう、食事しょくじにしましょう」

久ひさしぶりで充分じゅうぶんに腕うでだめしをして、彼かれの全身ぜんしんは爽快そうかいな疲つかれと満足まんぞくに溢あふれていた。そのうえ仕官しかんの望のぞみは九きゅう分ふんどおり確実かくじつである。これまでの例れいがあるから、妻つまは信しんじようとしないし、できるだけそのことに触ふれたくないようであるが、伊兵衛いへえとしてはそれが哀あわれであり、どうかして(断言だんげんはせずに)少すこしでも安心あんしんさせてやりたいと願ねがわずにはいられなかった。

明あくる日ひは同宿どうしゅく者しゃのうちから三さん人にん出立しゅったつしていった。タガ直なおしの源みなもとのさんの女房にょうぼうは、背負せおった子供こどもを揺ゆりあげしながら、「もうお眼めにかかれませんわねえ、どうかお二人ふたりともお大事だいじになすって下くださいましよ、御ご出世しゅっせをなさるようにお祈いのり申もうしておりますからねえ、ほんとにいろいろと御ご親切しんせつにして頂いただいて、お世話せわさまでございましたよう」

こう云いって袖口そでぐちで涙なみだを拭ふいた。

「みなさんが定さだまって、もうお眼めにかかれないと仰おっしゃるのね」おたよがあとで云いった、「――これまでも定さだまったようにそう仰おっしゃいましたわ、どうしてまたいつか会あいたいと仰おっしゃらないのでしょうか」

伊兵衛いへえはさあねと云いって、うろたえたように眼めをそらした。

――あの人ひとたちには今日きょうしかない、自分じぶん自身じしんの明日あすのことがわからない、今こんいっしょにいることは信しんじられるが、また会あえるという望のぞみは、もつことができないのである。

それは旅たびを渡わたるかれらに限かぎったことではない、人間にんげんはすべて、……こんなふうなしめっぽい感想かんそうがうかんだからであった。

夕方ゆうがたになると新あらたな客きゃくが五ご人にん来きた。中なかに猿廻さるまわしがいて、夕食ゆうしょくのあとで猿さるに芸げいをさせてみせ、自分じぶんでも諸国しょこくの珍めずらしい鄙唄ひなうたなどうたった。同宿どうしゅく者しゃたちは大おおいに喜よろこんだが、猿廻さるまわしが頃合ころあいをみはからって、「みんなが少すこしお鳥目とりめをはずんで呉くれれば、これから猿さるに閨ねやごとを踊おどらせてみせる」と云いうと、かれらはみれんなくそこを離はなれて、居い場所ばしょへ戻もどってしまった。

その翌朝よくちょう。食事しょくじを済すませると間まもなく、おたよは荷物にもつを片かたづけ始はじめた。

「今日きょうはいいお日和ひよりでございますわ」なにかを包つつみながら、独ひとり言ごとのように彼女かのじょはそう云いった、「――少すこし雲くもがあるくらいな日ひでも、あの峠とうげはよく雨あめが降ふるそうですから、越こすなら今日きょうのような日ひがいいと云いいますわ」

Next chapter →
Click a word · hold for the whole sentence 0%