店へ帰って寝てからも、さぶはまだ胸がどきどきすると云っていた。そこは仕事場の隣りにある十帖で、栄二とさぶ以下、十七になる伝六、三月にはいった卯吉、定と、小僧たちを合わせた、五人の寝場所になっていた。多市、重七、五郎の三人には、それぞれ自分ひとりの四帖半を与えられているが、こっちの五人はなにもかもこみで、衣類や日用品、蒲団や持物なども、三間の戸納に仕切りがあって、その中へ入れるようになっていた。戸納の反対側は壁、一方は仕事場へ通じる板戸、東側が窓という造りで、栄二とさぶとはその窓際に寝床を並べていた。
三人の小僧たちはもう眠ってい、伝六のやまいだといわれるいびきが、十帖いっぱいにそうぞうしい音をふりまいていた。
「あの三人はなに者だろうな」とさぶが云った、「おのぶの兄だって云ったあの男は、本当におのぶの兄さんなんだろうか」
「嘘っぱちさ、きまってらあ」
「だって、去年から嫁にゆく約束が」
「嘘っぱちさ」と栄二が遮って云った、「おれたちは月に二度ずつかよって、おめえはなにかかにか土産を持ってってる、そのうえ初めっからお互いにざっくばらんで、遠慮のねえ口をききあってたんだ、もしもそんな事情があるとすれば、のぶ公が話さずにいるわけはありゃあしねえよ」
さぶは考えてみてから云った、「――すると、あいつらはなんだろう」
「わからねえ」と栄二は枕の上で頭を左右に振った、「のぶ公を張ってる地廻りかなんかだろうと思うが、のぶ公にきいてみなくっちゃわからねえ」
「可哀そうだな」とさぶは囁くように云った、「そんなやつが付き纏っているとすると、いったいおのぶはどうなるだろう」
栄二は答えなかった。伝六のいびきがひと際高くなり、さぶも黙った。
「にんげんは一寸さきのこともわからねえ」と暫くして栄二が云った、「おれたちにゃあ金も力もねえし、職人としてもまだいちにんめえにはなっちゃいねえ、――さぶ、おめえの気持はよくわかるが、おれたちにいま大事なのは自分のことだ、ここ二、三年でおれたちの一生がきまるんだ、そう云っちゃあ酷かもしれねえが、のぶ公のことは忘れてくれ、おめえ一人にむりを云うんじゃあねえ、おれも女のことは忘れるから」
さぶは息をのみ、寝返って栄二を見た。
「忘れるって」とさぶがきいた、「栄ちゃんにも、誰かいるのか」
「話さなかったか」
「覚えがねえようだな」
「ずいぶんまえっからなんだ」栄二は夜具の中で胸を撫でた、「――本町の両替屋で、綿文ていうとくいのあるのを知ってるだろう」
「ああ、おれも一度いったことがある」
「あそこの中働きでおすえっていう娘がいる」と栄二は囁き声で云った、「色の黒い、ちっちゃな躯つきで、おれのことを大きくなったわね、って云やあがった」
「話の途中だが」とさぶが云った、「――綿文じゃあ栄ちゃんに、娘さんの一人を嫁にくれるってことになってるんじゃねえのか」
「ばか云え」栄二はそう云ってから、ふいとさぶのほうへ振り向いた、「――なんだって、おめえいまなんて云った」
「多市あにいが話してるのを聞いたんだ」さぶは気まずそうに口ごもった、「おらなんにも知らねえけど、綿文では娘の一人を栄ちゃんに」
「よせやい」栄二は枕の上で首を振った、「あんなおちゃっぴいをどうするもんか、それにこっちは半人めえの職人だし向うは大金持の娘だ、冗談じゃあねえ、そんな者を貰ったらそれこそ一生のお荷物だぜ」
「そんなら」とさぶは舌ったるい調子で、さぐるようにきいた、「その、――おすえちゃんていうのは、もう」
「そうじゃあねえ、そうじゃあねえんだ」栄二はさぶの言葉から身をよけるように云った、「向うはなんにも知っちゃあいねえ、おれの独り合点なんだ、おれは昔っから好きで、できたらいつかいっしょになりてえと思ってた、いまでもそう思ってるが、今夜かぎり、そんなことは考えねえことにするよ」
さぶがやや暫くして呟いた、「――いろいろなことがあるんだなあ」
栄二はなにも云わなかった。伝六のいびきが低くなり、小僧の定がなにか寝言を云った。みんな眠ったのかと思われるころ、栄二の囁くような声が聞えた。
「生きていればな」そして彼は溜息をついた、「――生きているうちはな」