← Library‹ さぶ 三の二

下張したばりが終おわった明あくる日ひは十じゅう五ご日にちの休やすみであったが、十じゅう二に月がつのことで、仕事しごとは続つづける筈はずになっていた。にもかかわらず、朝あさめしを済すませてでかける支度したくをしていると、親方おやかたの芳兵衛よしべえが来きて栄二えいじを呼よび、綿めん文ぶんへは五郎ごろうをやるから、おまえはゆかなくてもいいと云いった。

「なぜですか」栄二えいじは戸惑とまどったようにきいた、「私わたくしじゃあいけないんですか」

「五郎ごろうにさぶをつけてやる、おまえは少すこし休やすんでくれ」

「休やすむんですって」

「仕事しごとはみんな手順てじゅんがついてるから、差当さしあたりおまえにやってもらうこともないようだ」と芳兵衛よしべえは冷つめたい口くちぶりで云いった、「――もう日ひもないこった、仕事しごとは来年らいねんのことにして、暮くれいっぱい休やすむがいいだろう」

「なにかわけがあるんですか、私わたくしがなにかしくじりでもしたんですか」

芳兵衛よしべえは眼めをそむけた、「おれの云いわないことはきくな、さぶ、五郎ごろうについてゆけ」

さぶは黙だまって頷うなずき、芳兵衛よしべえは去さっていった。さぶは仕事しごとの包つつみを直なおしながら、栄二えいじの顔かおをうかがうように見みた。栄二えいじの顔かおは白しろくなり、ひき緊しめた唇くちびるにも血ちのけがなかった。

「どうしたんだろう」とさぶが声こえをひそめて囁ささやいた、「昨日きのうまでなんていうこともなかったのにな」

栄二えいじはぼんやりした顔かおで、いいからゆけよと云いい、持もっていた自分じぶんの道具どうぐ袋ふくろを、戸と納おさめの中なかへしまい戻もどして、仕事着しごとぎをふだん着ぎに着替きがえた。――芳かおる古こ堂どうでは仕事しごとの割当わりあてがきまっているから、受持うけもちを外はずされると躯からだがあいてしまう。もちろん小僧こぞうなら手てをあけている時間じかんなどはないけれども、栄二えいじのようにとしが二十にじゅう三さんで、上うえに三さん人にんも兄弟きょうだい子しがいるという、中途ちゅうと半端はんぱな立場たちばだと、こんなとき身みの置おきどころに困こまるのであった。

彼かれは小僧こぞうの卯吉うきちに断ことわって外そとへ出でた。芳兵衛よしべえはおれの云いわないことはきくなと云いった。つまり理由りゆうは云いえないということだろうが、仕事しごとの途中とちゅうで職人しょくにんを替かえるなどという例れいは、よほどの理由りゆうがなければないことで、その理由りゆうが云いえないというのはどういうわけだろうかと思おもい、もちろん見当けんとうもつかないので、目的もくてきもなく街まちをあるいてゆくうちに、彼かれはすっかり頭あたまが混乱こんらんしてしまい、いっそ酒さけでも飲のんでやろうかと、やけな気持きもちにさえなった。

「なぜこれこれだと云いってくれないんだ」栄二えいじは大川端おおかわばたのほうへ向むいながら独ひとり言ごとを云いった、「子飼こがいからそこそこ十じゅう年ねんにもなろうっていうのに、あんまり水臭くせえじゃあねえか」

朝あさのことだから、酒さけを飲のませる店みせなどはみつからなかった。両国りょうこく広小路ひろこうじあたりの裏うらとか、河岸かしの水みず茶屋ちゃやのあいだなどに、川かわ人足にんそくや折助おりすけたち相手あいての荒あらっぽい居酒屋いざかやがあるのだが、慣なれない者ものにはわかりにくく、栄二えいじもそれらの店みせの前まえを気きづかずに通とおりすぎ、ぼんやりと橋はしを渡わたりかけた。そのとき東ひがしからこっちへ、小ちいさな風呂敷ふろしき包つつみを抱かかえた女おんなが橋はしを渡わたって来きて、栄二えいじを認みとめると眼めをみはって立停たちどまり、それから小走こばしりに寄よって来きた。

「栄二えいじさんじゃないの、いまじぶんどうしたの」

栄二えいじはふいにおどかされでもしたように、脇わきへ身みをそらして相手あいてを見みた。そして、堀江ほりえ町まちの「すみよし」のおのぶだと気きづくと、知しらない土地とちで古ふるい馴染なじみにでも出会であったような、うれしさとなつかしさとで胸むねがあたたまるのを感かんじた。

「おめえこそ」と彼かれは例れいになくあいそのいい口くちぶりで云いった、「こんな朝あさっぱらからなにをしているんだ」

「お店みせへいくところよ、三み日かまえからうちに帰かえっていたの、栄さかえさんはどこへ」

「当あてなしさ」栄二えいじはおのぶといっしょに、戻もどってあるきだしながら云いった、「――どっかで酒さけを飲のみてえんだが」

「よかったらお店みせへいらっしゃいよ、親方おやかたもおかみさんも栄ひさしさんならいけないとは云いわないでしょ、あたしがなんとかしてあげるわ」

「知しってるうちはちょっと気きまずいな」

「なにが気きまずいもんですか、こんなことはそう珍めずらしくはないのよ」

その代かわりに肴さかなの贅沢ぜいたくは云いわないでねと、おのぶは独ひとりできめて、いそぎ足あしになった。

すみよしへ着ついて裏うらからはいり、栄二えいじはいつもの小しょう座敷ざしきへとおされた。昨夜さくやの客きゃくのあとがざっと片かたづけてあるだけで、隅すみのほうには紙屑かみくずや箸はしなどがちらばっていたり、四、五しご枚まいの座ざ蒲団ふとんが壁かべへ押おしつけてあったりして、空気くうきは強つよい酒さけの匂においに淀よどんでいた。まだ女おんなたちは寝ねているのであろう、雨戸あまどを閉しめた家いえの中なかは、うす暗ぐらくしんとしていて、主人しゅじん夫妻ふさいと話はなしているおのぶの声こえが、山やまの中なかで遠とおい話はなし声ごえを聞きくように、はっきりしない低ひくい調子ちょうしで聞きこえてきた。

「よせばよかったな」寒さむさに身みぶるいをしながら栄さかえ二には呟つぶやいた、「――香こう和わ堂どうのあにいのところへいって相談そうだんするか、それともじかに綿めん文ぶんへいってわけをきくか、どっちかにするほうがよかった」

「そうだ、そのほうが本当ほんとうだった」と彼かれはまた自分じぶんに云いった、「いったい自分じぶんがなにをしたのか、それをはっきりさせるのが先さきだ、やけ酒ざけなんか飲のんだって、なんのたしにもなりゃあしねえぜ」

おのぶがそこへ、残のこりの火ひだねと炭すみを、十能じゅうのうにのせて持もって来きた。

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