下張りが終った明くる日は十五日の休みであったが、十二月のことで、仕事は続ける筈になっていた。にもかかわらず、朝めしを済ませてでかける支度をしていると、親方の芳兵衛が来て栄二を呼び、綿文へは五郎をやるから、おまえはゆかなくてもいいと云った。
「なぜですか」栄二は戸惑ったようにきいた、「私じゃあいけないんですか」
「五郎にさぶをつけてやる、おまえは少し休んでくれ」
「休むんですって」
「仕事はみんな手順がついてるから、差当りおまえにやってもらうこともないようだ」と芳兵衛は冷たい口ぶりで云った、「――もう日もないこった、仕事は来年のことにして、暮いっぱい休むがいいだろう」
「なにかわけがあるんですか、私がなにかしくじりでもしたんですか」
芳兵衛は眼をそむけた、「おれの云わないことはきくな、さぶ、五郎についてゆけ」
さぶは黙って頷き、芳兵衛は去っていった。さぶは仕事の包みを直しながら、栄二の顔をうかがうように見た。栄二の顔は白くなり、ひき緊めた唇にも血のけがなかった。
「どうしたんだろう」とさぶが声をひそめて囁いた、「昨日までなんていうこともなかったのにな」
栄二はぼんやりした顔で、いいからゆけよと云い、持っていた自分の道具袋を、戸納の中へしまい戻して、仕事着をふだん着に着替えた。――芳古堂では仕事の割当てがきまっているから、受持ちを外されると躯があいてしまう。もちろん小僧なら手をあけている時間などはないけれども、栄二のようにとしが二十三で、上に三人も兄弟子がいるという、中途半端な立場だと、こんなとき身の置きどころに困るのであった。
彼は小僧の卯吉に断わって外へ出た。芳兵衛はおれの云わないことはきくなと云った。つまり理由は云えないということだろうが、仕事の途中で職人を替えるなどという例は、よほどの理由がなければないことで、その理由が云えないというのはどういうわけだろうかと思い、もちろん見当もつかないので、目的もなく街をあるいてゆくうちに、彼はすっかり頭が混乱してしまい、いっそ酒でも飲んでやろうかと、やけな気持にさえなった。
「なぜこれこれだと云ってくれないんだ」栄二は大川端のほうへ向いながら独り言を云った、「子飼いからそこそこ十年にもなろうっていうのに、あんまり水臭えじゃあねえか」
朝のことだから、酒を飲ませる店などはみつからなかった。両国広小路あたりの裏とか、河岸の水茶屋のあいだなどに、川人足や折助たち相手の荒っぽい居酒屋があるのだが、慣れない者にはわかりにくく、栄二もそれらの店の前を気づかずに通りすぎ、ぼんやりと橋を渡りかけた。そのとき東からこっちへ、小さな風呂敷包みを抱えた女が橋を渡って来て、栄二を認めると眼をみはって立停り、それから小走りに寄って来た。
「栄二さんじゃないの、いまじぶんどうしたの」
栄二はふいにおどかされでもしたように、脇へ身をそらして相手を見た。そして、堀江町の「すみよし」のおのぶだと気づくと、知らない土地で古い馴染にでも出会ったような、うれしさとなつかしさとで胸があたたまるのを感じた。
「おめえこそ」と彼は例になくあいそのいい口ぶりで云った、「こんな朝っぱらからなにをしているんだ」
「お店へいくところよ、三日まえからうちに帰っていたの、栄さんはどこへ」
「当てなしさ」栄二はおのぶといっしょに、戻ってあるきだしながら云った、「――どっかで酒を飲みてえんだが」
「よかったらお店へいらっしゃいよ、親方もおかみさんも栄さんならいけないとは云わないでしょ、あたしがなんとかしてあげるわ」
「知ってるうちはちょっと気まずいな」
「なにが気まずいもんですか、こんなことはそう珍しくはないのよ」
その代りに肴の贅沢は云わないでねと、おのぶは独りできめて、いそぎ足になった。
すみよしへ着いて裏からはいり、栄二はいつもの小座敷へとおされた。昨夜の客のあとがざっと片づけてあるだけで、隅のほうには紙屑や箸などがちらばっていたり、四、五枚の座蒲団が壁へ押しつけてあったりして、空気は強い酒の匂いに淀んでいた。まだ女たちは寝ているのであろう、雨戸を閉めた家の中は、うす暗くしんとしていて、主人夫妻と話しているおのぶの声が、山の中で遠い話し声を聞くように、はっきりしない低い調子で聞えてきた。
「よせばよかったな」寒さに身ぶるいをしながら栄二は呟いた、「――香和堂のあにいのところへいって相談するか、それともじかに綿文へいってわけをきくか、どっちかにするほうがよかった」
「そうだ、そのほうが本当だった」と彼はまた自分に云った、「いったい自分がなにをしたのか、それをはっきりさせるのが先だ、やけ酒なんか飲んだって、なんのたしにもなりゃあしねえぜ」
おのぶがそこへ、残りの火だねと炭を、十能にのせて持って来た。